ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

眼前の戦い

2021-05-31 07:52:38 | 日記・エッセイ・コラム
眼前で凄い戦いが行われている。
五輪を開催するか中止するかの。
メディアは中止に追い込もうとしている。
テレビに出るコメンテーターはほとんどそう言っている。
聖火リレーに参加予定の芸能人らも多くが辞退している。
どこからか圧力でもかかってるのかと。
アンケートでは中止が多数派だという。
私の周りにはそんな人は見かけないが。
てか明らかに中止を叫ぶような人はいない。
でもメディアに釣られている人はいるかも。
どちらにしても、
今がその正念場である。
・・・・・
政府は開催したいのだろう。
国民も実際はそうだと思う。
何より私がそうです。
それが日本の意思なのです。
為の準備は延期も含めてなされてきた。
そこに何の問題もなかった。
粛々と実施すればいいだけ。
中止させたい勢力はそこに為の理由をつくりだす。
それがコロナウイルスの煽りです。
そんなことはないと思うが、
裏でウイルスをばら撒いてるのではと、
変に勘ぐってしまう。
ともかくも煽っているのは事実。
ワクチン問題もその一貫である。
そも政府はワクチンに積極的ではなかった?
私はそれを良しとしていた。
だが最近は妙に積極的になっている。
背に腹は変えられないのか。
煽りを何とかせねばと。
内閣官房参与の高橋氏も日本の実態は、
さざ波のようなものだと。
それはその通りだと。
なのにそれがまたメディアの餌食になった。
そして辞任することに。
なり振りかなわぬ圧力。
アメリカの国務省も蔓延を理由に渡航勧告を変更した。
トランプ政権だったらなかったろうに。
たらればではある。
実際海外ではどう思われているのか、
オリンピックの開催を。
その辺のニュースはほとんど流れてこない。
多分日本と変わらないだろうと。
すべては繋がっているのだから。
・・・・・
ではなぜ中止させたいのか。
思うに日本が世界安定の核になるのを恐れていると。
五輪開催がその力となるのは目に見えている。
先のラグビーワールドカップを思い起こせば。
だから潰したいのです。
だからの日本潰しは以前から計画されていた。
為に先の戦争では徹底的に破壊された。
二度と立ち上がれないようにと。
でも日本は復興した。
アメリカをも脅かすほどに。
だから同時に行われてきたのが精神的主柱の破壊。
それを反日自虐史観というが、尚強化されている。
シナ・朝鮮をも利用して。
彼らの意に添っていたこともあって。
でもその実行犯は日本にいる。
そこには、
確信的反日もいるだろう、
損得だけで組してるのも、
また止むを得ずの場合も、
まあ色々だろう。
なんにしても実行犯は日本人の中に、
日本人モドキも含めて。
そこが辛いところです。
特に多く集まっているのが、
学会やメディアそれに政界や官界で、
つまり言葉を生業とする職種です。
それは彼らの武器が言葉だから。
お金も必要だが、それは為に必要だから。
これはアメリカ等でも同様で、
故にGAFAは正にその牙城。
先の大統領選挙ではそれが明らかになった。
彼らはもうそれを隠さない。
ここでひとつ覚えておこう。
いま開催中止を先導する者は、
リベラル系の反日人士であり、
典型的には中止署名の発案者、
あの高名な人権派弁護士です。
彼は正に言葉を武器とする者。
ことは明白です。
・・・・・
ともかくも、
開催中止への圧力は半端ではない。
あの手この手である。
当初より言われていたのが、
五輪は金食い虫であるとか。
そも目的はお金ではないのに。
それにいつも言ってるように、
お金は価値そのものではない。
その価値はすなわち日本人(の働き)にある。
日本人の働きと交換できるからこそのなのだ。
ゆえに守るべきは日本人である。
命は当然ながらその生き方をも。
その生き方の総体を文化と言う。
それらを守るのです。
もはやこれは戦争である。
今回は負けてはならない。
ちなみに、
逸れているようでも逸れていないのが、
皇室の問題と夫婦別姓やLGBTの問題で、
皆この脈絡の中にある。
騙されてはいけない。
ここは踏ん張らねば。

