ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

世紀を越えた嘘

2015-07-29 16:29:25 | 日記・エッセイ・コラム
嘘は一杯ある。
自由という嘘、平等という嘘、正義という嘘、人権という嘘、
数え上げればキリがない。
まあ、言葉の数だけ嘘があるのだから。
それも仕方ない。
が、世紀を跨いだ最も大きな嘘がある。
グローバリズムである。
・・・・・
近頃は漢字を当てて日本語にすることが少ない。
と言うか、ほとんど無い。
安直にカタカナ語にして使うばかりである。
グローバリズムもしかり。
これは、
世界は一つであるから、
ルールも慣行も皆同じようにして、
その中で自由に競争しよう、
ということらしい。
で、最終的には世界統一政府を創る。
それで戦争は無くなる。
絵に描いた餅、というか真っ赤な嘘である。
皆同じにして競争すれば、必ず強い者が勝つ。
金の力、知の力など力のある者の世界になる。
そして決定的な階級固定社会になる。
反旗を翻し武の力で対抗しようとしても、
それは暴力だとして押さえられる。
一般的に言えば、暴力とは力の濫用のことだが、
武の力だけが暴力として否定されるのだ。
そんなやっかいな世界なのである。
グローバリズムとはそんなものだが、
カタカナ語にしなくても他に適切な日本語がある。
それは全体主義である。
そもそも、そういう立派な日本語があるのだ。
なのに、それを使わない。
それはそうだろう。
グローバリズムとはナチスもびっくりの全体主義だから。
嘘がばれないように誤魔化してるのだ。
・・・・・
かの有名なスティグリッツ先生も言っている。
グローバリズムこそ世界の元凶だと。
分かってる人は分かってるのだ。
とはいえ、先生の本を読んだことはない。
タイトルと帯に書かれているキャッチコピーを見ただけだ。
でも、多分間違いないだろう。
と、思っている。

自明の理

2015-07-28 09:38:37 | 日記・エッセイ・コラム
私にとっては自明の理である。
言葉とは現実に対する後付のレッテル貼りである。
一人歩きすれば最後は嘘になる。
祈りの無い言葉は必ず嘘になる。
・・・・・
日本人にとって言葉は祈りである。
さりながら庶民はそのことに余り気付いていない。
まあ仕方ない。
日常は利害得失の世界だから。
でも時折に顔を出す。
ここ一番で。
まことは常に我らの傍らにある。
まことは常に言葉の内にある。
就中、天皇の言葉は「まこと」である。
常に「まこと」である。
世間の言葉とは違う。
利害得失とはまったき無縁である。
宮中では数多の祭祀が行なわれているが、
そこでの言葉は如何にあるのか。
口に出して詠まれるのか、
心の内で念じられるのか、
知るよしもない。
ともかく、神に捧げるのである。
まさに祈りである。
・・・・・
年の初めには、歌会始めというのがある。
広く国民から歌を集めて披露する。
一年の言祝ぎとして。
この時はもちろんだが、
天皇も多くの歌をお詠みになる。
御製と言う。
歌は理屈ではない。
心の内奥から発する思いであり祈りである。
歌でなく言葉を発せられることもある。
詔という。
最も印象深い詔は「終戦の詔」である。
戦争はちょっとしたきっかけで始まる。
だが、終わらせるのは難しい。
それは今のイラクやアフガニスタンなどを見ればよく分かる。
日本はそれをこともなく為した。
その様子を映したフイルムがある。
それを見れば分かる。
真に詔の力は大きい。
詔が無ければどうなったことやら。
・・・・・
天皇は理屈を言わない。
説明をしないのである。
説明は残念ながら嘘の始りになる。
そこにはどうしても自分の都合が入る。
そして弁解や説得に汲々となる。
そもそも、神様には弁解も説得も通用しない。
「まこと」の心で祈るのみ。
その祈る主、祭る主、それが天皇である。
天皇はまさにそのように在る。
それが日本であり、
それが日本の柱である。



