日本の霊性は実に聖書的である。
どうにも不可思議である。
まあ考えようではあるが。
私自身は本当は不可思議だとは思っていない。
確かに日本人の多くは聖書を知らない。
旧約も新約も。
その区別すら知らないかも。
・・・・・
先にも記したが、
古い時代から聖書は日本に来ている、
と確信している。
漢字(漢文)で書かれた聖書である。
それは公にはされていない。
理由は分からないが。
シナの大帝国は何と言っても唐である。
当時は世界屈指の大帝国であった。
西のローマ帝国にも匹敵する。
往時は世界からの物資で溢れていたろう。
物も技術も情報も、そして人も。
だから日本は遣唐使を派遣した。
でも単に物や技術を求めたのではない。
ましてや経済的利得の為ではない。
求めたのは知識・智慧である。
学びなのである。
そしてそれは身の内に備えるだけでなく、
それ以上に書物を求めたのである。
手に入れられるだけ手に入れて、そして帰国する。
さすれば学びは続けられるのだ。
だから日本には今も多くが残っている。
本家のシナにはなくとも。
そこに漢字で記された聖書があっても不思議ではない。
当時は景教(キリスト教の一派)が流行していた。
そのしるしの碑がシナには残っている。
それを思えば不可思議ではない。
聞くところによると、
高野山にはその碑を模したものがあると謂う。
ならば持ち帰ったのは空海かも…。
可能性は大いにある。
・・・・・
それにしても、
それは日本の霊性が聖書的なのとは繋がらない。
他に理由があるだろう。
そも旧約聖書は3500年前から2500年前頃にかけて、
1000年もの長きに渡って書き綴られたもので、
まとまった形になったのは2500年前頃らしい。
それまでは個々別々にあったのが、
時に一冊にまとめられたのである。
それはユダヤの国がバビロン帝国に滅ぼされて、
囚われの身となった捕囚時代であり、
それが契機になったのかも知れない。
ともかくまとまった形になったから、
そこには明瞭に聖書的霊性が現れる。
でも聖書ができたから、霊性ができたのではない。
既にあった霊性が露わになっただけである。
1000年もの長きに渡っての思いの結晶として。
それにである。
更にそのもっと前から、その思いはあったろう。
それは前聖書的霊性と謂えるものだ。
それがあったからこそ聖書はできたのです。
つまり聖書ができる前からその霊性はあったと謂うことだ。
なら聖書を持たなくとも、
その霊性を持っていても、おかしくはない。
私はそれを思う。
故に不可思議ではないと。
・・・・・
現代は情報が一人歩きする時代である。
古代はそこは違うだろう。
情報は人とともにあったのだ。
情報とは人の思いの丈であり、その人そのものであったろう。
だから情報だけが伝わるとは考えられない。
人とともにあったのです。
そう思うのです。
どうにも不可思議である。
まあ考えようではあるが。
私自身は本当は不可思議だとは思っていない。
確かに日本人の多くは聖書を知らない。
旧約も新約も。
その区別すら知らないかも。
・・・・・
先にも記したが、
古い時代から聖書は日本に来ている、
と確信している。
漢字(漢文)で書かれた聖書である。
それは公にはされていない。
理由は分からないが。
シナの大帝国は何と言っても唐である。
当時は世界屈指の大帝国であった。
西のローマ帝国にも匹敵する。
往時は世界からの物資で溢れていたろう。
物も技術も情報も、そして人も。
だから日本は遣唐使を派遣した。
でも単に物や技術を求めたのではない。
ましてや経済的利得の為ではない。
求めたのは知識・智慧である。
学びなのである。
そしてそれは身の内に備えるだけでなく、
それ以上に書物を求めたのである。
手に入れられるだけ手に入れて、そして帰国する。
さすれば学びは続けられるのだ。
だから日本には今も多くが残っている。
本家のシナにはなくとも。
そこに漢字で記された聖書があっても不思議ではない。
当時は景教(キリスト教の一派)が流行していた。
そのしるしの碑がシナには残っている。
それを思えば不可思議ではない。
聞くところによると、
高野山にはその碑を模したものがあると謂う。
ならば持ち帰ったのは空海かも…。
可能性は大いにある。
・・・・・
それにしても、
それは日本の霊性が聖書的なのとは繋がらない。
他に理由があるだろう。
そも旧約聖書は3500年前から2500年前頃にかけて、
1000年もの長きに渡って書き綴られたもので、
まとまった形になったのは2500年前頃らしい。
それまでは個々別々にあったのが、
時に一冊にまとめられたのである。
それはユダヤの国がバビロン帝国に滅ぼされて、
囚われの身となった捕囚時代であり、
それが契機になったのかも知れない。
ともかくまとまった形になったから、
そこには明瞭に聖書的霊性が現れる。
でも聖書ができたから、霊性ができたのではない。
既にあった霊性が露わになっただけである。
1000年もの長きに渡っての思いの結晶として。
それにである。
更にそのもっと前から、その思いはあったろう。
それは前聖書的霊性と謂えるものだ。
それがあったからこそ聖書はできたのです。
つまり聖書ができる前からその霊性はあったと謂うことだ。
なら聖書を持たなくとも、
その霊性を持っていても、おかしくはない。
私はそれを思う。
故に不可思議ではないと。
・・・・・
現代は情報が一人歩きする時代である。
古代はそこは違うだろう。
情報は人とともにあったのだ。
情報とは人の思いの丈であり、その人そのものであったろう。
だから情報だけが伝わるとは考えられない。
人とともにあったのです。
そう思うのです。