ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

循環の文明

2014-01-30 09:11:05 | 日記・エッセイ・コラム

日本文明は循環の文明である。

循環の文明は「初まり」と「終わり」がない。

ただ、在るだけである。

過去も未来も今も、ただひたすらにともに「在る」だけである。

同じような状態でただ在るだけである。

それを「循環」と呼んでいる。

・・・・・

存在するものを個でみれば、

自我があると思わざるを得ない。

私が私であるように。

それは人間にだけ在るとも思えない。

存在するものすべてに在るのだろう。

だとしても、

どこまで細分化すれば究極の個に至るのか。

人の身体は60兆個の細胞でできている。

各細胞には幾多の核がある。

核はまた幾多の…。

際限なき過分性である。

個といえども所詮個の集まりである。

自我もまた自我の集まりか。

私の自我は大きな宇宙自我の一部か。

考えても分からない。

ほっておこう。

・・・・・

何を言いたいかといえば、

日本人の自我は全体を意識した自我である、

ということである。

欧米文明とは発想が違う。

ついでに言うと、

中国人は究極の個人主義だと言われる。

だとすれば、

日本人と中国人は絶対合わない。

納得。


直線の文明

2014-01-27 09:35:01 | 日記・エッセイ・コラム

欧米は直線の文明である。

時は直線的に流れていく、と捉える。

進歩史観でもある。

そして、終末思想を持っている。

・・・・・

終末思想がピンとこない。

終わりがあるなら、その後はどうなるのか。

後があるなら、終わりではない。

と、思うのだが。

どうやらそれは、ひとつの世ひとつの時の終わりをいうらしい。

世の終わりには大きな混乱と破壊があり、

その後に新しい世が始まる。

そういうことなら腑に落ちる。

それは生物存在の法則である。

存在していれば少しずつ歪みが発生する。

その歪みがどんどん溜まっていく。

それを解消する必要がある。

死と再生である。

存在するとは死と再生の繰り返しである。

それなら、それは循環である。

してみれば、

直線とは循環の中の一局面ではないのか。

直線文明とは単に短期的発想なのではないか。

・・・・・

欧米文明は自我を強調する。

自我の確立を重視する。

確かに自分中心で見れば、

この世は短期的・直線的に捉えることになる。

その短絡性ゆえ欧米文明は壁にぶち当たっている。

でも、いまだ支配文明である。

ゆえに、

現下の世界はその中でもがいている。


性善説と性悪説

2014-01-24 09:46:50 | 日記・エッセイ・コラム

人間はもともと善なのか悪なのか。

よく議論される。

そんな議論に意味はない。

自然界の生き物が善か悪かと問うても意味がないように。

・・・・・

人は群れて生きる。

社会的動物なのである。

要するに、

社会が性善説で運営できるか、性悪説でしか運営できないか、

である。

現実を見れば明らかである。

欧米や大陸、半島諸国は性悪説でしか運営できない。

力が支配する社会である。

日本は性善説で運営できる。

力はもちろん重要だが、それだけでは支配できない社会である。

もとより、心映えの良くない者は必ずいる。

その対応を考えることは必要である。

それに、グローバリズムの影響もあって心配は増えている。

・・・・・

もう一度言う。

性善説か性悪説かを問うのは無意味である。

要は、

性善説で運営できるか、性悪説でしか運営できないか、

である。

日本は日本の良さをしっかり知ろう。

日本は日本である限り、

世界の希望である。


日本語の世界

2014-01-20 10:40:30 | 日記・エッセイ・コラム

日本語はひとつの宇宙である。

日本語はすべてを飲み込む。

あらゆるものを表現する。

もともとの日本語は物事をあまり分けない。

ひとつの言葉で多くのものを表現しようとする。

それほど多くない大和言葉と「てにをは」が核かもしれない。

それらは「ひらがな」で表現される。

だから取り込む。

外来語を取り込む。

漢語やカタカナの外来語など。

取り込んで、さらに造語する。

もちろん、それらも日本語である。

・・・・・

とりわけ直近では、幕末から明治にかけてが画期であった。

欧米の知識や思想を表現することが、

当時の日本語ではできなかった。

だから、欧米の言葉を学んだ。

でも、学んだ者だけのものならそこが限界である。

広く普及させることはできない。

そこで日本語で表現できるようにしようとした。

そして新たに言葉を創った。

幕末までの知識のおおもとは漢文であった。

だから、対応する言葉として新たなる漢字述語を創った。

夥しい数である。

昨今は欧米語を音のまま取り込む。

カタカナ語である。

現下のカナカナ語の氾濫は酷い。

ちょっとやりすぎだと思う。

でも、それもまた日本語である。

・・・・・

今、世界では消えていく言語が沢山あると言う。

主な理由は二つある。

ひとつは使用する人数が少ないこと。

もうひとつは表現する世界を広げられないこと。

だから、外国語をそのまま使用する。

そして、もとの言葉が消えてゆく。

それにしても、

日本語の世界は広い。

無限に広がってゆく。

日本語を使えることは、それだけで力である。

日本に生まれれば、それは自ずと手に入る。

とはいえ、やはりしっかり学ばねばならない。

十分に使いこなすには。

もとより、外国語を学ぶのは素晴らしいことである。

必要でもある。

しかし、日本人はまず日本語である。

なにより日本語である。

その上で、である。


科学とは

2014-01-14 12:39:22 | 日記・エッセイ・コラム

表題を科学としたが、

ほんとうは「呪術(の続き)」である。

私は科学は呪術(のひとつ)であると思っている。

・・・・・

科学とは「在る」ものを分けることである。

部分に分けて違いを知る。

そして記号を付ける。

漠然としていたものが明瞭になる。

でも「在る」ものは本来ひとつのものである

部分が明瞭になっても全体は分からない。

部分は全体を語らない。

・・・・・

知るといっても、それは人間の目(心)を通してである。

先年のテレビ番組であったことだが、

動物はその目の構造によって、それぞれ見え方が違う。

同じようには見えない。

人間は人間に見えるようにしか見えない。

当り前である。

人間に見える事実は、ただ人間にとっての事実というだけである。

すべてのものにとっての事実(真実)ではない。

真実があるとすれば、

それが見えるのはただ神の目だけである。

・・・・・

ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て、

引力を発見したと言われている。

発見したからといって何も変わらないし変わっていない。

在るものは在るのであって、無しにはできない。

ニュートン以前にもそれはあり、ニュートン以降もそれはある。

ニュートンはただ「在るものを在る」と言ったのである。

そのこと自体は素晴らしいし意味も意義もある。

でもそれだけである。

科学とは「在るものを在る」と言っているだけである。

そのことを知らねばならない。

・・・・・

記号とは人間の方便である。

「在る」ものはただ「在る」のみ。

その断片に記号を付けたからといって、

記号は記号である。

記号は「在る」ものではない。

でも人間は、

記号で表出したものだけを「在る」ものとしている。

そう信じている。

それは信仰であり、

まさに呪術である。