ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

神の言葉

2018-07-30 16:06:26 | 日記・エッセイ・コラム
言葉は空の箱である。
つまり殻なのである。
その中に人の念が入って、初めて生きた言葉となる。
念とは人が現実に感応した模様である。
人の心魂が現実に感応したものである。
故に生きた言葉には言霊が乗っている、
と謂われるのである。
・・・・・
では人のどこが感応するのか。
人の身体は60兆個もの細胞で出来ていると謂われる。
そも細胞は単体でこの世に出現した。
なら、一つひとつは本来独立した生命体である。
それらすべての細胞が感応してる筈だ。
人の念とは60兆個にも及ぶ細胞の集合体の感応模様である。
脳それも一部の脳だけの為せる技ではないのだ。
だから言霊の国・日本では、
本当に知ることを「腑に落ちる」と謂い、
覚悟を定めるのを「腹を決める」と謂う、
のである。
腑や腹は身体全体を象徴している。
日本人は分かっているのである。
脳の限界を。
・・・・・
神の言葉は如何…。
世の中には神の言葉を聞ける者がいるらしい。
所謂預言者である。
にわかには信じられない。
だが眉唾だとも思わない。
希にはいるのだろう。
私は未だ聞いたことがないが。
でも神の言葉を思うことはできる。
聖書に拠れば、
この世界を創ったのは神であり、
しかも神は言葉に依って創った、と。
「光あれと言ったら、そこに光があった…」…。
神の言葉こそが現実である。
この世界の現実なのである。
つまり世界は神の言葉で出来ていると謂うことだ。
それが聖書の世界観である。
にしても普通は神の声は聞こえない。
でも聞える者がいてもおかしくない。
預言者はいるのだ。
・・・・・
人の言葉は要注意である。
これは私の口癖だが。
念が現実(神の声)に添っていればいいのだが。
それは60兆個の細胞の多くが感応していれば、
ということだ。
それなら殻の内に心魂が有り、
その言葉は生きた言葉となる。
念が現実を離れればどうなるのか。
殻の内は似非心魂ばかりで、言葉は空虚に浮遊するのみ。
そんな言葉を弄してると己を見失う。
今世界にはそんな人が沢山いる。
貴様はもう死んでいる、てか当人は気付いてない。
それは観念論を振り回す輩であり、
脳(の一部)を重用する者である。
知識人、言論人に多い。
彼らは自由、平等、人権それに平和とかを連呼する。
しかして連呼するのみ。
現実には対応できない。
・・・・・
現実(神の声)に添う者は、
嘘を言わない、多言を弄しない、品格がある、否定を避ける、
他色々…。
リベラル・左派はまさにその反対である。
保守もまた揺れている。
特に戦後保守にはリベラルが隠れている。
要注意なのだ。
でも日本には神のごとき言葉を発するお方がおられる。
天皇陛下である。
そのお言葉と御製(和歌)は素晴らしい。
嘘がなく誠である。
人を侮らなく品格に満ちている。
何事をも否定しない。
まさに鑑である。

原理主義の罠

2018-07-23 11:35:14 | 日記・エッセイ・コラム
主義主張を持つのはいいことだ。
信念を持つのもいいことだ。
およそ人の心は迷いの中にある。
それを支えるのに役に立つ。
それどころか必要だとさえ言えるだろう。
それはそうなのだが…。
・・・・・
主義主張や信念という言葉は謂わば空の箱である。
中にどんな内容が入っているかだ。
内容は各自が成長の過程で定めるものである。
さりとて人の成長には終わりがない。
生きてる限り成長し続けるのである。
だから中味も変わるだろう。
熟成するのは当然で、時に極端に変わることも…。
それに人だけでなく、世界もである。
この世界は変化こそ常態なのである。
太陽も星々も動いている。
それに河原の石も。
見た目には分からないが、内部では常に振動している。
人間世界も同様である。
もっとあからさまに動いている。
・・・・・
主義主張や信念はその中味は固定されていない。
でもどうも誤解されてるようだ。
固定しているものだと。
固定していてこそだと。
確かに頻繁に変わるのはおかしいだろう。
だが変わるものなのだ、本来。
まったく変わらないとしたら、
それは自己の創出たる主義や信念ではなく、
単に洗脳されてるだけだ。
件のオウム真理教の信者のように。
さらにである。
その上に原理という殻を付けることがある。
原理主義と謂う。
これがなお厄介である。
・・・・・
形は変わっても内奥には変わらないものがある。
つまり物事には根本法則がある、それを原理と謂う。
これは原理という言葉(殻)の概念である。
概念は人が創った幻想・妄想である。
念という殻がそれを示している。
念が現実に即していれば、その殻は力を発揮する。
しかして迷いは収められる。
だが現実から離れればどうだろう。
ただの幻想・妄想でしかない。
迷いを絶つための原理がむしろ迷いの種になる。
そして暴走する。
原理主義の罠である。
・・・・・
原理主義と謂うも言葉(殻)である。
結局問題は中味なのだ。
変わらない根本法則とは何なのか。
宗教から見れば、それは聖書やコーランなどの聖典である。
それら聖典も実は言葉で記されている。
元は神の言葉であっても、人の言葉で記されている。
でなければ人には分からない。
つまり所詮殻なのだ。
それに意味を持たせるのは現実である。
現実を見ずに殻にだけ拘れば暴走する。
今原理主義が暴走してるのはその故だ。
最近のことだがサウジアラビアで女性にも自動車の運転が許されたとか。
コーランに自動車の運転がダメと記してる筈がない。
現実は変化しているのだ。
その中で原理を守るとは如何…。
変わらないもの(原理)とは何なのか。
凡人にはとても分からない。
最後は神に聞く(祈る)より他ない。

