そこで想うのです、
イエスとヨハネのこと。
イエスは荒野での悪魔の試みに答えて言った。
ときのやり取りで最初に放った言葉が印象的、
「人はパンだけで生きるのではなく、
神の口から出る一つ一つの言葉による」
と。
ヨハネの言葉も印象的、
それは福音書の冒頭の部分、
「初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった」
と。
これらは新約聖書に記されている。
しかして旧約聖書に立脚している。
そしてそれは神の力を示している。
それを「まこと」という。
・・・・・
日本には天照大神がおられる。
ときに天下るニニギノミコトにカガミを与えて言った。
「我を拝むようにカガミを拝め」
と。
それは鏡をではなく又私をでもないと、
それを私だと思って拝めということで、
そこは意味深である。
カガミ(鏡・鑑)とは自分を写すもの、
それはつまり己を見よということです。
そこには偽りのない己が写し出される。
それを見よということか。
現われたまんまの心魂は、
それは神との接点であり、
そこにはまことがうつる、
それを見よと。
つまりそういうことかと。
ちなみにその所作を祈りという。
ちなみにその行事を祭りという。
そう言うことだが、
大事なのは、
「まこと」を見ることで、
そこに尽きるかと。
それを想う。
・
カガミを見るとは、
文字通りカガミを見るのだが、
でも物としてのカガミを見るのではない、
カガミに写った自分(己のまこと)を見るのである。
それを捉えるのは耳ではない。
それを捉えるのは目である。
それが捉えるのは光である。
その中にまことを見る。
ここにも妙と彩がある。
言葉を捉える耳は無意識四六時中全面開放、
カガミを見る目は意識的選択的かつ一時的。
面白い、
つまり神はいつでもどこにでも在るのだが、
それを見るか見ないかは人の意思によると。
また一寸それたが、
元に戻る。
仏教では今生の際には仏様が迎えに来ると、
光の雲に乗って。
キリスト教では終末にイエスが再臨すると、
光の雲に乗って。
天照大神はそも光です。
あまてらす光の神です。
地球にとってはそれは太陽である、
だから太陽神なのです。
けれど宇宙で光るは太陽だけではない。
光り輝く星は限りなし。
それらは皆太陽なのだ。
まことに世界(宇宙)はあまねく光で満ちている。
すべてはそこから来て、そこに在り、そこに帰る。
昔の人は、
死ねばどこへ行くのかと問われて、
ときに星になると答えていた。
大きな声では言えないが、
これはまさにしかり。
星は光の発信元。
そこから来て、そこに居て、そこに帰る。
話の筋は通っている。
なにもブレていない。
にしても、
天照大神はなぜか女神である。
だが元は男神だったとも言う。
ちょっと分からない。
とは言え、神に男女の区別はなかろう。
それを分けるはヒトの言葉のなせる技。
でもである、
女こそ命の大本を司るもの、
男は必要ではあるが補完的。
そも命の初めには男女なし、
細胞が分裂して増えるもの。
その体を思えば女こそ命か。
と言うことで女神で良しと。
よしよし、
・・・・・
ちなみに、
ところで、
それが元からか途中からか知らないが、
今はともかく女神である。
そんな女神を最高神として頂いている。
かかる日本にジェンダー問題などない。
もとより男女の違いはあきらか。
肉体的にはそれは歴然であろう。
だから社会的にも文化的にも又。
そこに男らしさ女らしさがある。
そのらしさは固定ではない。
時代とともに変化する。
そんなこと当然である。
しかるに何たることか。
何もかも一緒にしなければとは、
歴史的文化的社会的変遷をすべて否定して。
見苦しいにも程がある。
例えば彼の仏の国では、
結婚という制度そのものに懐疑的で、
事実婚とかが持て囃されていたのに、
その口がLGBTにも結婚を認めろとか。
制度が持つ本来の意義は塵箱に捨て、
もはや狂る狂る八のクルッパ状態か。
それが日本にも伝染して、
何なんだこれは、
う~ん!
