ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

謝罪できない訳

2018-02-26 11:13:09 | 日記・エッセイ・コラム
過日国会で安倍首相が朝日新聞を非難した。
それも強烈に。
真赤な嘘を報道していると…。
朝日は何も反論しない、謝罪もしない。
どうなってるのか。
そうかと思えば、
にもかかわらず、
同様のことを著書で指摘した人を提訴している。
最早病気である。
酷く精神を病んでいる。
・・・・・
なぜか分からないが、強烈な反日である。
日本の被害は深刻だ。
一つは南京大虐殺という嘘であり、もう一つは従軍慰安婦という嘘である。
ともに言い出しっぺは朝日新聞である。
それでも従軍慰安婦の強制連行は誤報だと認めた。
同時に東電吉田所長の調書の件もあったが。
それにしても誤報は認めたが謝罪はしていない。
本来なら同時に謝罪するものだろう。
むしろ謝罪こそ重要なのだが。
ゆえにか、後は問題のすり替えとダンマリである。
だからこそご存知の通り、慰安婦問題は何も解決しない。
・・・・・
朝日新聞が謝罪しないのには理由があるだろう。
たぶん謝罪できないのだ。
独立した組織ではなく、末端の出先機関でしかないから。
だから謝罪する権限を持っていない。
本部の指示がなければできないのだ。
そうとしか思えない。
ちなみに誤報と認めたのは、認めざるを得なくなったからだ。
自ら進んで認めた訳ではない。
もし本気で謝罪したら世界はひっくり返るだろう。
ことは慰安婦問題だけではないのだから。
末端の機関ではどうにもできない。
なら本部はどこにあるというのか。
それは戦後世界を仕切っている中枢そのものだ。
でも具体的にはよく分からない、私ごときには。
今世界を席巻している、
グローバリズム推進のリベラルはその原動力であり、
もっぱら観念的言辞を繰り返すのみ。
そこに論理はないのだ。
これが実態である。
・・・・・
ご存知かと思うが、新聞社の株は自由に売買できない。
法律で定められている。
私は会社の実体は生業を為す人(役職員)にあると思っているが、
現下は「会社は株主のものである」と言う。
となればである。
株が売買できない以上、所有者が変わることはない。
どこまでも彼らの思い通りなのだ。
そういう仕掛けである。
唯一の抵抗は購読しないことです。
ハイ!

誤解してる人

2018-02-19 11:25:28 | 日記・エッセイ・コラム
神道のことを誤解してる人がいる。
誤解と言うか見解の相違かも知れないが。
それはである。
現世のご利益を求めるだけで、
そこに信仰の本が見られない、
とか。
まあそういう一面もあるが。
確かに世界宗教と謂われるものに見られる、
大仰な教典のようなものはなく、
これ見よがしの形而上学もない。
それに、
神道はすべてのものに魂(神)が宿ると考え、
木や石のほか存在するものは何でも祀るのだ。
だからか原始的なアニミズムだとも謂われる。
ゆえに宗教としては低位だなどと。
笑止千万。
実に皮相な見方である。
・・・・・
神道は宗教ではない。
教ではなく道である。
言葉で魂(心)を縛るのは良しとしないのだ。
生きることそのものを良しとする。
そして良き生き方を求める。
それが道である。
そしてそれを求めるときに必要なのが祈りである。
生きるとは祈りであり、道とは祈りの道でもある。
そこに対立・対決はなく、もっぱら調和を求める。
今次の世界は言葉で魂を縛ろうとする。
為に対立するものを排除しようとする。
そんな言説に満ちている。
嘆かわしいことです。
ご承知かと思うが、これを阻止できるのは祈りのみです。
祈りは神に(言葉を)捧げるものです。
神に言葉を返すものです。
例えそれが自らの些細な願いであっても。
己の魂を言葉に載せ、神に捧げるのです。
神はそれを受け取る。
だからそれは、
魂(心)の解放なのです。
そして本当の自由を得る。
生まれたその時のような、
まんまの自由を。
・・・・・
神様の仕掛け(プログラム)は完璧である。
完膚なきまでに公平なのだ。
すべての生物は、
生まれる前にいた場所から来て、
生まれる前にいた場所に帰る、
しかも何も持たずにである。
生まれる前にいた場所とは神の懐である。
すべての命はそこに帰る。
必ずそこへ帰る。
だから公平なのである。
それも完膚なきまでに。
かと言って、現世での不公平を良しとするものではない。
ただ、現世のことは現世で為せである。
しかもである。
聖書によれば、
この世界を創ったのは神なのだから、
現世もまた神の懐である。

