ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

維新を想う

2019-03-25 12:42:42 | 日記・エッセイ・コラム
いよいよ選挙の火蓋が切られた。
統一地方選挙である。
なかでも大阪が面白い。
私は関西在住ではあるが大阪府民ではない。
でも面白いのだ。
非常に興味がある。
東京の人等はあまり関心がなさそうだ。
日本に与える影響は大きいと思うのに。
だからこそ注目してるのだ。
・・・・・
注目してるのは議員の選挙ではない。
知事と市長の選挙である。
ともに現職の知事と市長を入れ替えて戦うという、
それだけを見れば意味不明なのだが、
府市統合の都構想を前に進めるため、
敢えて戦うということである。
都構想が思うように進まないことに対する、
大阪維新の会の決断であり、
巷では暴挙とも言われるが、
つまりは政治家の覚悟です。
まあ覚悟に至る経緯は色々あるようだ。
詳しくは知らないが。
・・・・・
府市統合に賛否があるのは当然だ。
にしても一府県の地方行政(政治)のことである。
賛否どちらにしても話し合いで何とかならないのか。
住民のためを真剣に考えて議論すればいいのに。
まともな議論がなさすぎである。
というか議論では決められないのだろう。
利権が複雑にからんで。
だからである。
明治維新を思うのです。
これは一地方の問題ではない、日本全体の問題であった。
ひいては世界(史)的問題でもあったのだ。
私は長らく疑問でした。
なぜこんなことができたのか、と。
60を超える国とそこに300もの藩があったのだ。
それを廃止したのだ。
所謂廃藩置県である。
と同時に、貴族や武士を無くした。
それを支配階層である(貴族と)武士が率先して行ったのです。
わずか10年ほどで。
このような利権構造の大改変はどうにも考えられない。
今般の都構想の泥仕合を見ていれば尚更だ。
普通なら革命となるだろう。
それを改革(つまり継続)としてなしたのだ。
欧米に列する近代化に成功したことは勿論凄いことだが、
この社会構造の大転換こそ偉業である。
これがなぜできたのか、私には長い間疑問であった。
今も分かったとは言い切れない。
でも何となく分かったような気になっている。
まあ薄々ですが。
・・・・・
それは天皇が在ればこそです。
ゆうに千年を超えて存在している天皇が在ればこそです。
天皇は自らを護らない。
天皇は命を懸けて守る者達によって護られる。
それは決して表に出ない。
その力が働いたのだろう。
もとより君民一体である。
君を護るとは国を護ることに如かず。
逆もまた真だが。
しかしてである。
継続するには継続するという理由があるのです。
でもその実体実相はよく分からない。
私ごときに分かることはないだろう。
そこはまあ気にしない。
日本が日本として在ればそれでいい。
うん!

悟りと祈り

2019-03-18 18:47:38 | 日記・エッセイ・コラム
仏教にも祈りはあるだろう。
お経を唱えるのは修行でもありましょうが、
すぐれて祈りだと思うのです。
でも仏教の神髄は悟りにある。
悟りとは文字通り、吾(自分)に問うて世界(真理)を識ることです。
お釈迦様は種々の修行のはてに、その悟りを開かれた。
それはお釈迦様一人のことだ。
あくまで当人だけのものです。
だがそこはお釈迦様である、
己の満足だけで良しとせず、
他人に伝えねばならないと。
・・・・・
しかして弟子を持ち、育てられた。
その弟子達がお釈迦様の言葉や行動を書き残している。
それが数々の教典である。
初期の阿含経群や後の般若経・維摩経・華厳経など。
しかしなぜ直接書き残さなかったのか。
思うに、それは言葉では伝えることができないからだ。
それができるなら弟子を取る必要はなく、
書物を書き残せばこと足りる。
まことの悟りを開いたというお釈迦様である、
そんなお釈迦様である、
言葉の本質や限界を知らぬ筈はなかろう。
だから修行なのである。
修行を通じて伝えたのである。
言葉も勿論用いたが。
ところで、お釈迦様は極端な苦行は勧めなかったと云う。
もとより、あらゆる苦行をなされただろう。
それでも悟りは得られなかった。
悟りを開かれたのはその後です。
身体を休めるためもあったのか、
静かに座り続けている時にです。
生命の炎が極端に小さくなったその時か、
その時欲心が無心に転換したのだろうか。
欲心が妨げになるだろうとは思う。
悟りたいという思いは必要だが、過ぎればそれは只の我欲となる。
生きることも同じだろう。
生きることは即ち欲です。
ともかくも欲は必要なのだ、あるがままの欲は。
でも極端な思いは強い欲(我欲)を惹起する。
それは妨げとなるのだ。
だから勧めなかったのだろう。
そこに綾がある。
極端な苦行を経なければ、きっとそれが分からない。
極端な苦行の後に訪れる、静寂がたぶん必要なのだ。
と勝手ながら想像する。
・・・・・
ここで悟りに対する私の解釈を記す。
勿論私一流の言葉遊びです。
悟りとは、
そも一つひとつが自立した生命体である細胞の、
その細胞の60兆個もの超連合体である人間が、
その全ての細胞を整えて世界(宇宙)に正対し、
同期し同調することです。
部分は全体の内に在り、全体は部分によって成る。
人間の身体がそうであるように、全体は部分の超連合体なのです。
部分はそれなりに自立していても、完全な独立体ではないのです。
全体と部分は対立しない、そも同期・同調するのです。
人間はそれを忘れてしまった。
しかも完膚なきまでに。
その因は脳に頼ったからです。
身体の一部であるのに、それがすべてと勘違いした。
脳こそ「私」だと。
現下の世界は正にそうなっている。
実に危うい世界です。
だからまた同じ言葉を贈る。
イエスの言葉です。
「天なる父よ彼らを許してください。
 彼らは自分が何をしているのか分からないのです」
嗚呼免!
なお、悟りと祈りは同じものです。
悟りは内に向かい、後に外に往く。
祈りは外に向かい、後に内に還る。
・・・・・
常人である私には悟りは難しい。
何しろ修行が必要なのだ。
生(存在の真理)を識るために修行するのだが、
修行に邁進すればするほど生(生きること)が覚束なくなる。
これは矛盾である。
だから常人には難しい。
できるのは限られる。
それが正にお釈迦様なのだ。
常人にできるのは「すがる」ことだけです。
これは誰にでもできる。
これを祈りと言う。
思うに、祈りとは生きること(の雑事)を修行とする生き方(道)です。
まんまに生きる、それ自体を修行とするのです。
ちなみに、多くの仏教者も実はそうだろう。
修行とは言っても、それは「仏に帰依」してるに如かず。
つまり、仏を神として祈っているのだ。
私はそう思っている。

