ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

誤訳

2017-06-26 12:46:02 | 日記・エッセイ・コラム
「自由・平等・友愛」であるが、
それはずっと「自由・平等・博愛」と言われてきた。
何時頃からか、誤訳だと言われるようになった。
確かに誤訳といえば誤訳である。
なら、そこにどんな意図があったのか。
てか、そも意図などなかったのか。
はて、
・・・・・
友愛が胡散臭いのは、
愛を部分に閉じ込めることである。
そも普遍的であるべきものを。
猫の好きな人は猫愛が強い。
犬好きなら犬愛である。
この場合の愛も一見片寄りに見える。
だが友愛とはまったく違う。
好きなものを示しているだけだ。
好きなものを強調してるだけだ。
他を否定している訳ではない。
友愛はどうも胡散臭さい。
もちろん他者を直接的に否定してはいない。
普通は無視である。
だが己の意に反すれば否定となる。
まったき否定となる。
そして苛烈な取扱いをする。
それは歴史の示すところだ。
・・・・・
欧米はキリスト教世界である。
イエスの信奉者の筈である。
イエスは愛を説いたが、それは普遍の愛である。
「汝の隣人を愛せよ」
「汝の敵を愛せよ」
「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ…」 …。
なのになぜそうなるのか。
理由は明らかだ。
友愛はイエスの愛ではないということだ。
それを説いたのはイエスの信徒ではないのだ。
イエスの手からこぼれ落ちた者達である。
今共産主義という世界がある。
無神論を標榜している。
イエスの手(神の世界)を否定している。
彼らはリベラリストである。
彼らは言葉の信奉者であり、言葉の支配者であり、
言葉でもって世界を支配しようとしている。
何度でも言うが、
現実が在って言葉があるのであり、
言葉は現実を創らない。
言葉は現実を知らせるだけである。
このこと、胆に命じよう。
・・・・・
日本人はなぜ博愛と訳したのか。
誰が訳したのか。
どういう意図なのか。
善意なのか、悪意なのか。
分からない。
どちらにしても、広く伝えようとして敢えて訳したのだろう。
言葉としては友愛も博愛も愛であり、悪いものではない。
なのになぜそう訳したのか。
その背後に胡散臭い思想があるからか。
そしてそれを隠すためか。
そうなら悪意である。
そうではないとしたら、どういうことだろう。
すべてのものに神が宿ると考えるのが日本人だ。
そういう日本人に友愛は向かない。
そも博愛なのだ。
だから変な意図はなく、ただ思うところを訳しただけか。
とも思う。
そうなら善意である。
無邪気な善意である。
今となっては、
まあどちらでもいい。
・・・・・
同じような誤訳に国際連合がある。
昨今は大いに知られてきたが、
これは「連合国」と訳すのが正しい。
第二次世界大戦の戦勝国の集まりだから。
それを日本人は国際連合と訳した。
どういう意図なのか。
これもよく分からない。
戦後参加国が増えた時点で名称を変えればよかったのに。
もちろん敢えて変える必要もないだろう。
とは言えである。
規約の中に旧敵国条項というのがあるが、
それは削除すべきであった。
旧敵国の参加を承認したのならである。
それに常任理事国というのも腑に落ちない。
戦勝国が中心なのは仕方ないとしても、
戦後にできた新しい国がそこに入るのは面妖だ。
明らかに欺瞞がある。
それは今も続いている。
その欺瞞を隠すための誤訳なら、もう無駄である。
すっかりバレている。









フランス人の心

2017-06-19 14:01:54 | 日記・エッセイ・コラム
フランスの国歌は、
革命のことを歌っている、
と聞く。
近代を開いたと謂う、あのフランス革命である。
その革命により、
人権という言葉が大いに謳われ、
自由と平等が鼓吹された。
それは絶対王政に対する否であり、
意義も意味もあったのだ。
自由とは絶対王政からの自由であり、
奴隷とは言えないまでも、
王の所有物的状態からの解放であり、
平等とは人間としての存在価値に上下は無いということで、
何もかも一緒でなければ駄目という訳ではなく、
謂わば魂の平等であった筈だ。
それがどこかで?曲げられた。
それとも初めから企図されていたのか。
俗に謂われる「自由・平等・友愛」という看板の中で。
今次のごとく観念が一人歩きすれば、
自由と平等は相反するものとなり、もはや矛盾でしかなくなる。
曰く、
自由を徹底すれば違いが明瞭になり平等は無くなる、
平等を徹底すれば違いが押込められ自由は無くなる、
…。
さらに友愛が問題だ。
これは兄弟や仲間内だけのことであり、
ゆえに自由と平等も内々のこととなる。
だから外に対しては平気で非道な植民地支配を行ない、
だから身内(欧米諸国)では覇権争いをするのである。
今もまだ、その看板を下してはいない。
ますます吹聴している。
姿・形を変えて。
耳障りの良い言葉の多くがそれだ。
そこには嘘がある。
私はそう思っている。
むろん多くの市井の欧米人はそれを企図していない。
それは世界を仕切ろうとしている少数の者達である。
為に言葉が利用される。
所謂リベラル的言辞である。
・・・・・
ドイツ哲学は壮大な思弁的体系を指向する。
或るドイツ人は言う。
ゆえにドイツ人は論理的なるを良しとし、だからかすこぶる強情なんだと。
フランス人も言葉を大切にする。
誰の言辞か忘れたが、印象的な言葉がある。
曰く、
フランス語は明晰な言語だと言われるが、
それは違う、
フランス人が言葉を明晰に使うのだ、
と…。
フランス哲学は人間の現実に即してものを考える人間哲学である、
とのことだが、
どちらにしても言葉過多で言葉に囚われるという点では、
ドイツと変わらないようだ。
もとより欧米文明がそうである。
ギリシャ・ローマの時代から。
良い悪いの問題ではない、そういう体質なのだ。
・・・・・
近代を開いたと謂うフランス革命だが、
フランスは為に利用されたような気がする。
革命は手段でそこから…。
いいようにダシに使われたのかも知れない。
自由と平等、さらにそこに友愛を加えたら、
まことに良いダシが取れるようだ。
そんなフランスにも本当の自由を求める人がいる。
日本でも今その人の本が発売されている。
「自由なフランスを取りもどす」だ。
ひょっとして、
マリーヌ・ルペンは日本を目指している、
のか。