神という概念

2021-05-24 10:02:45 | 日記・エッセイ・コラム
最近雑誌で読んだのだが、
中華世界には神の概念がない、
との記事があった。
その人はそういうことを記していたが、
なるほどと思いました。
神と謂う字はシナにもあるだろうに。
てか元々シナのものだろうに。
なのに概念がない?
とは…。
・・・・・
シナは祖先崇拝である。
今もそうである。
だから夫婦別姓なのだ。
夫婦別姓でなければ先祖には遡れない。
双系にすれば遡れないのです。
限りなく分散するから。
ちなみに今の皇室の問題はここにある。
皇室典範に記されている通り、
男系男子でこそ大古に遡れる、
それが皇室たる所以なのです。
であるのに…。
ちょっとそれたが、
彼の国の祖先崇拝は男系を軸に父祖に遡る、
そういう祖先崇拝である。
だから男尊女卑であり、
女は子を産む道具でしかなく、
それも男子を産まなければ疎まれる。
勿論子はすべて父方に属し父方の姓を名乗る。
この祖先崇拝は父祖には遡れるが、
どこまでいっても父祖でしかなく、
つまり人(それも父方の)なのだ。
そういう祖先崇拝である。
そこに神の影はない。
だから神を意識する機会がないのだ。
神概念がないと言われるのも頷ける。
大古にはあったのだろうが。
神話も残っているようだし。
孔子先生は言っていた「我鬼神を語らず」と。
これは合理的な思考だけで物事を語ろうとの、
そういうことらしい。
孔子先生自体は祈る人であったのに。
結果祈りから神を遠ざけてしまった。
そしてその教えが定着した。
しかも宗教化してしまった。
神仏という柱がないままに。
それが儒教である。
そんなこんなで、
自分中心は誰だってそうなのだが、
それがどこまでも自分中心となり、
今日見られるような、
他人を顧みない思想、
中華思想と相成った。
・・・・・
日本も祖先崇拝はある。
というか祖先崇拝は人類の基本だろう。
ちなみに女系で遡るのは基本的にできないと。
生理的に難しいのです。
女が子を産む数は限られる。
それに女系となれば女子でなければならない。
だから常に断絶の危機なのだ。
男ならその危険は少なくなる。
それでも世界は広いから女系社会もあるようだ。
それはライオンの群れに似ている。
雄はほとんど居候状態(部外者)。
ところが日本の皇室は大いに異なると。
男系男子だから父祖(初代天皇)に行きつくが、
それは血としては天照大神に繋がる。
なんとそれは女神である。
男系とはいえ女性なのです。
しかも人でありながら神です。
まことに霊妙なり。
だから日本に男尊女卑はない。
むしろ逆である。
宮中では陛下のことを「おかみ」と言うようだが、
それは「御上」と言うことらしい。
「上」を「神」としても構わない。
庶民は昔は家を仕切る女性を「かみさん」と言っていた。
男達の間では「やまのかみ(山神)」とも。
料亭や旅館では「おかみ(さん)」と言う。
庶民の間ではむしろ女性が上位なのだ。
今も変わっていない。
日本の女性運動が変なのも当然。
欧米の毒に侵されている。
それに最近は妙に夫婦別姓に拘っている。
シナの毒もほしいようだ。
・・・・・
ところで戦前の家制度とは、
実は素晴らしいものである。
これは皇室に倣って男系のようではあるが、
その実は双系なのです。
姓だけは皇室に倣っているが、
血としては双系である。
今更説明する必要はないだろう。
だから先祖は限りなく分散する、
そしてそれは最後に神にかえる。
それぞれの氏神にかえるのです。
氏神は家の象徴だが血としては分散しており、
結局すべての氏神はひとつに収斂する。
その中で皇室だけが血を守る。
そしてそれは母神(母であり神である)に至る。
ひとり血を守る皇室に姓がないのは、
ゆえに各氏神を束ねる総氏神となる、
の所以です。
まさに象徴(心柱)である。
ところでシナに神概念がないとしても、
ならこの日本にはあるのか。
いうまでもなくあるのです。
しかもそれは意識しようとしまいと、
まるで空気のように、
あまねく満ちている。

