ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

慟哭

2019-05-28 23:07:18 | 日記・エッセイ・コラム
酷い事件が起こってしまった。
今日5月28日の事件である。
18人が殺傷されて、内2名は亡くなったという。
何とも痛ましいことだ。
それにである。
大人ではなく、子供を狙ったようだ。
まことにもって最悪である。
それが川崎市だと謂うのは皮肉か…。
現代の宿痾がはっきりと現れている。
・・・・・
私はいつも言っている。
大人の子殺し、男の女殺しは命を冒涜する最悪の犯罪だと。
幼い命やその命を育むのは何より大切なのだ。
それを護るのが社会の存在理由であろう。
すべての大人の役目だと。
とりわけ長く生きた者にとっては。
まさに私がそうだが。
だからこの事件を知ってから、
ずっと吐き気をもよおし、七転八倒しているのです。
何ともやり切れない。
それにもう一つ言ってることがある。
自然に立ち返ろうと。
自然はいつも先生なのだ。
人間以外の生物は腹いせに殺すことはない。
恨みつらみで殺すことはない。
己の道づれに殺すことはない。
ましてや面白がって殺さない。
人間だけが異様なのだ。
それを知らねば。
勿論ほとんどの人はそうではない。
もとより自殺は良くないが、普通は一人で逝くのである。
であるのに、なぜこんなことに。
聖書に言う原罪ゆえか。
・・・・・
生物は己のすべての細胞で眼前に向き合う。
その眼前は宇宙の一端とはいえ、大宇宙そのものなのだ。
そこに全細胞が向き合い感応し、揺らぎが起こる。
その揺らぎが行動の原点となる。
しかしてその原点を魂と言うのだろう。
人間ももとより他の生物と同様である。
そこに違いはない。
なのになぜあのような事件を起こすのか。
私は確信している。
それは細胞の揺らぎがどこかで抑制されるからだ。
何かに引っ張られて抑制されるのだ。
何かとは言葉であり、その概念にだ。
己の全細胞で感応する前に、大脳で処理してしまうのだ。
そしてそれが現実だと。
自分の良くない状況を社会(他人)のせいにする、
そういうことが少しはあっても、
自分のことはまったく棚に上げ。
そうなると大脳に留まったまま降ろせない。
60兆個もの細胞の多くが置き去りになる。
そして仮想現実だけを見てしまう。
その挙句煮詰まってしまうのです。
現実は言葉(合理)を越えて神秘に満ちているのに。
それを見過ごせば、大きな闇を抱える。
・・・・・
小さい頃にそのような揺らぎを体験できなかったか。
全細胞の揺らぎとは、魂の発動でもあり、それは普通感動とか言う。
そういう感動を体験することが大事です。
知育と同時に、いやそれ以上に大事です。
今でも日本の教育は悪くはない。
でも知育先行で情が疎かになっている。
自由・平等・人権それに平和というお題目は、
勿論それ自体悪くはないのだが、
それだけでは情は育てられない。
情は大脳だけでは無理なのです。
全細胞の揺らぎが必要なのです。
日本語は言葉そのものに情が満ちている。
日本人は言葉をそのように使うのが好きなのだ。
まことに言霊の幸はう国である。
なのに、その国語が歪められている。
戦後教育がそうしている。
そしてやたら先鋭化した欧米の論理(言葉)を重用する。
これ皆、所謂リベラル人士の技である。
実に困り果てた状況だが、大半はそのことに無頓着。
もうそろそろ気付いてくれよと。
川崎市はそのリベラルに完全に犯されている。
今回の事件が川崎市で起こったのは因縁かも。
ふとそう思ったのですが、
川崎市の皆様御免なさい。

