ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

結果論を思う

2013-10-26 10:12:40 | 日記・エッセイ・コラム

人は何も持たずに生まれてきて、何も待たずに去る。

この世に絶対はないと言われる。

が、一つだけある。

生あるものは必ず滅す。

これは絶対である、逃れられない。

人生の結果は決まっている。

すなわち逝くのである。

結果が決まっているのに、

結果を求めるのは、

意味がない。

だから結果論が嫌いである。

就中、結果がすべてだという言い方は大嫌いである。

生きるとは結果ではなく経過である。

生き方、働き方などという言い方に込められているもの、

すなわち姿勢がすべてである。

背筋を伸ばして、前を向いて……

それでいい。

・・・・・

結果論にも意味がない訳ではない。

すべては経過であるといっても、

その途中に通過点を設定し、

思いをめぐらすことに意味はある。

それは茫漠とした経過の中で拠り所となるものである。

経過とは小さな結果の積み重ねでもある。

だから結果を求めることも必要である。

それがどんな結果でも、結果には常に意味がある。

それは次の結果への道標となる。

しかしである。

すべての結果はつまりは経過である。

そのことは肝に銘じよう。


占星術

2013-10-18 17:26:15 | 日記・エッセイ・コラム

太古の昔から、

地球は温暖化と寒冷化を繰り返してきた。

そして、これからもそれを繰り返して行く。

このことは現代科学で分かっている。

では、その原因は何なのか。

・・・・・

温暖化の原因は人類が二酸化炭素を排出するからだと言う人がいる。

それは嘘だろう。

人類が跋扈する前から温暖化も寒冷化もあった。

人とは関係のないところで起こっている。

それにそもそも人のやることなどたかが知れている。

ではいったい何なのか。

答えは宇宙の中にある。

宇宙の揺らぎが原因だと思う。

星々は常に動いている。

その位置関係の在りようによる相互作用が決定的である。

そことによって太陽が影響を受け、

地球はさらに大きな影響を受ける。

星の位置関係による影響が決定的なのである。

その時の位置関係により地球の在りようは決定され、

それを免れることはできない。

星の定めである。

・・・・・

人類は知っていたのか。

今この時この場の在りようは星の定めであり、

それは人にはどうすることもできないことを。

だから星に強い関心を持ったのか。

その星への関心を人類は利用した。

寄る辺ない心のやり繰りに利用した。

占星術である。

私はそう思っている。


世界の未来

2013-10-16 15:36:42 | 日記・エッセイ・コラム

未来を思うとき、運命論と偶然論とがある。

未来は決まっていると言う者、運命論者。

未来は決まっていないと言う者、偶然論者。

さて、どちらが当たっているのか。

20世紀の物理学はこのことに答えを出している。

・・・・・

星の動きは分かっている。

太古の昔から人々は星を観察し、その動きをつかもうとしてきた。

そして100年後、1000年後の位置を特定できるようになった。

ということは、

宇宙空間では星の位置は定まっているのである。

人間には変えられない。

大宇宙、銀河系、太陽系における地球の位置は、

今のこの位置は偶然ではなく決まっていることなのである。

これは運命である。

この位置関係における影響は免れることができない。

20世紀は極微の世界も分かってきた。

分子、原子あるいは電子、陽子、素粒子など。

星の動きと同じように、

電子の動きも観察し、その軌跡をつかもうとした。

が、どうしてもつかめない。

その結果、結論として法則はないということになった。

法則があるけれどつかめない、ということではなく、

法則がないということである。

つまり、原子内で電子は勝手気ままに動いているのである。

電子の位置は定まっていない。

今の位置は偶然の結果なのである。

・・・・・

宇宙という大きな世界では、

運命が支配している。

原子という極微の世界では、

偶然が支配している。

どちらも現実であり当たっているのである。

つまり、この世界は運命でもあり、偶然でもある。

20世紀の物理学はそう言っている。

ということで、

何事も当たるも八卦、当たらぬも八卦、

なのである。


韓国の不思議

2013-10-10 15:54:29 | 日記・エッセイ・コラム

最近の韓国の反日にはあきれています。

情けなさを通り越して哀れです。

日本の嫌韓も酷くなっています。

が、日本人にはもともとそれほど嫌韓感情はないのです。

日本人の嫌韓は韓国の反日の裏返しです。

韓国の反日がおさまれば自然になくなります。

韓流ブームのときは結構いいイメージがあったと思います。

私の知り合いの韓流ファンも最近は嫌韓です。

でも不思議です。

もともの反日を国是としていたとは思います。

それはあくまで政治的パフォーマンスとして、

また、自国を立てるためのパフォーマンスとして。

昼は反日、夜は親日とも言われるように。

ともかく、韓流ブームで良い雰囲気になってきたのに、

なぜ自分からそれをぶち壊すのか。

ちょっと分からない。

・・・・・

思うに、それは国際政治上の事情かもしれません。

日本と韓国が良い状態になるのを好まない国があるのでしょう。

それで不仲になるよう画策しているのかもしれません。

さらに韓国内にそのことに同調する人が沢山いる。

それが邪魔をしている。

まあ、私などどうあがいても抗することができない。

ほっときましょう。

でも、ヘイトスピーチは良くない。

最低です。

止めましょう。


欧米人の傲慢

2013-10-09 15:21:07 | 日記・エッセイ・コラム

欧米人には傲慢なところがある、

と思っている。

自然を破壊しながら、一方で保護しようとする。

保護するなら、はじめから破壊しなければよい。

例えば鯨である。

ただ鯨油がほしいだけで乱獲した。

その挙句、絶滅の危機になり保護しようする。

なにも保護に反対しているのではない。

そういう二枚舌を平気で使うところが気に入らないのである。

もちろん乱獲した者と保護しようとする者は同じ者ではないだろう。

でも欧米人という括りでみれば同じである。

日本人も気を付けなければならない。

そういう考えに毒されないように。

もちろん欧米人の中にも、おかしいと思う人もいる。

・・・・・

また、である。

欧米人の理屈で気に入らないことがある。

自然の中で狩りをして暮らす者は、

捕ってきた野生動物を食べる。

たまたま親からはぐれたものがいて、

飼うことになればそれは食べない。

なぜなら一緒に暮らせば家族だから。

が、今は逆である。

野生動物は基本的に食べない。

飼っているものは遠慮なく食べる。

狩猟社会とは逆である。

しかし、そもそも、

野生であっても飼っているものでも、命は命である。

飼っているものは食べても野生のものは食べない、

という理屈はない。

逆もそうだが。

・・・・・

どちらにしても、食べるときは有り難くいただく。

人は命あるものを食べなければ生きていけないのだから。

だからこそである。

日本人はご飯を食べるとき「いただきます」と言う。

これは食材の生産者への感謝、料理した人への感謝もあるが、

なにより、差し出された命そのものへの感謝である。

いただきます。