ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

リベラルの終焉

2015-04-27 13:40:04 | 日記・エッセイ・コラム
「ものごと」はその一言で存在のすべてを表わす。
であるが分かりやすくするために、
「もの」と「こと」に分けられる。
見る対象により分けている。
「もの」を対象にするのは科学、
「こと」を対象にするのは文学、
ということになるのだろう。
所詮同じ「ものごと」を見ているのだが。
・・・・・
科学は「もの」を追う。
この世界は物だけでできているとし、
それをどこまでも追及しようとする。
唯物論的発想である。
科学はそれで差し支えない。
むしろその方が考えやすい。
文学は人の「こと」である。
「こと」の発信源を見据えなければならない。
だから人のことを追うとき、
唯物論的発想で追及するのは筋違いである。
もちろん合理的に考えるため、
唯物論的発想を用いるのは有用である。
人もまた物だから。
さりながらである。
唯物論的発想だけで追えば、
まことに怪しいことになる。
人のことは人の思いである。
人の思いの連鎖である。
「こと」の根っこ、
魂を見据えなければならない。
左派・リベラルは明らかにずれている。
唯物論的発想だけに頼るから。
とりあえずの手段としては構わないのだが。
分かってる人もいるとは思うが、
ほとんどの人は分かっていない。
だからレッテル貼りの観念論に陥る。
そして平気で嘘を言う。
「話せば分かる」と世間では言うが、それは無駄である。
最初から結論を決めているから。
・・・・・
私はよく言う、
「言葉は現実を切り裂く道具である」、
と。
だがリベラルの人士は、
「言葉の中に現実を閉じ込める」。
何のことはない。
それでは前に進めない。
リベラルは終焉している。








ものごと(2)

2015-04-21 09:17:14 | 日記・エッセイ・コラム
「こと」は事である。
事とは出来事であり、つまり「起こったこと」である。
時の経過の中での変化の有様である。
経過そのものともいえる。
記述しなければ無いも同然である。
物ならば、変化した後の物を見れば確認できる。
事は何も残らない。
・・・・・
事は記述しなければ残らない。
言葉はもともと話す道具であるから、
事とは本来的に語りである。
事を残すには語りを伝えなければならない。
それが口伝である。
神話や昔話などの類である。
文字が創られてからは、
それまでよりは残りやすくなった。
古事記などの神話・歴史、
万葉集などの歌、
源氏物語などの小説、
他諸々。
これら様々な記述を扱うのが文学である。
事を扱うのが文学である。
・・・・・
科学は時の経過の中で物を追う。
物が核心である。
分かりやすいとは言える。
では文学は。
何が核心なのか。
事は経過そのものだが、経過の核心とは。
何であれ動くときには、先ず動かそうとする力が働く。
その動かそうとする力こそ核心だと思う。
それを追うのである。
その力を日本人は一般的には気と言う。
人間に当てはめれば、
それは心とも精神などとも言うが、
何より日本人は魂と言う。
核心は魂なのである。
魂を扱うとなれば、
それは宗教ではないのか、
とも考えられる。
どうとでも言えるが、
私は思う。
宗教とは文学の一変種でしかない。
と、
・・・・・
ついでに。
日本人は無宗教の人が多いと言われる。
それは単に無宗教なのではない。
文学的なだけである。
文学はその中に既に宗教を内包してるのだから。



