ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

右と左

2013-11-27 14:27:23 | 日記・エッセイ・コラム

右と左、何のこっちゃ……

右と左は相対的である。

絶対的ではない。

前後向きをかえれば方向は逆である。

その点、方位は絶対的である。

前後の向きにかかわりなく決まっている。

とは言うものの疑問もある。

北極点に立てば東西および北がない。

すべての方角が南である。

南極点に立てば東西および南がない。

すべての方角が北である。

しかも磁性がなくなれば方位もなくなる。

よって方位もまた絶対的ではない。

であるから、

右と左のほうがある意味絶対的である。

場所や磁性の有無にかかわらず、常にある。

相対的ではあるが常にある。

・・・・・

右と左は主観的なものともいえる。

方位は客観的ともいえる。

思うに、

主観の方が先で、客観は後である。

客観は主観に付随したものである。

しかも客観は突き詰めれば実はあやふやなものである。

主観はもともとあやふやであるが、

当人にとっては絶対である。

まあ、そんなもんである。

・・・・・

おっと、こんな話のつもりではなかった。

右と左は、むしろ思想的な話のつもりであった。

いわゆる右翼、左翼の話である。

余談がすぎたが、

本来の話はこの次にしよう。

続く。


原発ゼロ発言の無責任

2013-11-21 19:25:05 | 日記・エッセイ・コラム

原子力は悪魔の技術である。

人間には扱い難いものである。

でも、造ってしまった。

造った以上、付き合わなければならない。

放射能に汚染された物質は千年万年あり続ける。

ならば、千年万年付き合わなければならない。

覚悟しよう。

目の前に悪魔がいるなら、

排除できないなら、

覚悟して付き合おう。

どのように付き合うかは考えどころである。

・・・・・

ゼロにすると言うことはできる。

でもゼロにしようと思ってもゼロにできない。

造ったものはある。

形をかえて依然としてある。

どのように付き合うかである。

もとよりゼロを志向するのは良いと思う。

だとしても、

安全を求めるなら技術を維持向上させなければならない。

なにしろ始末に千年万年かかるのである。

技術を持たなければならない。

よりよい技術を。

ならば、そのためにも開発せよ。

開発して研究せよ。

必要最低限でよい。

経済性や商業性を求めるのではなく、

ただひたすら技術向上のためにである。

そういう風に付き合おう。

・・・・・

しかもである。

世界では今なお造ろうとしている。

日本だけがゼロにしても意味がない。

隣国で事故が起これば被害を免れない。

技術大国日本はただ漫然と事故を受け入れるだけか。

技術があれば被害を軽減できるかもしれない。

巷間言われている原発ゼロ発言は無責任である。

思うに、

ゼロ発言も再開発言も目的は一緒である。

もっとまともに議論せよ。

である。


責任

2013-11-15 10:57:38 | 日記・エッセイ・コラム

どうもいけない。

なんと言うか、嫌いで馴染めないことがある。

責任という言葉の扱いである。

・・・・・

責任とは取るものであって、取らせるものではない。

と、思っている。

取らせるものは、罰である。

責任を取らせるというのは罰を与えることである。

それは責任という言葉になじまない。

責任とは本来自発的な行為である。

取るものである。

昨今の状況を見てると、

責任は取るものではなく、

取らせるものになってしまったようだ。

嘆かわしい。

食品偽装問題にも現れているが、

誰も責任を取るということがない。

あっても、

皆取らされているのである。

・・・・・

自分のしたことは自分の責任である。

当り前である。

責任を取らないのは実は何もしていないからである。

バブル全盛の頃、経営がおかしくなった会社はいくらでもあった。

でも、責任を取ったということはつとに聞かない。

皆時代のせいにした。

本気で経営しておかしくなれば、当然責任を取る。

してみれば、

本気で経営した者がいなかったということである。

たぶん、それが真実だ。


易姓革命の悲劇

2013-11-11 10:53:46 | 日記・エッセイ・コラム

易姓革命は悲劇である。

過去を否定することは自分を否定することである。

過去の自分を否定することである。

矛盾である。

自分を立てるため、自分を否定する。

これは悲劇である。

この悪循環を断ち切らねばならない。

断ち切らない限り未来はない。

ひるがえって継続は力である。

良きも悪しきも過去を認めるのである。

自分を認めるのである。

その上で前へ進む。

現在は過去の結果であり、現在の状況が未来を決める。

これは法則である。

逃れようのない法則である。

けじめ、区切りは必要であるが、否定は不毛である。

継続こそ力である。

・・・・・

ならばである。

易姓革命の国は壊れるよりほかない。

常に自分を否定することになるから。

千年、万年の歴史を語っても、

実のところ歴史のない国である。

歴史を誇るなら否定の思想を捨てよ。

過去の否定を頼りにせず、今を立てよ。

今の自分は今の自分自ら立てよ。

それが歴史である。

・・・・・

中国も韓国も過去を否定して国を立てている。

易姓革命の国だから。

でも本来なら自分の過去を否定するところである。

中国なら清王朝、朝鮮なら李氏王朝である。

が、ともに他人である日本を否定する。

筋違いである。

朝鮮については筋違いとも言えないが。

しかしである。

否定の思想は不毛である。

良し悪しに係わらずすべてを否定する。

真に不毛である。

情けない隣人を持ったものである。

どうしようもない。

ほっておこう。


隠しごと

2013-11-08 13:35:02 | 日記・エッセイ・コラム

大事なものを隠すには、どうするか。

どこに隠しても、

隠した者はとにかく心配である。

何か良い方途はないだろうか。

どこに隠せば一番安心か。

・・・・・

お金を隠すのはお金の中に限る。

と、私は思っている。

同じものの中に隠すのである。

それが一番だと思う。

それと同じことで、

陰謀を隠すのは陰謀の中である。

世の中に陰謀論がたくさんある。

それらは実に眉唾で信用できない。

陰謀論など持ち出せばバカにされる。

まったく相手にされない。

ならばである。

陰謀は陰謀論の中に隠すに限る。

陰謀は先ず陰謀論として流布する。

そうしておけば、

それが本当であっても誰も訝らない。

誰からも相手にされない。

故にである。

私は陰謀論を好んで求めている。

そのほとんどは単に気晴らしとして読む。

でも万に一つの真実を求めて。

それが結構楽しいのである。

・・・・・

そんな訳で、

私はこの世界のことを少しは分かっている。

多くの日本の知識人はこのことに無頓着である。

真に無頓着である。

彼らは単に「頭の良いバカ」に過ぎない。

嗚呼!