イエスとヨハネのこと。
イエスは荒野での悪魔の試みに答えて言った。
ときのやり取りで最初に放った言葉が印象的、
「人はパンだけで生きるのではなく、
神の口から出る一つ一つの言葉による」
と。
ヨハネの言葉も印象的、
それは福音書の冒頭の部分、
「初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった」
と。
これらは新約聖書に記されている。
しかして旧約聖書に立脚している。
そしてそれは神の力を示している。
それを「まこと」という。
・・・・・
日本には天照大神がおられる。
ときに天下るニニギノミコトにカガミを与えて言った。
「我を拝むようにカガミを拝め」
と。
それは鏡をではなく又私をでもないと、
それを私だと思って拝めということで、
そこは意味深である。
カガミ(鏡・鑑)とは自分を写すもの、
それはつまり己を見よということです。
そこには偽りのない己が写し出される。
それを見よということか。
現われたまんまの心魂は、
それは神との接点であり、
そこにはまことがうつる、
それを見よと。
つまりそういうことかと。
ちなみにその所作を祈りという。
ちなみにその行事を祭りという。
そう言うことだが、
大事なのは、
「まこと」を見ることで、
そこに尽きるかと。
それを想う。
・
カガミを見るとは、
文字通りカガミを見るのだが、
でも物としてのカガミを見るのではない、
カガミに写った自分(己のまこと)を見るのである。
それを捉えるのは耳ではない。
それを捉えるのは目である。
それが捉えるのは光である。
その中にまことを見る。
ここにも妙と彩がある。
言葉を捉える耳は無意識四六時中全面開放、
カガミを見る目は意識的選択的かつ一時的。
面白い、
つまり神はいつでもどこにでも在るのだが、
それを見るか見ないかは人の意思によると。
また一寸それたが、
元に戻る。
仏教では今生の際には仏様が迎えに来ると、
光の雲に乗って。
キリスト教では終末にイエスが再臨すると、
光の雲に乗って。
天照大神はそも光です。
あまてらす光の神です。
地球にとってはそれは太陽である、
だから太陽神なのです。
けれど宇宙で光るは太陽だけではない。
光り輝く星は限りなし。
それらは皆太陽なのだ。
まことに世界(宇宙)はあまねく光で満ちている。
すべてはそこから来て、そこに在り、そこに帰る。
昔の人は、
死ねばどこへ行くのかと問われて、
ときに星になると答えていた。
大きな声では言えないが、
これはまさにしかり。
星は光の発信元。
そこから来て、そこに居て、そこに帰る。
話の筋は通っている。
なにもブレていない。
にしても、
天照大神はなぜか女神である。
だが元は男神だったとも言う。
ちょっと分からない。
とは言え、神に男女の区別はなかろう。
それを分けるはヒトの言葉のなせる技。
でもである、
女こそ命の大本を司るもの、
男は必要ではあるが補完的。
そも命の初めには男女なし、
細胞が分裂して増えるもの。
その体を思えば女こそ命か。
と言うことで女神で良しと。
よしよし、
・・・・・
ちなみに、
ところで、
それが元からか途中からか知らないが、
今はともかく女神である。
そんな女神を最高神として頂いている。
かかる日本にジェンダー問題などない。
もとより男女の違いはあきらか。
肉体的にはそれは歴然であろう。
だから社会的にも文化的にも又。
そこに男らしさ女らしさがある。
そのらしさは固定ではない。
時代とともに変化する。
そんなこと当然である。
しかるに何たることか。
何もかも一緒にしなければとは、
歴史的文化的社会的変遷をすべて否定して。
見苦しいにも程がある。
例えば彼の仏の国では、
結婚という制度そのものに懐疑的で、
事実婚とかが持て囃されていたのに、
その口がLGBTにも結婚を認めろとか。
制度が持つ本来の意義は塵箱に捨て、
もはや狂る狂る八のクルッパ状態か。
それが日本にも伝染して、
何なんだこれは、
う~ん!