ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

残念なこと

2015-01-26 14:14:14 | 日記・エッセイ・コラム
日本人人質事件、
結果はどうなるかまだ分からないが、
どうなろうと、
残念なことです。
・・・・・
何度でも言うが、
神の名において人を害するのは、
信仰ではない。
神を冒涜するものです。
人を害するのは、
あくまでも人の行為であり、
人の責です。
自らの行為を、
自らの責ではなく、
他者のせいにするのは卑怯です。
あまつさえ神にかぶせるのは。
言語道断の極みです。
神が唯一で絶対なら、
神は存在するものすべてにとって神です。
すべてのものにとっての存在なら、
神は特定のものの為に在るのではない。
当然のことです。
ゆえに、
特定の者が特定の者を害するのに、
神を持ち出すのは理に合わない。
もし神が在るなら、
むしろ害する者を罰するだろう。
・・・・・
本当の信仰はどんなものだろう。
本当の信仰者は、
存在するものすべてに、
慈しみをもって当たると思う。
私はそう思っている。
それがキリスト者であれムスリムであれ。
現下のように、
中世ヨーロッパの十字軍を引き合いに出したり、
逆に反十字軍を持ち出すのは、
自己利益を求める政治闘争でしかない。
たとえ虐げられた者のやむを得ぬ仕儀であれ。
・・・・・
私には聞こえない、
私には聞こえてこない、
本当の信仰者の声が。

残念なことです。





追放されたのは誰か

2015-01-19 09:46:28 | 日記・エッセイ・コラム
聖書は記している。
人間は楽園から追放されたと。
楽園の禁忌を犯し、
禁断の果実を食べてしまったのである。
蛇にそそのかされて。
ゆえに追放された。
・・・・・
ということは、
楽園には蛇がおり、果実が成っていたのである。
もちろんそれらだけではなかろう。
鳥や魚、木や草、
あらゆるものが満ちていた。
楽園なのである。
ならば楽園とは世界そのものである。
自然の世界そのものである。
そこから追放された。
追放されたのは人間である。
人間だけである。
・・・・・
欧米の聖書解釈では、
人はすべての生物の頂点にあり、
それらを統べる者であると。
どうすればこんな解釈ができるのか。
追放されたのは人間である。
なのに追放された者が支配するというのである。
これは逆恨みである。
なんと傲慢なことか。
そして本来の楽園である自然を破壊する。
追放されたのであれば、
どう考えても犬畜生以下である。
頂点ではなく底と知るべきだ。
・・・・・・
聖書は言っている。
だから祈れと。
謙虚になれと。
謙虚とは仰ぎ見ることである。
仰ぎ見て祈れと。
それが救いである。
でも注意しよう。
神という言葉は。
神という言葉は一般名詞として使おう。
固有名詞にするのは避けよう。
争いの元になる。
まあしかし、
ともかく、
現下のところ、
人間はどうしようもない。




日本人の祈り

2015-01-13 17:06:21 | 日記・エッセイ・コラム
神という言葉がある。
言葉の始めは音である。
話し言葉である。
「かみ」は「神」と書くが、
「上」と書いても「かみ」と読める。
漢字はそもそも当て字である。
神と上は同じ根を持つ。
・・・・・
「かみ」とはつまり自分から見て上ということである。
自分を人と置き換えれば、人より上ということである。
人(自分)より上の大いなるもの、
それが「かみ」である。
日本の旅館では仕切る者を「おかみさん」と呼ぶ。
宮中では天皇のことを「おかみ」と呼ぶらしい。
「かみ」とは自分より上のものである。
古来日本では目上の者を呼ぶときは名前を呼ばない。
だから「かみ」と呼ぶのである。
・・・・・
日本人はよく神に祈る。
神社に詣でるだけが祈りではない。
無意識に祈ることがある。
どうしようもなく困った時など。
祈りは一見頻繁にはなさそうだが、
本来日常的なものである。
日本人にとっては。
祈るには相手が必要である。
相手あっての祈りである。
「かみ」の前でひたすら謙虚になる。
その謙虚さが心を鎮める。
そして鎮められた心が次に躍動する。
それが祈りである。
祈る相手は普通は神である。
でも神でなくてもよい。
「かみ」であれば何でもいい。
人でもいい。
他の動物でもいい。
木や石でもいい。
存在するものすべてに謙虚になれば、
存在するものすべてが「かみ」である。
謙虚の真(まこと)である。
それが日本人の祈りである。
・・・・・
天皇は祈り主である。
日本人総体の芯として祈り続ける、
心柱であり祭祀王である。
かくいう天皇を戴く日本は、
まさに祈りの国である。

正月の祭り

2015-01-06 10:03:11 | 日記・エッセイ・コラム
正月は祭りだ。
大きな祭りだ。
最近は多少風情がなくなってきたが。
それでも最も大きな祭りだ。
・・・・・
祭りとは際(きわ)である。
「きわ」は境(さかい)である。
字義のことはよく分からないが、
そういうことだろうと思っている。
時は淡々と流れる。
始まりも終わりもない。
そういうものだが、それでは人の心が倦む。
どうするのか。
時に区切りを付ける。
無理やりでもこじつけでも、とにかく区切りを付ける。
時と時の間に「きわ」「さかい」を創るのである。
そして祝い祈る。
そうすることで、
新しい息吹や大いなる力が得られる。
祭りとはそういうものだ。
なかでも最も大きな祭りは正月である。
正月はみんなの祭りである。
一年に一回のみんなの祭りである。
・・・・・
祭りとは儀式である。
時に人は誕生、入学、結婚などを祝う。
それらは個人の儀式であり祭りである。
会社では創立などを祝う。
これも祭りである。
いろんな祭りのなかで、
最も横断的かつ定期的な祭りが正月である。
正月以外にもみんなの祭りがある。
「建国の日」などの国が定めた祝祭日である。
これらは好き嫌いはあるがみんなの祭りである。
なかでも正月は特別だ、
と思っている。
私は何より正月が好きなのである。




日本の正月

2015-01-05 08:14:46 | 日記・エッセイ・コラム
正月は日本の最大・最高の祭りである。
どこの国でも祝うようだが、
日本では特別だ。
・・・・・
年末に大掃除をし、
隅々を掃き清め、
飾り物などを整え、
神様を迎える準備をする。
そして、
大晦日には身を清め、
年が明ければ神様を迎える。
それと同時に、
近所の神社に参る。
時の区切りである。
時のけじめである。
そうやって、
また一年を始める。
・・・・・
人間の身体は、
数か月ですべての細胞が入れ替わる。
それが生きているということであり、
それを新陳代謝という。
でもそれは自ずとなる。
意識せずとも行われる。
人は身体だけの存在ではない。
気がある。
精神とも心ともいう。
魂ともいう。
もちろん、
人以外の生物にもあろうとは思う。
でも人はすぐれて気の生物である。
気を表に出す(意識)生物である。
だから気を入れ替えねばならない。
気の新陳代謝である。
それが必要だ。
そのための行事が正月である。
正月という祭りである。
・・・・・
継続の国、日本。
水に流せる国、日本。
いろんな言い回しがあると思うが、
それらはすべて正月の効用である。
時を区切り、
時にけじめを付けるから、
継続できるのである。
水に流せるのである。
正月を祝いましょう。