ドイツ人の頭

2017-06-12 17:36:31 | 日記・エッセイ・コラム
ドイツ人の書いた本を読んでいる。
曰く、
ドイツ人(欧米人)は何事も自分の意思を徹底する、
とのことだ。
ともかく自己主張をする。
周りのことは気にしない。
自分起点を徹底し、そこから離れられないのだ。
まるで自分が無ければ、世界が無いかのように。
確かに自分が無ければ、自分の世界は無いとは言える。
日本人も自分が起点なのは同じだ。
だが様相は異なる。
自分より先に世界が在るのだ。
世界が在って自分が在るのだ。
それは天動説と地動説の違いのようでもある。
だからか、英語などには必ず主語(人称代名詞)がある。
人間起点でどこまでも人間(人格)中心なのである。
翻って日本語は主語が曖昧である。
むしろ主語は要らない、と言う人もいる。
主語ではなく主題(場)が中心だ。
自分を含む場というものを想定するのだ。
そこは発想が違うようだ。
・・・・・
自分が起点とは自我(自分という意識)が有るということだろう。
人間誰しも自我はある。
では他の動物にはあるのだろうか?
有るとしか言えない。
何しろ自ら動くのだ。
自我が無くてはどうにもならない。
なら、自我の元となる意識はあるのか。
それは無い。
なぜなら言葉を持たないから。
自分というものを概念化できないのだ。
だから意識なき自我としか言えない。
これは矛盾だ。
定義の矛盾だ。
でも、そうとしか思えない。
・・・・・
動物はまったき自我で動いている。
まったき私心で動いている。
目の前の現実(場)に、与えられた力で懸命に動いている。
その自我(私心)は同時に無我(無心)でもあろう。
何しろ言葉を持たないのだ。
意識のしようがない。
しかして、その機微を推し量るのは難しい。
禅宗の謂うところの無我の境地、悟りのようでもある。
それを言葉では説明できない。
言葉を使えば即ち無我ではなくなる。
どうしても計らいが入る。
だからこその座禅なのだろう。
同じ動物でありながら、
言葉を持ったがゆえ無我の境地・悟りが逃げてゆく。
人間という動物の業である。
・・・・・
ドイツ人(欧米人)は周りの状況を余り気にしない。
何より自分の思いを優先する。
それは先述の通りで、
場が在って自分が在るのではなく、
自分が在ってこそなのだ。
そこから出てくる強い自己主張を良しとする。
だから何となく受け入れるということはなく、
すべてを自発的に意識化(言語化)して受け入れようとする。
なので、言語化できないものは無いと同じなのだ。
それが彼らの文化である。
長い年月の中で培ってきた生き方の総体なのだ。
ゆえにこそ近代文明を切り開いたのである。
科学技術を発展させて。
それは同時に行き詰まりにもなる。
自分という檻から出られないのだ。
それがジレンマである。
そういう文明のようだ。

危険なスマホ

2017-06-05 13:22:21 | 日記・エッセイ・コラム
少し前にやっとガラケーを持った。
パソコンは既に持っている。
そんなことでスマホはまったく必要ない。
ところが世間はスマホ仕様になっている。
クーポンで割引を受けたり、
財布替わりにもなるようだ。
何しろ、お得で便利なのだ。
これからは、増々そうなるだろう。
便利はいいことで、
何でもそうだが一度知ったら、
そこからは後退できない。
それが現実である。
・・・・・
スマホには危険もある。
思うに、余りに便利すぎるのである。
持ち運び出来て、何でもすぐに検索できる。
そうなれば、自身の内で記憶しなくて済む。
つまり、
スマホという外部記憶に頼ることで、
脳という内部記憶を低下させるのだ。
そういう心配がある。
別のところで向上させればいいのだが、
人間易きに流れる、
なかなかそうもいかないだろう。
もう一つある。
こちらの方が問題だと思う。
それは考えることが疎かになることだ。
まったく無くなることはないだろうが、
ともかくアレコレ考えなくてよく、
瞬時に検索できて迷わない。
効率的で一見素晴らしい。
だがそれを繰り返すと、ただ反応するだけになる。
オウム返しで。
情報が身体の表層を流れるだけとなる。
身体の一部である脳のさらにその一部である表層を。
・・・・・
学びとは情報を身体に取り込んで、
60兆個もあるという細胞の間を貫通させ、
そこから湧き出させるものである。
それがその人の思いであり思想となる。
スマホはその学びを疎かにさせる危険性がある。
学びを忘れなければいいのだが、
余りに頼れば見失う恐れがある。
さすれば、学びの対極である洗脳の脅威に晒される。
というか必ず洗脳されるだろう。
一番危ないのがメディアの洗脳である。
ニュースは必ず選別されている。
そこにフェイクも混ざっている。
そんな状況でただ反応してるだけでは必ず騙される。
怖いのはそれに気付かないことである。
それが自分の思いだと錯覚するのだ。
まあ、それが洗脳というものだが。
スマホが危険だと言ったが、
それはスマホ自体の問題ではない、
要するに使い方である。
・・・・・
しかし世界には実際に危険なスマホもある。
それは時に爆発するものだ。
それこそ本当に危険なスマホである。