世紀の祭り

2019-03-11 09:53:17 | 日記・エッセイ・コラム
ご譲位が迫ってきた。
これは祭りである。
しかも字義のとおり崩御に伴うものではないのです。
まことにまことに目出度い限りであります。
正月も大きな祭りだが、これは毎年あるものです。
今回の代替わりは他に比ぶべきものがない。
世紀のお祭りです。
しかも時が経てば分かるだろうが、
世界のお祭りだと。
まあ勝手な想像ですが。
・・・・・
前にも言ったが、
「まつりごと」とは宗教でもあり政治でもあると、
つまりは人々を仕切るためのものだと。
なお仕切るとは支配することではない、
形容を整えてケジメを付けることです。
今回の件も勿論そうです。
もとより宗教的行事なのだが、政治的意味合いもあるのです。
傾きはあっても、本来一体なのだから。
さりながら、昨今はつまらないことを言う人が多い。
政教分離ゆえ費用は国費から出すべきではないとか。
無視すればいいと思うが、
そうもいかないので、
何かと理由を付けなければならない。
どちらにしても言葉遊びです。
そういうこともあって、やたら簡素化が求められる。
でも頑張って盛大にやってほしい。
歴史・伝統・文化に則って。
これは竹田恒泰先生も言っておられたことです。
祭りは盛大にやってこそです。
少し前にあった米朝首脳会談も祭りだったのです。
これからあるG20の会合もまた祭りなのです。
傾きや意味合いは様々ですが、
結局は祭りなのです。
祭りは盛大に催し、皆が喜んで参加すればいい。
それができれば一応は成功である。
結果を求めるのは当然だが。
まあそれなりで良いのです。
・・・・・
さりながら、注意せねばならない。
心(魂)を仕切るのは祈りであり、
祈りがあればそこに感謝が生まれ、
それが好循環して世界が成るのだ。
その祈りの儀式が祭りなのである。
行動を仕切ろうとするのはいいが、
政教分離の行き過ぎは心を見失い、
どこまでも利(力)を追い求めて、
そして祈りを歪めてしまうのです。
ソ連以来の共産主義国を見れば分かる。
共産という素晴らしい理念はあっても、
裏腹に心(魂)を見失い祈りを忘れて、
現実は激しい権力闘争になってしまう。
だがである、宗教もまた毒となる。
ときに政治以上の苛烈な毒となる。
宗教の名において心を閉じるから。
毒は使い方によっては薬となるが、
薬であってもそれは全き毒となる。
ゆえに私は宗教が嫌いなのである。
・・・・・
私はそれを信仰と言い換える。
その謂いは、
世界(現実)に向かって心を開き、
ひたすらに祈るのであるが、
何に祈っても何を祈っても構わない、
ただ祈ることが大事であって、
それを信仰と言う。
信仰とは本来自由であり、心を解き放つものです。
日本にはそんな信仰が溢れており、
私は日々それを感じているのです。
そんな日本では、
祈る対象に固有名詞(名前)を付ける必要はない。
神という一般名詞があり、それで十分こと足りる。
とはいえ世間には様々な神様がいる。
それぞれに謂われと意味合いを持って。
それもまた良し。
そして、どの神様に祈っても良い。
すべての神様に祈っても良い。
ともかくも自由なのです。
ちなみに、
自由とは欧米から与えられたと思っているようだが、
日本にはそも初めから有ったものです。
・・・・・
ところで、
今回の米朝首脳会談ですが、
これも立派な祭りであった。
開催するのかしないのか、
どこで開催するのか、
どんな議題を持ち出すのか、
誰が出席するのか、
祭りには準備が必要だ。
なかでも開催場所には意味がありそうだ。
なぜなら開催国は双方の仲介をするのだから。
最初はシンガポール、今回はベトナムであったが…。
選ばれたには意味があるだろう。
それにしても分からない。
最初は何も決められなかったのに、
これは成功だと言い、
今回も結局何も決められなかったが、
これは失敗だと言う。
私には同じにしか見えない。
どちらも演技なのだろう。
本当に何もなかったとは到底思えない。
さりながらメディアは当てにならない。
落胆好感を交え好きなことを言う。
本当のことは誰も伝えない。
だから自分で考えよう。
そしてメディアに振り回されることなく、
祭りは祭りとして楽しもう。