異常気象

2018-07-16 11:06:32 | 日記・エッセイ・コラム
近年は異常気象という言葉をよく聞く。
私はもう随分前から思っている。
今という時は、地球規模の季節の変わり目だと。
人の時刻ではなく、地球(宇宙)の時刻から見てだが。
だから人の短い一生からは想像もできないことが起こるのだ。
そも人があって気象があるのではない。
気象は気象だ、その現実に生きているだけだ。
気象の中で生まれ、気象の中で育ち、その気象を生きている。
今までも、これからも。
気象が異常だとは不遜極まりない。
他の生物はそんなことは言わない。
黙々と受け入れるのみ。
・・・・・
にしても不可解なことが多い。
聞くところによれば、
地震兵器とか気象兵器とかいうものがあるらしい。
これは陰謀論とかでの噂かも知れない。
でも実際に研究は行われているようだ。
現に人口雨とか人工雪は作られている。
人類の科学的発展は兵器開発が牽引してきたとも謂う。
してみれば、あながち噂だけとは思えない。
例の地球温暖化の議論もまことに怪しい。
一方的見解や曲解、更には事実の選別等がまかり通っている。
胡散臭い限りである。
それはさておき、
それは横に置く。
・・・・・
今回の広島県等での災害であるが、
事前のテレビでのニュースを見ていて思った。
主にNHKのニュースであるが、
注意喚起がさかんに行われていたのだ。
それも事務的口調ではなく、どこか切迫したような。
それが何度も何度も繰り返されていた。
アナウンサーだけでなく、気象庁の担当者も登場して。
被害の起こりにくいところに住んでいる私だが、
それでも少し緊迫感を覚えた。
今回特にそういう風に感じた。
今までとは違うと。
・・・・・
ニュースでの伝え方であるが、
繰り返し伝えて注意喚起するのはいいのだが、
言ってる言葉が抽象的で分かりにくい。
ではどうしたらいいのか、と問えば…?である。
自治体の指示も出しているだけ。
大雨の夜に避難指示が出てもどうしようもない。
事前に適格な指示が必要だとは、
当然だが机上の空論でしかない。
危険だと思えば空振り覚悟で指示すべきだろう。
それには覚悟がいる。
それは長の仕事だが。
勿論マニュアルは必要であり、その手順に従うのは有効だろう。
だがマニュアルは決断しない。
決断するのは人である。
結局最後は人と謂うことになる。
・・・・・
それを私は当事者能力と言っている。
本気で心配し行動する力である。
マニュアルの有無など関係ない。
たとえ立派なマニュアルがあっても、
それをその通り実行しても、
実がなければ責任逃れとしか言えない。
確かに変に責任追及する人がいるのも事実だ。
だから責任回避の言動が横行する。
そういう悪循環がそこかしこで見られる。
それは結局当事者能力がないということである。
責任を取る立場でも追及する立場でも。
昨今の企業の不祥事や官僚の体たらくはそういうことか。
保身のための仕事に囚われて。
国家や国民の為との義はどこへ行ったのだろう。
財務省も文科省も押しなべて。
政治家もそうである。
ここ一年余りの野党の仕儀はみっともない。
最悪である。
・・・・・
庶民も覚悟しなければ。
国を信頼するのは日本人たる所以であるが、
自らも当事者能力を待たねば。
自分の身は自分で守ると。
これも当然のことです。
改めての自戒が必要である。