2019-05-27 11:58:14 | 日記・エッセイ・コラム
現代人は大きな罠の前に立っている。
それは言葉という罠である。
聖書はそれを警告していたのに。
必ず陥ると知っていたから。
それでも、
陥ると覚悟している者だけが、
かろうじてその前に留まれる、
のだが。
しかし、それができない者がほとんどだ。
昨今は実に酷い有様である。
・・・・・
言葉を持たない生物は、
己のすべての感覚で現実に向き合っている。
その範囲は人の目から見れば非常に小さいものだ。
この広大無辺な宇宙からすれば。
だがである。
彼らが向き合っている範囲は、
この宇宙の一片ではあっても、
そこに切れ目はなく、
どこまでも繋がっている。
結局は宇宙そのものなのである。
人も本来は同じである。
だが如何せん言葉を持ってしまった。
それが何を意味するのか分からないようだ。
現代人はこのことを問わなくなった。
言葉に溺れてしまった。
・・・・・
神の言葉は現実だ。
神は言葉によってこの世界を創ったのだから。
だが人はなぜか言葉を手に入れた。
聖書はそのことを暗示している。
さすればである、
人にとって言葉は借物(仮物)でしかない。
神の言葉は現実であり、人の言葉は仮想なのだ。
確かに現実の一端を表現するには都合がいい。
それが言葉の質だから。
そしてそれを合理とか言っている。
ここで勘違いをした。
一端はどこまでも一端なのに、その一端に囚われたのだ。
一端を言葉に置き換える術を得て、勘違いしてしまった。
それを大きくすれば全部になると。
でも一端は一端である。
どこまで行っても一端である。
その向うにいつも未知の領域がある、圧倒的な。
それを神秘と謂う。
現実とは神秘に他ならないのだ。
それを知ろう。
・・・・・
それにである。
人間ももとよりすべての感覚で現実に向き合っている。
そこは他の生物と同じだ。
さりがら常に目の前の現実を言葉に置き換えてしまう。
その置き換えられた言葉に感覚が引きずられる。
言葉(により創られた思い)に囚われてしまう。
これが普通であり、宿命と言うべきか。
どうも大脳が発達したお陰らしい。
その大脳に写された言語的現実を現実と認識するのです。
全細胞による感応よりも大脳の認識が優先されてしまう。
つまり仮想現実を生きることになる。
お化けや幽霊は脳が見ている幻想だと言うが、
合理というものも幻想と変わりはないのです。
私はそう思っている。
ただ科学的思考は少し違うと思う。
科学は現実によって裏打ちされたものだけが認められると。
それなら仮想とは言えないだろう。
あくまで(自然)科学のことだが。
・・・・・
現実とは神秘である。
神秘が宇宙の現実である。
とは言え、合理にも意味がある。
大いに意味がある。
日常の行動の決め事にするのは素晴らしい。
範囲を決めて用いるなら、それも有用です。
でも実際の現実は広大である。
神秘に満ち満ちている。
それを知ろう。
しかして、神秘に対処するには方途がある。
それは祈りである。
合理では埋められない領域、
その圧倒的な領域を埋めるのは祈りである。
人間は言葉を持ったときから、そうである。
祈りを生きてきたのだ。
罠を前にして留まるには、
それを置いて他にない。

