ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

その理由

2019-11-25 19:32:50 | 日記・エッセイ・コラム
日本の霊性は実に聖書的である。
どうにも不可思議である。
まあ考えようではあるが。
私自身は本当は不可思議だとは思っていない。
確かに日本人の多くは聖書を知らない。
旧約も新約も。
その区別すら知らないかも。
・・・・・
先にも記したが、
古い時代から聖書は日本に来ている、
と確信している。
漢字(漢文)で書かれた聖書である。
それは公にはされていない。
理由は分からないが。
シナの大帝国は何と言っても唐である。
当時は世界屈指の大帝国であった。
西のローマ帝国にも匹敵する。
往時は世界からの物資で溢れていたろう。
物も技術も情報も、そして人も。
だから日本は遣唐使を派遣した。
でも単に物や技術を求めたのではない。
ましてや経済的利得の為ではない。
求めたのは知識・智慧である。
学びなのである。
そしてそれは身の内に備えるだけでなく、
それ以上に書物を求めたのである。
手に入れられるだけ手に入れて、そして帰国する。
さすれば学びは続けられるのだ。
だから日本には今も多くが残っている。
本家のシナにはなくとも。
そこに漢字で記された聖書があっても不思議ではない。
当時は景教(キリスト教の一派)が流行していた。
そのしるしの碑がシナには残っている。
それを思えば不可思議ではない。
聞くところによると、
高野山にはその碑を模したものがあると謂う。
ならば持ち帰ったのは空海かも…。
可能性は大いにある。
・・・・・
それにしても、
それは日本の霊性が聖書的なのとは繋がらない。
他に理由があるだろう。
そも旧約聖書は3500年前から2500年前頃にかけて、
1000年もの長きに渡って書き綴られたもので、
まとまった形になったのは2500年前頃らしい。
それまでは個々別々にあったのが、
時に一冊にまとめられたのである。
それはユダヤの国がバビロン帝国に滅ぼされて、
囚われの身となった捕囚時代であり、
それが契機になったのかも知れない。
ともかくまとまった形になったから、
そこには明瞭に聖書的霊性が現れる。
でも聖書ができたから、霊性ができたのではない。
既にあった霊性が露わになっただけである。
1000年もの長きに渡っての思いの結晶として。
それにである。
更にそのもっと前から、その思いはあったろう。
それは前聖書的霊性と謂えるものだ。
それがあったからこそ聖書はできたのです。
つまり聖書ができる前からその霊性はあったと謂うことだ。
なら聖書を持たなくとも、
その霊性を持っていても、おかしくはない。
私はそれを思う。
故に不可思議ではないと。
・・・・・
現代は情報が一人歩きする時代である。
古代はそこは違うだろう。
情報は人とともにあったのだ。
情報とは人の思いの丈であり、その人そのものであったろう。
だから情報だけが伝わるとは考えられない。
人とともにあったのです。
そう思うのです。

日本の霊性

2019-11-18 12:29:31 | 日記・エッセイ・コラム
日本の霊性はなぜか聖書的である。
聖書を知らない筈なのに。
歴史上日本に宣教師が来たのは、
大きくは二回ある。
一つは戦国時代である。
一つは明治時代以降である。
付け加えれば、敗戦以降がある。
戦勝国がどさくさに紛れて日本をキリスト教化しようとしたのだ。
(これは私の体験上の意見ですが)
どの時代にも信者はできたが、
特段に増加したようではない。
世界的には珍しいことだろう。
・・・・・
戦国時代に実際宣教師がやってきた。
純粋に布教が目的かは分からないが。
そして日本語を学び布教をしていた。
だから中には帰依する者もいたろう。
だが聞くところによれば、結構論破されていたらしい。
それはつまり、皆それなりの霊性を持っていたからだ。
当時の欧米人キリスト者にも引けを取らない、
ということだろう。
信者には大名が多くいたようだ。
それは信仰もあったのだろうが、
実利を求めていたとも謂われる。
また純粋に布教していた宣教師がいたにしても、
結局欧米諸国の野望が露見してしまい、
知っての通りの仕儀となってしまった。
挙句の果ての島原の乱である。
欧米リベラルはそれを弾圧だと言ってるようだが。
彼らは似非信仰者なのに。
否、似非信仰者だからだ。
・・・・・
ところで彼ら宣教師は聖書を残していない。
日本語で伝えていただろうに。
私が知らないだけなのか。
私が知っている聖書は明治以降に翻訳されたものです。
戦前は文語訳だが、今は口語訳もある。
これは聞いた話だが、
それらとは別に漢字で書かれた聖書があると、
それは西本願寺にあるらしい。
寺宝としているとも。
信憑性はどうも…。
ただ漢字で書かれた聖書があるのは事実だ。
その証は八上城跡の石碑である。
明治維新後のいつ頃かは知らないが、
時の毛利侯が八上城陥落時の城主・波多野秀治顕彰のため、
揮毫し彫られたものである。
それは旧約聖書エゼキエル書の一節である。
枯れた骨の復活を記したものです。
実にふさわしい内容である。
その聖書の一節は明治以降のものとは思われない。
すべて漢字(漢文)なのである。
もっと前からあったと思われる。
・・・・・
にしても、その件は特別だろう。
大方の日本人は聖書を知らない。
日本の古い文学にはまったく形跡がない。
でも霊性は聖書的である。
その理由が私には分かる。
明治時代以降は大いに布教されてきた。
それでも信者がちっとも増えないのだ。
敬虔な信者がいるのに、増えないのだ。
それが印(証)である。
青の世界にいる者に青い染料を掛けても色は変わらない。
そういうことだ。
だから事情は今後も変わらないだろう。
つまり、そも聖書的なのだ。
それが根本にある。