呪い

2021-05-17 09:04:53 | 日記・エッセイ・コラム
今日は怖ろしい話しです。
身も心も凍ります。
呪いの藁人形、丑の刻参り、…………。
それは横に置いて、
祈りの対極にあるのが呪いです。
どう違うのか。
ともに神に願うものですが、
祈りは「福」を願うもの、
呪いは「他人の不吉」を願うもの、
です。
ちなみに福は自他を分ける必要はない。
不吉はあくまで他人へのことです。
意味合いも含めてまったく違います。
だから私は対極にあると、
そしてまったく違うものだと、
そう思っている。
・・・・・
ところで、
日本では共に神に願うのですが、
欧米では違うと思うのです。
祈りは神に、呪いは悪魔に、だろうと。
そこは分けている。
とはいえ、
悪魔とは元は神の下にいた天使で、
それが神に反逆して落ちたのだと、
そう言われている。
それを堕天使(ルシファー)と言う。
日本と欧米とでは信仰の在り方が違うが、
その根は一神教と多神教の違いでしょう。
祈りと呪いではそこは逆になる。
日本は神に一本化してるが、
欧米は神と悪魔に二極化している。
内容によって分けるのだ。
善悪を明確にしたがる訳である。
さらに言えば、
ならば日本は一神教だと言えなくもない。
全体を一つと見ればそうなる。
部分である現象に神が宿るのは当然で、
その一つひとつに神を見る。
そして名前を付ける。
それが多神教である。
つまり神は多面的なだけであり、
もとは一つとは無意識の前提か。
なら日本こそ一神教である。
なら欧米は似非一神教であろう。
すなわち神と悪魔の間をさまようばかり。
そして悪魔崇拝が跋扈する。
いつも神の手の中で生きている日本とは、
そこが大きく違う。
まあどうとでも言えるのですが、
私一流の言葉遊びである。
・・・・・
言葉とはすなわち言葉遊びなり。
私はそう思っている。
お化けや幽霊は現実ではなく、
脳の中の幻想だと謂われる。
なら概念もそれに違いない。
身体の細胞の一つひとつが現実に感応して、
それが脳に投影されたものは実と言える。
まんまの実とは言えなくとも、限りなく実である。
それが言葉の基ではありましょう。
だが言葉の本質は概念である。
実から想起される概念である。
それは抽象とも言われる。
これは字義の通りである。
象(つまり現象という実)から抽したものです。
概念とは抽象であり、それは脳内の幻想である。
だからです。
言葉とは所詮言葉遊びだと。
それを真理(を追究できるもの)だと思う人がいる。
それが昨今の混乱の原因です。
真理であるらしい言葉、
例えば、
自由・平等・友愛・人権など、
これらの言葉を大声で連呼し、
言葉の中に現実を閉じ込め、
そこから外れるものは否定する。
つまり、
脳内の幻想を真理とし、
眼前の現実を否定する、
のです。
これ本末転倒なり。
・・・・・
表題に戻る。
日本は祈りの国である。
祈り主のおられる祈りの国である。
国民ひとり一人の幸せを祈られる。
そして世界の平和を祈られる。
そこに呪いはない。
呪いは嫌うのです、徹底的に。
それを知ろう。
欧米にも祈りはある。
そこは同じです。
だがときに呪いにも引き込まれる。
それがこれまでの欧米の歴史です。
祈りと呪いの相克の歴史なのです。
今まさにそれが起きている。
大きな大きな渦として。
なお厄介なのが中韓である。
彼らは祈りを見失っている。
ただ呪いがあるばかり。
まことに難儀な時代である。

ミーとハー

2021-05-10 10:59:33 | 日記・エッセイ・コラム
つまりミーハーである。
これは私のことである。
テレビは見ないと言っているが、
それはニュースやニュースもどきのことです。
特にワイドショーである。
ドキュメンタリー番組も余り見ない。
あからさまな偏向もあるが、
こっそり入れてくるのもあって、
これが返ってむかつくのだ。
中にはバラエティーに潜り込ませるのもある。
それも気に入らないが、
好きなアイドルなどが出ていれば、
つい見てしまう。
ミー(私)はハー(彼女)を見たくなる。
ということです。
それを私はミーハーと言っている。
世間でもそのようです。
・・・・・
先の日曜日のことです、
チャンネルを回してたらローラさんが出ていた。
MCは林某でしたがそれでも見てしまいました。
「初耳学」という番組であった。
彼女は今アメリカに住んでいる。
久しぶりに見たが、相変わらず魅力的でした。
その時の話です。
スリランカで生まれ、そこで育ったが、
後に日本にきて、ときに日本の小学校に通った。
でもである、言葉が全然分からないのだ。
普通は落ち込むのだが、彼女が素晴らしいのはそこからです。
分からないなりに全神経で場を察知して、
それなりにコミュニケーションをしたと。
語彙はひとつ、オーケー(OK)である。
楽しいときは前向きにOKOKとジェスチャー交じりに。
悲しいときも前向きにかつ趣きをかえて。
ほとんどOKという言葉ひとつで。
後にテレビで活躍しているときも、
そのフレーズが大活躍したのです。
勿論彼女自身が持ってる性根があってのこと。
ここで言えるのは、
言葉がすべてではないということ、
言葉以前の思いこそ大事だと。
以前も言ったように、
言葉は印(しるし)導(しるべ)でしかなく、
それ以前に思いがあるのです。
圧倒的な魂の躍動として。
それを私は無私の想像力と言う。
ローラさんはそれを活用したのです。
OKという言葉ひとつで。
まことに素晴らしい。
・・・・・
それを聞いていた林某さんがぽつりとつぶやいた。
彼は確か東大出身でしかも国語の先生をしている。
語彙は豊富で言葉使いが巧みである。
これは現在のことだが、
たぶん小さい頃から頭がよかったのだろう。
その人の話である。
私は言葉に頼り、すべてを言葉で表そうとする。
ローラさんとは対極にあり、
そこは私に欠けているかと。
これは正確な言辞ではないだろう。
録画もしてないし…。
頭もボケているし…。
でもそのとき思ったのです。
この話は以前私が言ったことに沿っていると。
言葉は脳内につけた「しるし」であり、
それは事柄を表現するのに効力がある。
でも印は印だけで在るのではなく、
無私の想像力と伴にある。
無私の想像力の内にある。
無私の想像力こそが本体である。
印だけを見れば明瞭に思えるが、
本体を見失えば嘘になる。
だから気を付けなければならないと。
優秀な脳を持っていれば尚更。
だから言うのです、
分かるとは分かったような気になるだけ、
煎じ詰めれば結局分かってないことに気付く、
疑問はどこまでも残るのです。
そういうもんです。
ずっとそう言ってきた。
その思いは変わらない。
・・・・・
結論。
林某は典型的な東大脳かも。
自分から言ってたし。
これは誹謗しているのではない。
得てしてそう成り易いものだと。
ついでに言えば、
無私の想像力とは60兆個も在るという人間の細胞が、
眼前の世界(宇宙)に呼応して脳に伝えたものであり、
しかも時々刻々と流れており、これはもう無限大です。
日本の歴史伝統文化はそれを知っていた。
それを肝に銘じていた。
最近余り聞かなくなったが、
「身体に聞く」や
「腑に落ちる」というのがある。
これらの言がその証です。
日本はそれを持っていた。
たぶん今も。
これは流行りのポリコレとは対極にある。
こんな流行り物で日本を壊そうとしても、
それは無理でしょう。
そう言うことですが、
油断は禁物、
注意しましょう。