イエスと親鸞

2018-07-09 16:06:23 | 日記・エッセイ・コラム
天国とか地獄とかは方便である。
人間が語るところの方便である。
と思っている。
生まれる前に居た場所へはすべてのものが帰る。
来た時と同じように何も持たずに。
生けるものは漏れなくであり、
これは絶対公平の世界である。
・・・・・
イエスは神への回帰を説いて廻った。
何よりその原点である聖書に帰れと。
当時の宗教界は信仰が形骸化していたのである。
そこから利益を得ようとするばかりで。
だからこそ彼に帰依する者も多くいた。
しかし指導者等既得権者は大反発したのである。
イエスはこれを厳しく断罪した。
だからこその十字架刑である。
そして人類のすべての罪を背負い昇天することとなる。
これは旧約聖書で預言されていたことでもあるようだ。
生前のイエスは断罪する前に悔い改めよと説いた筈だ。
天国に行けるとか行けないの問題ではない。
純粋に信仰の問題として。
なのにキリスト教は悔い改めなければ天国に行けないと言う。
なんの為に罪を背負って死んだのか。
すべての人間を救う為ではないのか。
ここがどうにも馴染めないところだ。
聖書にはイエスが再臨したとき、
彼ら(十字架に架けた者)も悔い改めると記されている。
悔い改めとは生きて天国の門を見ることではないのか。
あくまでも現世での救いなのでは。
私はそう思っている。
・・・・・
親鸞はそれを往生と言った。
弥陀の本願にすがり念仏を唱えれば、誰でも極楽往生できると。
往生は死後のことだが、許よりそれは現世での救いでもあろう。
なお親鸞曰く「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と。
これには二通りの解釈があるらしい。
一つは文字通りの善人と悪人である。
善人は当然往生するから敢えて救う必要がない、
悪人はだからこそ救う必要がある、
それが広大無辺な弥陀の本願だと。
一つは善人とは自制心なきがゆえ自らを顧みない人間で、
悪人とは自制心あるがゆえ自らを顧みて懊悩する人間だと。
そんな善人でも救うのだから、悪人を救わない筈がないと。
どちらが正しいのか。
と言うか、どちらでもいいのだろう。
すべての人が往生できると謂うなら。
してみれば、弥陀の本願とイエスの昇天(再臨)は同じではないか。
まったくのところ。
だとしたら、親鸞はイエスの衣鉢を継ぐ者かも…。
ともかく相似相ではある。
・・・・・
日本人たる私は多宗教的だからか、
宗教はその根で皆繋がってると思っている。
勿論神道も。
神道は宗教とは言っても少し違うようですが。
それは教ではなく道ですから。
神ながらの道・自然(じねん)の道とは楽園への帰り道であり、
すべての計らいを捨てればそこは楽園だとも思います。
未だ追放されてない虫や草木等のいる世界であります。
計らいこそ罪の原点だと思っているのだが、
これはまあ当方の思い込みでありまして、
まことに一方的な…。

イエスを信奉する者

2018-07-02 13:27:58 | 日記・エッセイ・コラム
イエスは十字架上で人間のすべての罪を背負い亡くなった。
そして三日後に復活した、とされている。
罪を犯し楽園を追放されたアダムの末裔、人類を救ったのである。
ところでなぜ天国と地獄があるのか。
地獄は救われない人が行くところだろう。
それは救われない人がいるということだ。
すべての人を救ったのではないか。
それでは話が違う。
更に煉獄とか謂う、訳の分らないものもある。
煉獄とは天国か地獄か決まるまでの間、一時的にいる場所らしい。
決まってないとは、如何?
神様の台詞とも思えない。
神様ならその瞬間に分かる筈だ。
これは方便である。
人間のわざとらしい方便である。
・・・・・
天国に行けるのは悔い改めた者だけだと謂う。
それは尤もなことである。
だがそれは救いには条件があるということだ。
そんなこと聞いてないと言ってもダメらしい。
それでは巷の商売と変わらない。
私は何もキリスト教を揶揄してるのではない。
ただ分からないのである。
もとよりクリスチャンではない。
それに特にキリスト教を学んでもいない。
幼少期に米国の戦後政策の一貫か、各地で日曜学校が開かれていた。
そこにはよく行っていた、おやつが貰えるから。
だがほとんど身に付いていない。
どうも伝道は失敗したようだ。
だから勿論聞きかじりの知識しかない。
分からないのは当然としても、
それにしても疑問に思うのだ。
・・・・・
日本人はその多くが無宗教だと言われる。
それは問われれば答えられないからだろうが、
本当に無宗教なのか。
身の回りにはお寺や神社が幾らでもある。
勿論教会もある。
時にお参りにも行く。
戦前の家にはたいてい仏壇や神棚があった。
葬式は仏式で、結婚は教会や神社で行うことが多い。
だから決して無宗教ではない。
敢えて言えば多宗教なのである。
一つの教えに縛られるのが嫌なのかも。
やはり自由がいいのだ。
自由とは身上のことではない、心魂のことである。
社会に縛りがあっても、心魂は自由でいたいのだ。
だから多宗教的になるのか。
でもこれはなかなか良いもので、
否定の論理を振り回さずに済む。
・・・・・
先に記した通り私はクリスチャンではない。
それでもイエスを疑わない。
イエスが神であることも疑わない。
日本人の常として宗教に縛られることがないから。
否定の論理も振り回さないのだ。
それどころか、むしろイエスの信奉者である。
宗教上のではなく、人間イエスのそして神であるイエスの…。
ところで新約聖書に記されているのだが、
イエスがオリーブ山におられるとき弟子が尋ねた、
終りの時には何が起きるのですかと、
その答えの一つに、
私(イエス)を騙る者があちこちに現れる、
その者たちに決して惑わされてはいけない、
と…。
誰がイエスを騙るのか。
それは善意を装う者、正義を語る者、違いを認めない者等である。
そして極めつけは世界を救うとまで言うだろう。
そういう輩は絶対に信用しない。
今はその終りの時かも知れない。
不法がはびこり愛が冷えている。