ドラえもんのいる世界

2019-05-20 11:11:15 | 日記・エッセイ・コラム
唐突なことですがドラえもんです。
人気の漫画で、私も見ています。
設定もそうだが、いかにもの日本的眼差しで面白い。
なかでも「どこでもドア」という発想が好きである。
・・・・・
日本には神様がいる。
そこかしこに。
神という字は「示」す編に「申」すと書く。
つまり示して申すのである。
何を申すのかと言えば、祈り(願い)の言葉である。
こは如何に?
示して申すとは自らの所作のことではないか。
それを祈る対象(相手)とするのか。
そも祈る対象(神様)は見えない。
存在するものすべてに関わっておられる。
この世界に現れるものすべてに神意・神威があるのだ。
それを現実と言い、実に取り止めなく漠としたものだ。
でもそこに感じるのです。
その感じるものに祈るのだが、
さりとて対象があやふやなのは虚しい。
何か手ごたえが欲しい。
そこで名前でもあったらいいと思う。
だが勝手に付けるのもおこがましい。
取り敢えずは自らの所作をそれに当てることにする。
それが神である。
そうこうしている内に、それが定まったのです。
などと勝手に想像している。
・・・・・
神とは漢字である。
音読みとしては「しん」である。
訓読みでは「かみ」という。
訓読みこそ日本の音である。
この「かみ」は別の漢字で上というのがあり、
これも「かみ」と読む。
だから神と上は音では同じであり、
意味的には通じるところがあるのだろう。
この上という字には別の読み方もある。
それは「うえ」である。
でも神様は「うえさま」とは言わない。
でもこの読み方も時には使うのである。
家来が殿様を呼ぶ時などに。
なぜか訓読みには二つある場合がある。
これがよく分からない。
古くから大きな勢力が二つあったゆえか。
上を「かみ」と言う勢力が祈りに関わっていたのかも。
ともかく神は「かみ」と読む。
ちょっと横に逸れました。
・・・・・
普通祈りは主に神社で行っている。
神社は日本中いたるところにある。
小さな祠などを含めればそれこそ無数にある。
神威を感じる所(場)や物(木や石など)には結界を張って祀るのだ。
だから日本中どこにでも祈りはある。
いつ祈るかも特に定めはないようだ。
勿論神社などでの祭礼は定められている。
庶民は思い立ったが吉日であり、いつでもいいのだ。
それにである、普段の生活の場でもよく又特に神棚がなくてもいい。
と言うより、心からの願いは時と場所を選ばない。
例えば家族が手術のとき病院の待合で、
例えば子供が入試のとき自宅の台所で、
例えば兄弟が試合のとき応援の会場で、
等々挙げれば切りがない。
祈りとは日常なのである。
日本人の祈りはそういうものである。
いつでもどこでも祈りはあるのだ。
日本人は心の中に祈りの「どこでもドア」を持っている。
まあ日本人だけではなかろうが。
でもこの「どこでもドア」は日本の神様と相性がいい。
何しろドラえもんが生まれた国なのだ。
・・・・・
ドラえもんの作者の思いは知らず、
勝手ながらにそう思っている。
ちなみに、だから日本はまさにドラえもんの国だと。
それにである、
日本は一般的には多神教と言われるが、
それは神様が多数おられるというより、
神様はいつでもどこにでもおられると、
まあそういうことだろう。
何にしても融通無碍の自由な国である。