盗人にも三分の理

2015-07-21 14:47:19 | 日記・エッセイ・コラム
護憲派と改憲派の論争が久しくある。
今回の安保法制の裏にはそれがある。
そもそも護憲とは矛盾した話だ。
それは憲法を否定してるに等しい。
要は内容がどうかであり、内容を問えばいいだけだ。
それをしないで、変えてはダメと言うのは憲法の否定である。
初めから作らなければいいのだ。
作った以上維持していかなければならない。
現実に即して。
しかるに議論を避けている。
報道機関こそ議論を惹起すべきだ。
最も不味いのは日本の憲法学者だ。
彼らの多くは学者ではなく、
ただの憲法教信者になっている。
・・・・・
現行憲法は占領体制で半ば押し付けられたものである。
日本がほんとうに自主独立の気概があるなら即刻改憲すべきだ。
というより、
一旦廃止し大日本帝国憲法に戻し、
その上で改憲すべきだ。
とは言え、
現憲法も一方的に押し付けられたものではないと言うなら、
普通に改憲すればいい。
どちらにしても改憲である。
要は内容をどうするかだ。
そこは議論を要する。
つまり、
護憲と改憲を対立項にするのは愚の骨頂で、
内容を問うのが本筋だ。
・・・・・
さりながら、
ご存じのように日本は未だ独立していない。
アメリカの頸木の中にある。
だから護憲にも意味がある。
押し付けられた憲法だからこそ盾になる。
アメリカの無理な要請に対して盾になる。
アメリカの戦争に加担しなくて済むのである。
だから悩ましい。
日本が真に独り立ちする時は当然憲法改正だ。
まだその時期では無いかもしれない。
ならば、改憲はもう少し先だ。
でも、現下の世界情勢は厳しい。
中東やウクライナ、それに何よりシナの問題がある。
取り敢えず現憲法の中でやるしかない。
ということは解釈変更するより他ない。
というより、それでいいのだ。
レレレのオジサンさんか。
・・・・・
ということで、
護憲にも「盗人にも三分の理」以上の理が、
あるのである。
てか、



いやはや何んとも

2015-07-20 10:08:35 | 日記・エッセイ・コラム
何んとも情けない限りだ。
安保法制の論議である。
木を見て森を見ず、
瑣末な議論ばかりで重箱の端をつつくのみ、
まったく肚に伝わらない。
野党は勿論だが自民党もである。
とは言え、そこは政治である。
言えないことがあるのだろう。
本当に大事なことは表に出ない、
と思っておいた方がいい。
野党はそこを突いてくる。
そして議論はますます子供じみてくる。
現実に見せられているのは、
幼稚園児の遊戯である。
まあ、そんなとこだ。
・・・・・
民主主義は最終的に多数決だ。
議論の末、多数決で決するのである。
それは強行採決ではない。
それを強行採決と言うなら民主主義は無い。
野党が戦術として、強行採決だと訴えるのはやむを得ない。
そこは政治だから。
だが、マスコミがそれを言ってはダメである。
野党がそう言ってると伝えるのはいいとしても。
マスコミ自身が言えば、そのマスコミは報道機関ではなくなる。
ただの政治機関紙となる。
そういうことだが、気を付けなければならない。
やり口が巧妙なことが多いから。
見出しで「強行採決」とデカデカと表示し、
本文で野党が言ってると書くこともある。
そんな姑息なやり口も多い。
日本にはそんな報道機関が結構ある。
まことに戦後の言語空間は怪しい。
いろんなところで偏向してる。
特に政治的な問題になると極端になる。
もちろん歴史もである。
・・・・・
「平和」という言葉であるが、
日本人はその意味がよく分かってない。
「安全保障」という言葉についても同様である。
そもそも言葉とは、
人間の頭の中だけに在り、
現実には無いのである。
まことに取扱注意の代物である。
だからである。
現実を投影している言葉には実がある。
現実から離れた言葉は最後は嘘になる。
ということを、
胆に銘じよう。

科学者の傲慢

2015-07-15 17:31:01 | 日記・エッセイ・コラム
バラエティー番組でのことです。
話の中で誰かが「本能」という言葉を使った。
そしたらその言葉は使うべきではないと言う。
今はそんな言葉は使ってないと。
・・・・・
分からないではない。
科学者が本能という言葉を使えば学問は成り立たない。
本能とは何かを研究してるのだから。
他の有意な言葉で説明しなければならない。
でも、本能とはその生物が持っている本来の力のことである。
鳥は鳥としての生きる術・力を持っている。
魚は魚、虫は虫として。
それを本能と言っている。
それだけのことである。
ひとつ言えるのは、
後天的に習得する術・力は本能とは言えないとしても、
その生物であるからこそ習得できるものなら、
それも本能と言ってもおかしくない。
どこで線を引くかは難しいのだ。
人の子が人になるには教育が必要だ。
教育は後天的なもので本能ではない。
それはそうだ。
だが、猿に人の教育を施しても人にならない。
人の子は教育されれば人になる力を持って生まれてくる。
顕在化してなくても、これも本来の力だ。
そういう力を持って生まれてくる。
ならば、それも本能といって差し支えない。
・・・・・
科学者を非難してるのではない。
人の使う言葉を自分の都合で良し悪しを言うのは、
ちょっとどうかと思うだけです。
科学者に限らない。
人は自分の得意な分野で時に傲慢になる。
とりわけ、科学者は謙虚であってほしい。
何と言っても人の世の道標なのですから。
と思っている。