有難いこと

2018-02-12 10:00:01 | 日記・エッセイ・コラム
聖書は言っている。
人は禁断の実を食べて、楽園を追われたと。
それは智慧の実であり、神の力である言葉を手に入れてしまったのか。
神はこの世界を創った。
言葉の力によって。
旧約聖書にはそう記されている。
言葉は力なのだ。
また、ヨハネは言っている。
言葉は神そのものだと。
これは新約聖書である。
・・・・・
だから言葉は要注意なのである。
できれば返してしまえばいいものを。
さすれば楽園に戻れるだろう。
でも返さない。
傲慢にも、人は神に似せて創られたと解釈している。
処置なしである。
そして言葉を弄んでいる。
もし人類が滅ぶとすれば、それが因となるだろう。
その兆候はある。
昨今よく言われるのがAI(人工知能)である。
つまりコンピュータである。
コンピュータは何でできているかといえば、それは言葉である。
コンピュータはそもただの電気信号なのだ。
それが意味を持つのは言葉として読み解かれるからである。
つまり言葉なのだ。
その言葉が人の理解を越えてしまうという。
そうなればお手上げである。
制御不能となるのだ。
・・・・・
なら早く返してしまおう
でもどうしたら返せるのか。
返し方が分からない。
ひとつ思い当たる節がある。
それは「祈り」である。
祈りは誰にでもできる。
よく考えてみればいい。
それは神に言葉を返す行為なのだ。
一方的に返す行為なのだ。
祈りは見返りを求めない。
願いを込めても、それは結局己への問いであり、要求ではないのだ。
そこを勘違いしてはいけない。
祈りは要求ではないのだ。
一方的に返す行為なのだ。
だから救われるのである。
・・・・・
祈りは折節にあらねばならない。
常在せねばならないのだ。
さすれば祈りは道となる。
小賢しい計らいを捨てて、お天道様とともに悠々と行く。
神ながらの道・自然(じねん)の道。
その時、道は楽園へと続く道となる。
その道を迷うことなく歩く人がいる。
もっぱらに歩く人がいる。
そういう人が在るのです。
この日本には。
まことに有難いことです。

洗脳

2018-02-05 11:02:40 | 日記・エッセイ・コラム
テレビのバラエティ番組でのことだが、
洗脳について興味ある話をしていた。
詳細は余り覚えていないが、
当人は家族そろって洗脳されていたという。
母親が洗脳されれば家族全員がそうなるらしい。
時に子供であった彼は、
それを20年もかけて抜けたというのである。
・・・・・
面白いのは、
洗脳されている間は、
当然のことだが、
自分が洗脳されているとは、
少しも思わない。
それが洗脳なのだが。
だから、
オウム真理教事件のような、
端から見れば、
明らかに洗脳されている人を見れば、
それは洗脳されていると言い、
哀れで可哀そうだと思うのだ。
他人のことは分かるのである。
洗脳とはかくあるものかと、
つくづく思う。
・・・・・
人以外の生物は洗脳されない。
それは言葉を持たないからだ。
つまり洗脳とは言葉の技だと知るべし。
言葉を捨ててひたすら現実に寄り添えば洗脳とは無縁だろう。
それこそ生きることそのものだから。
生命は現実の中で生まれ、現実の中で生き、現実の中で去る。
去るとは生まれる前に居た場所に帰ることである。
その場所もまた現に実にあるのだ。
だからである。
いつも言う、言葉は要注意であると。
そも現実から生まれたあだ花なのに、
その言葉が現実を規定しようとする。
くどい様だが、
現実を離れれば嘘になる、
必ず嘘になる。
それが言葉というものです。
・・・・・
だからか聖書は語る。
ゆえに人は神の怒りを買って楽園を追放されたのだと。
智慧の実を食べたばかりに。
神の言葉は真理である、
では人の言葉は…。
神ならぬ人の身で真理を語ろうとするな。
覚悟して慎み深く扱えばまだ良いのだが。
傲慢に扱えばそれは嘘になる。
必ず嘘になる。
それを知らねばならない。
だが、その嘘に染まっている人々がいる。
それがリベラルである。
まったく聞く耳を持たないのだ。
哀れにも洗脳された人々である。