聖書的霊性

2019-11-11 12:10:17 | 日記・エッセイ・コラム
言うまでもないが、
聖書は世界最古の書物であり、世界最大のベストセラーである。
その組み立ては、どこか古事記に似ている。
最初に神話がある。
世界の成り立ちの話である。
その後、人が登場する。
そこでは預言者(神の言葉を預かる者)の話が主である。
つまり神と人との関わりである。
そしてそれはユダヤの歴史でもある。
神を賛美する詩編と謂うのもあるが、
まあ大体そんなとこです。
・・・・・
最初に神話があるのは、
結局そこから始めるよりないからである。
人間の根である。
この世界に対する根底の思いであり、
すべてはそこから発しているのです。
それを私は霊性と言う。
聖書は謂う。
神は初めに天と地を創った。
天と地とはつまりこの世のすべてです。
すべての「もの」です。
次に光あれと言ったら、そこに光があった。
それが第一日目です。
その後第六日目まで順次創られる。
それらはすべて神の口から出る言葉によって創られた。
そして第七日目に休まれた。
ところで、
私は言葉によって創られたと謂うことに、
俄然興味がわいてくる。
言葉によって創られたのは、
それは「こと」です。
「もの」ではないのです。
「こと」とはものの変化です。
最初に「もの」を創り、次に「こと」を創られた、
とは実に意味深で興味深い。
・・・・・
「こと」とは漢字で書けば、
「言」や「事」であるが、
日本語(音)だけで考えるなら、そこに区別はない。
「言葉」とはつまり「ことのは」であり、
それは神の口から出る声のことだ。
また別の字を当てることもできる。
「ことのは」とは「事の端」とも書ける。
全体を一つと見れば変化は一つだ。
全体を無数の集まりと見れば変化は無数である。
それら一つひとつが事の端である。
「神は細部に宿る」とは言い得て妙である。
事の端とはまさに神の言葉なのだ。
そしてそれらは森羅万象とも謂うのだが、
そこには有難いものも厄介なものもある。
どちらも祈りの対象となる。
一方は感謝への、一方は忌避への。
その祈りを通して、
思いの成就を願うのです。
柿本人麻呂は詠う、
大和の国は言霊のさきはふ国ぞ…、
北畠親房は記す、
大日本(おおやまと)は神の国なり、
と。
・・・・・
聖書はヘブライ語で記されている。
新約聖書はギリシャ語ではあるが。
それらの原語はもとより知らない。
なのに日本語で考えれば、妙に合点がいくのです。
聖書を知らない筈の日本人だが、
なぜか聖書的霊性を生きている。
そう思うのです。
不可思議ですが。
まことに、
まことに、

霊性の起源

2019-11-04 10:59:45 | 日記・エッセイ・コラム
存在するものには起源がある。
その起源は皆同じである。
この宇宙(の存在)に起源があるとすれば、
そこに存在するものの起源は皆同じである。
今この宇宙は確かに在る。
ただ在る続けるものとして在る。
絶えざる変化とともに。
これが現実である。
・・・・・
起源は本当にあるのか。
それすら分からない。
初めがあるなら終りがある。
でも終りの後には何があるのか。
また始まりがあるのか。
なら振り出しに戻る。
世界と融合していればそれを想わずに済む。
だが離れてしまった。
我を持ってしまった。
だから人間はそれを想わずにはいられない。
霊性の出現である。
霊性はその不可解な間合いを埋めようとする。
そこに現れるのが神話である。
神話は適当な与太話ではなく、
人間にとっては無くてはならないものです。
神話には根拠がないとも云われるが、
この圧倒的な世界を前にして、
人間が最初にとれる方途は、
その初々しい霊性(たましい)に現実を映すことです。
それを見ることです。
そこに出発点がある。
そこから始めている。
・・・・・
有史以前から哲学はあったろう。
特にギリシャ哲学は有名である。
アリストテレスやソクラテスなど今に聞こえる人が数多いる。
彼ら以外にも、そして彼ら以前にも彼ら以降にも。
それは数えきれないほどに。
また近代になっては科学が起こってくる。
ものの動きや変化を観察し、その仕組みを知ろうとする。
大きくは天体観察を通じて宇宙を解明しようする。
小さくは電子や素粒子などを通じて物質を識ろうとする。
現代はまさに科学の時代である。
でもである。
哲学も科学も、そも神話の分派ではないのか。
神話から派生したものではないのか。
とくに自然科学は現実による証が必要だと謂われる。
説(霊性が映したもの)が如何に現実に即しているかの証明だ。
それがあって初めて認められる。
それが証である。
その説も次々に現れる新しい知見によって外される。
それが科学の進歩である。
にしても神ならぬ身です。
五感(すべての感覚)を越えての観察は無理である。
最後は霊性に戻る他ない。
哲学は科学とは真逆で、目の前の現実は扱わない。
内なる現実を扱うのだ。
目の前の現実に感応する内なる現実を。
脳内の現実である。
それは内なる我(の目)を問うということだ。
そしてそれを知ろうとする。
ここに矛盾がある。
では我(の目)を問うところの我(の目)はどこにあるのか。
それは結局同じものだろう。
これではどうにもならない。
さすればである。
最後は神話に帰る。
・・・・・
科学が神話を否定してはならない。
横に置くのはいいとして。
哲学が神話を愚弄してはならない。
基は大切にしましょう。
何はともあれ、
神話は神話として大いに語ろう、
語り伝えられてきた、
その重みのまにまに。