東大脳

2021-05-03 06:05:29 | 日記・エッセイ・コラム
東大脳と謂う。
これは私が勝手に名付けたもので、
ある種の脳のことです。
非常に優れていて脳としては最高であります。
素晴らしいと言えば素晴らしいのですが、
それが落とし穴になる。
そういう脳のことです。
日本学術会議の会員に典型的に見られる。
所謂東大出身とは限らない。
・・・・・
ところでオタクと言われる人がいる。
ひとつの物事に興味を持ち徹底的に追求する。
損得や世間の評判などは気にしない。
そしてそれを極めるのだ。
以前は大方はバカにされていたが、
昨今はそういうことはなくなった。
時にはいい意味にも使われている。
それをオタク脳と謂えば、
この東大脳はその逆です。
ちなみに昔は、
学者先生を指して学者バカと言うこともあった。
ここでのバカは二通りの意味がある。
ひとつは物事にのめり込んで研究する態度で、
これはむしろ尊敬を持って言われた。
ひとつはそれゆえ世間には疎く常識に欠ける、
これはまんまバカという意味である。
ということだが、
これは正しくはオタクでありオタク脳である。
学者バカとはつまりオタクなのだ。
知っての通り、
オタクは自分を誇示しない。
世間に媚びない。
ゆえに一見常識に欠けて見える。
でもそこに悪意は欠片もない。
嫌らしい見せかけの善意もない。
素であり興味一筋である。
なんとも心地がいいのだ。
そんなこんなで、
私は思うのですが、
これは立派な尊敬だと。
・・・・・
そこで東大脳のことです。
これは自分が優れていると思い込んでいる。
確かに脳は優れていて性能がいい。
だからうぬぼれる。
それを世間に誇示する。
だから返って世間を気にする。
そして媚びを売る。
しかもその性能の良さゆえ、
ときに気まぐれであり、
一途さには欠ける。
本当の業績には欠けがちなのだ。
それはそうだろう。
物事を極めるには雑音は避けなければならない。
その雑音が入りやすいのだ。
お分かりだろうが、
本当の学者になろうとするなら、
学者バカでなければ。
さらにである。
昨今のように、
政治に利用されるのは最悪である。
特に文系は危険である。
歴史や経済などは最も利用されやすく、
今やプロパガンダ化している。
理系にしても注意が必要です。
世間を欺くために、
その肩書と成果が利用される、
それも捻じ曲げて。
・・・・・
冒頭にも触れたが、
学術会議の会員は典型的である。
シナの軍事研究には協力しても(間接的であっても)、
日本の軍事研究には協力しない。
意味不明である。
これは軍事研究の拒否でないのは明らか、
ただ日本を否定したいだけ。
それにである、
人を傷つけるのを良しとしないのはまだしも、
人を守ろうとすることをも良しとしないのだ。
軍事研究には両面あると謂うに。
よくぞここまでひん曲がったものである。
また学者ではないが、
テレビによく出てくる人達で、
同類の者たちがいる。
池上某とか林某らである。
彼らの実際は知らないが、
私にはそのように見える。
そのほかにもテレビには東大脳が溢れている。
だから最近はほとんど見ない。
結論、
テレビに溢れる東大脳より、
ネットで垣間見るオタク脳、
うん。