まつりごと

2019-03-04 10:46:40 | 日記・エッセイ・コラム
「まつりごと」とは祭りの事である。
それがどうした、ということですが。
祭りとは神や祖先をまつることや祝賀や記念の行事のことです。
それはそこで行われる儀式がその中心であり核心であるのです。
だとしても、一体何の為にあるのか。
私の中では答えは出ている。
それは「人を仕切る」ためです。
言葉を持ったが故に必要以上に戸惑うことになった、
そんな人々を仕切るためです。
日々の営みを安んじて為せるように、
心(魂)の起伏を整えるものであり、
そしてその起伏を同調・共鳴させる、
それが「まつりごと」であり、
ために儀式があるのです。
・・・・・
人を仕切るのだが、
そこには二つの切り口がある。
人の思い(心・魂)を仕切るのがひとつ。
人の行動(生き方)を仕切るのがひとつ。
もうお気づきかと思うが、
二つに分けたのだが、
本来は一つであるものを敢えて分けたのである。
思いと行動はそも一体であり分けられないのだ。
しかして分けるというのは、
言葉が持っている最大の機能ではあるが、
これこそが戸惑いの原因でもある。
それはさておき、
思いを仕切るのは宗教であり、行動を仕切るのが政治である。
私はどうも宗教嫌いである。
宗教はどうしても胡散臭く感じるのである。
だから、それを信仰と言うようにしている。
ちなみに日本語で「まつりごと」と言えば、
政治のことでもあり、宗教のことでもある。
日本は古来祭政一致の国であり、
天皇陛下のおられる神国なのだ。
勿論この今もである。
ここでさらにお気づきであろう…。
祭政一致は何も日本だけではないと謂うことを。
世界も当然祭政一致なのです。
人を仕切るにはともに不可欠なのだから。
だが近代以降はそうは言わない。
頑なに分離している。
孔子先生のように「我れ鬼神を語らず」と言って、
それを横に置いたように。
シナは孔子先生が横に置いたものをすっかり忘れてしまい、
欧米はなぜか意識して徹底的に分離している。
・・・・・
まつりごとの国・日本には様々な祭りがある。
個人的には誕生日や入学式、卒業式、結婚式等々がある。
会社なら創立記念日や特別なイベントなどもそうだろう。
国には定められた祝祭日があり、
全国には寺社などのそれぞれの祭礼があり、
また季節ごとの催しなどもある。
なかでも最大の催しは正月です。
正月は何もかもを包含した日本最大の祭りです。
かくの如く日本は祭りで満ちている。
それらの祭りはそれぞれその意味合いは様々ですが、
共通しているのは祈り(願い)です。
祈りは心に新鮮な風を送る方途であり、
それは己に立ち返り、迷いを断ち切り、
正気を取り戻す術なのです。
私はそう思っている。
しかして日本は権威と権力が分かれている。
権威は思いを仕切り、権力は行動を仕切る。
その棲み分けが絶妙に行われ、
結果祭政一致が為されている。
日本の凄さ(素晴らしさ)は正にそこにある。
その権威の核は天皇陛下にあり、
国民はそんな陛下のもとに在り、
その陛下は常に神のもとに在り、
ゆえに神のごとき人と謂われる。
それを現人神と謂うは然りです。
・・・・・
ところで少し前にベトナムで米朝首脳会談が開かれた。
結果はご存知の通りだが、
この行事は正に祭りであり祈りであったのだ。
G7やG20の首脳会談も勿論同様である。
政治は「まつりごと」であり、
世界を仕切るためのお祭りなのだ。
確かに陰謀論的に見れば、
本当に仕切っているのは別にあるのかも知れない。
でも目に見える儀式には意味がある。
見せれば伝えることができる、納得させることができる。
たとえ見せかけでも意味があるのです。
そこは押さえておこう。
そして、ともに祈りましょう。