文化という衣

2019-05-13 11:00:29 | 日記・エッセイ・コラム
私は、文化とは生きる総体である、と言っている。
本当の意味や定義、はたまた語源などは知らない。
しかして文化は今突然目の前に現れたのではない。
長い時間の中で培われたもので、それが今にある。
歴史・伝統・文化と言う方が分かりやすいだろう。
・・・・・
今、米中の経済戦争が激しい。
勿論経済だけの戦争ではない。
覇権を懸けての争いなのです。
これは今や多くの識者の見解でもある。
だから全面戦争(武力による戦いも)になるかも知れない。
まあおそらくはないだろうが。
シナの文化にはそういう選択肢がほとんどないのだ。
そもシナとアメリカ権力の一部は繋がっている。
だからこそ覇権の棲み分けが持ち出されたのだ。
それをより多くをと欲張った。
さすれば衝突は避けられない。
そこにトランプの登場である。
トランプ大統領は一部の権力とは一線を画しており、
アメリカ建国の精神に則ったアメリカそのものです。
だからアメリカファーストなのです。
そんなトランプアメリカは決して妥協はしないだろう。
それが今の相だと思う。
・・・・・
シナの衣は中華思想である。
すべてが自分中心であり、国であっても個人であってもだ。
対外的には国益を前面に出し、相手への配慮はありません。
さりとて国(他人)の為に個(自分)を捨てることはない。
最後は当然自分なのです。
字義に示されている通り、それが中華思想の本質です。
昨今の彼らの対応を見ても明らかだ。
南シナ海での理不尽な国境の策定等。
どこまでも自分(国)本位なのです。
さりながら国の為に本気で戦う者はいないだろう。
勝てそうなら戦うことはあってもだ。
見込みがなければ逃げ回るだけです。
過去の戦いにもそれが現われている。
指揮官は決して戦わない、後ろで監視しているだけ。
立場の弱い者を前面に立たせる。
酷い場合は逃げる者を打ち殺す。
それが体質なのである。
彼らが靖国神社を嫌うのも道理です。
他人の為に覚悟して戦う者を畏れる。
勿論彼らはそれに気付いている。
だからこそ国民を恐れるのです。
そして超監視社会を作っている。
そんなシナは今袋小路に入っている。
アメリカに本気で戦ったら勝てない。
駄々降りしたら国民から見放される。
どうしようもないのだ。
・・・・・
太平洋戦争(大東亜戦争の一部)ではアメリカは本気で戦った。
国(自分以外の他人)の為にである。
一部の権力等に扇動されたとはいえ。
所謂リメンバー・パールハーバーだ。
当時のアメリカ軍には黒人兵はいなかった。
奴隷制は廃止されたが酷い差別の中である。
銃を持たせるのは危険だと思ったのだろう。
でもである。
そんな黒人を兵隊として前線に送り、
後ろから監視して戦わせる、そんなことはしていない。
あくまで自分で戦ったのだ。
そして勝ったものの、多くの犠牲者を出した。
アメリカもまた満身創痍であったのだ。
そこはシナとは違う。
今もアメリカは自由と民主を旨としているが、
その精神はオープンとフェアなのである。
これこそアメリカの精神だと思っている。
これこそアメリカの文化だと思っている。
聞いた話だが、
アメリカの軍人は日本の軍人に尊敬の念を持っているという。
それは互いに命を懸けて戦ったからだ。
武人は武人を知るである。
まあシナとは大違いです。
・・・・・
日本の柱は天皇の存在である。
無私の心でひたすら祈りを捧げるのです。
これが日本の心であり、文化の源泉です。
すなわち無私と謙虚です。
まあ同じような意味だが。
今、日米同盟がアジアの平和の礎になっている。
無私と謙虚そしてオープンとフェア、
どちらも素晴らしいです。
つまらない扇動に引っかかることなく、
この同盟を大事にしてほしい。
そしてアジアの平和を担保するだけでなく、
世界の平和にも貢献してほしい。

定期健診

2019-05-06 12:41:04 | 日記・エッセイ・コラム
大きな手術を受けて一年余り。
それも二回(二か所)である。
それぞれ直後三か月は毎月検診があった。
そして半年となり、次からは一年後です。
最初から、見た目は病人らしくなかった。
生活に不都合はなく、検査で引っかかっただけだから。
悪い所以外は健康なのだ。
まあ当り前のことですが。
・・・・・
日本の医者は素晴らしいと思う。
たまたま良い先生に当たってるのかも知れないが。
まれには首をかしげるような人もいるとは聞くが、
それは例外なんだろうと思うのです。
日本では医は仁術という言葉もあり、
総じてそういう伝統があるのだろう。
江戸時代中期の東北に安藤昌益という町医者がいたが、
彼は「病気の前では武士も町人もない」と言ったとか。
そういう話も残っている。
それに聖徳太子の時代には施薬院という病院のような施設もあった。
また聖武天皇の皇后の光明皇后も同様の施設を設けられていた。
どちらも庶民救済の施設である。
民を大事にするという伝統があるのです。
これ日本の国柄である。
当然今もだろう。
ところで医者は初めから医者ではない。
勉強し経験を積んで医者になる。
だから経験の浅い人もいる。
インターンとか研修医とか言うらしいが、
私が入院していた病院にもいました。
最初に聞かれたのだが、
時に彼らの診察を受けてもらえるかと。
勿論了承しました。
無駄飯を食ってる身ですから、むしろ喜んでと。
役に立てれば、この上ないことです。
そういう機会はなかったが。
・・・・・
今のところ身体に異常はありません。
この前の検診では、
血液検査の結果などをさっと見て、
大丈夫ですね、
じゃあまた一年したら来てく下さい、
とそれだけ。
実にあっけないことでした。
あまりのあっけなさに、
つまらんことを言ってしまいました。
曰く、
来られるかどうか分かりません、
…、
元気にしてたら又来ます、
と。
横で看護婦(看護師という言葉は好きになれない)が、
馬鹿にして笑っていた。
先生は無言で無視。
令和早々軟弱な話でした。