ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

奴隷がいなかった訳

2015-03-31 11:32:14 | 日記・エッセイ・コラム
日本には奴隷はいなかった。
奴隷制度がなかったのである。
それはもちろん支配のない世界だからだが、
その理由は大きく二つある。
・・・・・
日本は多民族の島国である。
大陸からいろんな人がやって来ては、
住んでいたのだろう。
平地は少ないながら、
自然に恵まれていたから、
小人数で点在するには、
まことに適していた。
平和な時代である。
そこに比較的多くの人々がやって来た。
縄文晩期から弥生時代に。
それが今の日本人の主流である。
古事記などに記されているが、
出雲の国譲り、
神武天皇の大和入り、
いずれも戦いがあったとはいえ、
話し合いで決着している。
それはおそらく、
彼らが同族だったからであろう。
奴隷がいない訳である。
・・・・・
それより前にいた人達はどうしたか。
新参者とは争いがあったとしても不思議ではない。
とはいえ土地は十分に余裕があり、
結局棲み分けしたのだろう。
それにその中には既に同族がいたのではないか。
多くの人々が当てもなくやって来るとは考えられない。
日本列島を目指したのだ。
旧世界では民族間の争いが頻発していた。
敗れた者は殺されるか奴隷になるしかなかった。
それを嫌ってやって来たのだ。
だからこそ、奴隷を拒否していたのだろう。
するも、されるも。
・・・・・
さりながら、
中国の古書に奴隷らしきものが記されている。
日本から献上されたと。
「生口」と書かれているものだ。
それが奴隷かどうかはよく分からない。
たとえそうだとしても、それ以外は見当たらない。
例外はあるにしても、
やはり制度としての奴隷はいなかった、
ということだ。



支配のない世界

2015-03-30 18:09:47 | 日記・エッセイ・コラム
一君万民は日本の国体である。
これは君民一体とも言う。
というより君民一体の方が表現としては良いと思う。
ともかく支配・被支配の関係ではない。
そういうことだ。
・・・・・
日本は天皇が治めるところである。
古事記などの古書に記されている通りである。
天皇が治めるのであるが、
それは支配するとか私物化するとか、
そういうようなことではない。
そのようには書かれていない。
どのように表現されているかといえば、
それは次の二つの言葉である。
すなわち、
「統べる(すべる)」「知らす(しらす)」、
である。
「統べる」とは「まとめる」ということであり、
「知らす」とは文字通り「しらせる」である。
天照大神の御神徳により人々をまとめ、
その御神徳をしらせるのである。
それが天皇が治めるということである。
・・・・・
誰も支配しない。
誰も支配されない。
そういう世界である。
これは、
羊飼いと羊の群れ、
に同じである。
天皇は羊飼いである。
栄光の羊飼いである。




一君万民

2015-03-23 10:18:53 | 日記・エッセイ・コラム
一君万民とは日本の国体である。
日本の在り方の根幹である。
天皇は世界の王とは違う。
権勢を誇ることはない。
豪華絢爛な宮殿を建てることもない。
質素なものである。
天皇の傍らで権勢を誇った者もいた。
奢れる者は久しからず。
皆滅んで行く。
歴史はそう語っている。
天皇は覇王ではない。
祈りの王である。
祭祀王なのである。
そして神でもある。
見立てとしての神である。
戦後は象徴と言っているが。
・・・・・
一君万民とは、
つまり、
天皇の前では皆ただの民である、
ということだ。
自由・平等などは欧米から取り入れたと、
多くの人は思っている。
表面的にはそうだ。
実はそうではない。
日本には初めからあったものだ。
見立ての神(祭祀王)を頂いている日本では、
それ以外の民は皆神の赤子である。
そこに上下の別はない。
対等なのである。
ゆえに万民の間にはお互いを縛るものはない。
互いに自由なのである。
それが国体である。
日本に奴隷制度がなかったのは、
このことによる。
もちろん生まれや能力など皆それぞれ違いがある。
それに社会を治めるには秩序が必要だ。
その為の役割分担は当然ある。
男女の違いはもちろん、職業の違いも上下関係もある。
それだけのことだ。
・・・・・
自由とか平等という言葉は、
日本では殊更に必要ではなかった。
でも欧米では必要だった。
どうしても必要だった。
まあ、そういうことだ。
でも不可思議なことである。
一君万民とは、
イエスとその僕の関係に同じである。
相似形である。
まったくもって…。






箸の使い方

2015-03-16 14:29:40 | 日記・エッセイ・コラム
今はどうかは知らないが、
何事も自由が良いということで、
ちゃんと教えなかったことがある。
箸の使い方である。
その結果、
変な箸の使い方をする人がいる。
若い人に多い。
・・・・・
箸の使い方は技術である。
基本的な方法がある。
柔道や相撲を教えるのと同様、
基本に基づいて教えなければならない。
その上で個性が出るのは当然だ。
そこは自由である。
そのことに疑問はないと思うのだが。
だが子供を束縛するのは良くないと言って、
教えず放置していたようだ。
その結果らしい。
昨今の世界的和食ブームで、
欧米人でもちゃんと箸の使える人がいるのに。
・・・・・
子供を育てるには、
束縛はすべからく良くない、
何事も自由にさせるのが良い、
ということらしい。
一見もっともらしいが、
これほどおかしなことはない。
それでは教えないのと同じだ。
教育ではなく放置である。
それは極論だが、
考え方はそうとしか思えない。
それが進歩的だということのようだ。
今はどうかは知らないが。
困ったもんだ、
リベラルって。

自由と民主主義

2015-03-16 12:54:24 | 日記・エッセイ・コラム
自由と民主主義、
世界の多くで掲げられている。
これらはいわゆる普遍的価値である。
掲げることに異論はない。
もっともなことだ。
・・・・・
だが注意は必要だ。
自由とは何でも好きにして良いということではない。
そのようにも取れるが。
実際そのように振る舞う人がいる。
民主主義とは民が主役であるということだ。
民それぞれが主役である。
皆が主役なのである。
でも皆が主役では舞台(世間)は成り立たない。
舞台はどうするのだ。
すなわち自由と民主主義といっても、
耳障りはいいが解釈によっては毒になる。
皆が主役で、皆が主張し、皆が勝手気ままに振る舞えば、
どうなるのか。
治まりの付かない修羅場となる。
現下の世界にもそういう兆候が見える。
だから注意しよう。
さりながら、独裁が良い訳はない。
シナを見れば分かる。
まったく論外だ。
・・・・・
過ぎたるは及ばざるがごとし、
と孔子は言った。
孔子の生まれた国では、
その言葉は今や跡形もないようだ。
日本ではなお生きている。
言葉(概念)は人が創ったものである。
所詮つくりものである。
過ぎれば毒になる。
過ぎれば嘘になる。
現政権の安倍自民党は自由と民主主義を掲げている、
普遍的価値として掲げている。
でも、そんなことは当然分かってる。
・・・・・
言葉は使いようである。
その言葉の持っている力を引き出すのである。
できるだけ良い面をである。
さすれば、それは先を照らす明かりとなる。
人々を導く明かりとなる。