ものごと

2015-04-20 16:07:23 | 日記・エッセイ・コラム
「ものごと」は世界のすべてである。
「ものごと」は「もの」と「こと」である。
「もの」とは物である。
存在するすべてのものである。
「こと」は出来事である。
時の経過の中で起きる事象であり、
時の経過そのものである。
だから記憶(記録)されなければ残らない。
記憶されても忘れられたら、
何も残らない。
・・・・・
物は分かりやすい。
五感で捉えることができるから。
具体的なのである。
科学として取り扱いやすい。
存在してる物はすべて変化している。
変化してない物はない。
例えば水晶である。
これは石であり、一見何も変化してないようである。
しかし実際は動いてる。
一定のリズムで。
それを利用してるのが水晶発振時計である。
科学は物を追求するのだが、
それは物の変化を追うのである。
その追い方によっていろいろ分野がある。
物の位置関係を追うのが物理である。
物の質的変化を追うのが化学である。
それぞれ別の在り様として扱うが、
もとよりその変化は一体である。
そこが科学の限界かもしれない。
分けなければ考えられない、
ということが。
・・・・・
科学とは自然を取り扱うものである。
自然界で起こる事象の物的側面を追うものである。
だから科学とは自然科学のことなのだ。
欧米では特にそうらしい。
日本では「こと」も科学として取り扱おうとする。
それを人文科学と言う。
欧米では単に文学と言うらしい。
科学とは本来自然科学を指すのだが、
実験や観察を離れて理論だけを追うものもある。
理論科学である。
理論科学はある意味「こと」の科学に近くなる。
とはいえ最終的には自然に帰る。
自然(現実)に裏打ちされなければ認められないからである。
認められなければ仮説でしかない、
どこまでも。
科学は厳しいのである。







中韓は歴史を超えられるか

2015-04-15 14:21:49 | 日記・エッセイ・コラム
残念ながら中韓には無い。
変わらず中心に在り続けるものが。
天皇がいないのである。
天皇に代るものが無いのである。
これは決定的である。
上り調子の時はそれでもなんとかなる。
だが上り切れば後は落ちるだけ。
最後は足の引っ張り合い。
そして国は倒れる。
もちろん、
国が倒れても民はいるのだが。
・・・・・
だからである、
中韓の反日は。
反日を軸に国を保ってるのである。
でもである。
毛沢東、周恩来らはそうではなかった。
小平あたりまで。
反日を叫ばなくても求心力があったから。
毛沢東は、
我らが権力を握れたのは皇軍のおかげだ、
とまで言っている。
韓国も同じである。
確かに反日で国を立てた。
だが、それは政治的必要に迫られてのことだ。
必ずしも本心ではなかった。
軍事政権時代の大統領等は。
そして中韓共にそれなりに成長した。
が一旦運営に変調をきたすと、
どうにもならない。
求心力がない。
中心がない。
あるのは嘘と力による抑え込み。
そして結局反日にすがる。
どこまでも反日にすがる。
国が倒れるまで続くのだろう。
・・・・・
願わくば、
国が倒れる前に反日を止めればと思う。
それが民のためだ。
が今のところ、
そのような兆候は見えない。
無理なのか。
超えられないのか歴史は。
でも、それを為さない限り未来はない。
ほんとうの未来はない。
砂上に楼閣を築くばかりだ。





明治維新の不思議

2015-04-13 14:42:13 | 日記・エッセイ・コラム
ずっと分からなかった。
明治維新のことである。
まったくもって不可思議である。
なぜ維新が成ったのか。
武士が武士を止める。
貴族が貴族を止める。
代替として華族制度を作ったとはいえ。
革命ではないのだ。
自分で自分を変えたのだ。
奇跡である。
世界では有り得ないことだ。
・・・・・
巷間言われるように、
維新の志士達の活躍があったのだろう。
幕臣にも勝海舟や小栗忠順らの英傑がいた。
それに英邁な大名もいた。
話としてはなるほどと思う。
いちいち納得できる。
でも分からない。
なぜ成ったのか。
調子の良い時はまとまれる。
それは分かる。
でも混乱に陥ったら乱れる。
まとまるのは難しい。
そういうもんだ。
そして結局は滅んでしまう。
すなわちガラガラポンだ。
それが世界の常識である。
でも日本はそうはならなかった。
まとまったのである。
むしろ、それまで以上にまとまったのだ。
それが明治の維新である。
・・・・・
今は分かる。
はっきりと分かることがある。
それは天皇の存在だ。
日本には天皇が在ったのだ。
これが決定的である。
平和な時代には忘れられても、
危機に陥ればはっきりと分かる。
天皇は日本の核心であり、
決定的な求心力・拠り所なのである。
混乱の中、
バラバラに見えていても、
最後はまとまっていく。
維新はその典型である。
東日本大震災でも分かるように、
危機に陥っても助け合えるのである。
そういう国柄の基は天皇である。
まことに、
日本には天皇が在る、
のである。