ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

分断(リモートとか)

2021-10-25 09:57:18 | 日記・エッセイ・コラム
昨今はイットイットと喧しい限り。
まさにITの時代である。
だからって命の足しにはならない。
あくまで補完的にあるものです。
もの凄く有用なものではあるが。
それに一旦手にしたらもう手放せない。
なくてはならぬ物になる。
それだけに要注意なのだ。
さりながら、
今の状況は余りに無防備、
そこが心配。
・・・・・
以前に言ったのだが、
コンピュータとは何かと問えば、
それは「言葉」だと。
電気信号を入力してそれを捏ね繰り回し、
そしてそれを又電気信号として取り出す。
それだけのことだがその本質は言葉です。
それにこれも言ったことだが、
言葉とはつまり線を引くこと、
世界(物事)に線を引いてそれを分ける。
分けるから「わかる」と言う。
というか分かったような気になる。
それが仕掛けである。
ちなみに私は「わかる」を「分かる」といつも記している。
それはこのことを意識しているからです。
でも分かると言っても真理は分からない。
真理を捉えるには全体を一とせねばならない。
言葉ではそれが出来ないのだ。
分けるだけ分けたあと、
それを戻そうとしても、
決して元には戻らない。
それを知らねば。
それにしても言葉が凄いのは、
事実の一端が捉えられること。
だから部分的には再現できるのです。
それが科学の凄いところ。
大いに意味がある。
それにしてもコンピュータは原理的には、
二進法からできていると言われる。
普通はゼロとイチで出来ていると、
これはイチとニと言っても同様だ。
つまり1と2の世界である。
これ言葉の本源に同じ。
コンピュータとは言葉である、
との私の思いはここに繋がる。
実に素晴らしいこじつけ。
我ながら感心する。
・・・・・
イットイットはデジタルである。
デジタルもまた見事なまでに分断の技なり。
時計を考える。
アナログでは円盤上で時を指す針は、
止まることなくすべての時刻を表示。
デジタルでは一時間間隔の表示なら、
それは24の時刻を表示するだけで、
各間合の59分59秒…は置き去り。
分断して切り捨ててしまう。
それでも間隔を小さくすれば連続するが如し。
でも切り捨てていることに変わりなし。
昨今はコロナ問題で、
リモートワークとかリモート会議とかが奨励されている。
実に困ったもんだ。
確かに情報の多くは言葉である。
だから相性はいい。
それに何より場所を選ばない。
離れていても時を共有できる。
この便利さは圧倒的ではある。
でも人は育たない。
そして人は壊れる。
情報とは言葉だけではない。
60兆個にも及ぶ細胞の蠢きの中で、
人はその五感や第六感を総動員して、
場の空気や流れを察知し創りながら、
情報を交換している。
そのほとんどが切り捨てられる。
命を見失うのは必定。
まことに危うい。
まことに。
・・・・・
私はアナログ党である。
それに現場第一である。
それを口に出せば古いとか時代遅れとか、
はたまた競争に負けるとか、
いやはやぼろ糞に言われる。
私はデジタルを否定しない。
時に有用性は圧倒的である。
大いに活用すればいい。
でも原点はアナログにある。
そも二者択一の発想が問題。
対であるのではなく、共にあるものなのだ。
さすれば第三の道も第四の道もあると。
道は無数にあるのだ。
それを知ろう。
時代は必ず還る。

1&2と3~

2021-10-18 16:02:25 | 日記・エッセイ・コラム
1という数字は不安定である。
別名単数というが。
現実はすべて神の言葉の顕現であり、
それが「ものごと」(宇宙)である。
それが聖書の思想だと。
神と謂う字も示す偏に申すと記す。
示して申すとは正に言い得て妙。
だとしたら実に感慨深いもの。
1が不安定なのは柱を想定すれば分かりやすい。
聖書を基とする一神教が危ういのはここにある。
全体を1と表現するからだ。
全体は文字通り全体だから本来不安定ではない。
それを1と表現するから不安定になる。
まことに人の言葉は危うい。
・・・・・
一神教の危うさになぜ気付かない。
言葉過多の欧米人らはそれゆえ言葉に頼る。
それがまた気付かない理由である。
言葉を捨てられないのだ。
これ悪循環なり。
つまり現実ではなく概念の奴隷になる。
そういう質を持っている。
全体をまんま受け入れれば自分も全体の内。
これは当然必然当り前。
でも1とすれば時に自分はそこから消える。
自分が別枠になってしまうのだ。
さすれば神は外にしか見えない。
これ矛盾なり。
神はすべてなのにそうではなくなるのだ。
そも人の思いはそれぞれだから神もいろいろ。
多神教になるのが自然で、歴史的にはそうだろう。
その限りでは問題はない。
でも1の危険がつき纏う。
我の神だけが神であると。
だから日本のように神という一般名詞ではなく、
固有名詞(名前)を付けるのだ。
それも1の故ではあろう。
だからか諍いが絶えない。
・・・・・
2という数字も不安定である。
別名複数と謂う。
複数と言えば2以上はすべてそうだが、
2という複数はちょっと特別です。
柱を想定すれば1よりは安定感がある。
でも3~に比べれば不安定である。
にしても二神教というのは聞いたことがない。
あればこれも危ういだろうに。
でもあるのです。
それは一神教に付いている。
それはその影に隠れている。
それを悪魔教という。
一神教が危ういのは、
その1という性質がゆえだが、
そこに悪魔教という影がつき纏うから。
この影がつき纏うというのが、
2という数字の特異なところ。
それゆえか2には別称がある。
それを対という。
別称を付けるほどに特徴的なのです。
これはよく言われる二元論ともなる。
ここに言葉の本質がある。
微妙な違いを感じてそこに線を引く。
そして本来すべてが繋がっている現実を、
バッサリと切って単純化してしまう。
そして分かったような気になる。
線を引くとはそういうこと。
それが言葉の奥義だと。
実際は二元論には見えないだろうが、
それは引く線が数多あるから、
本質は二元論なのです。
しかして二元論が怖いのは、
線を引いたとき他のすべての現実を、
バッサリ切り捨てるところ。
遊びや方便ならいいのだが、
現実と思い込めばそれは真っ赤な嘘。
2という数字はそれを内包する。
・・・・・
3という数字は安定感がある。
先のごとく、
柱を想定すれば分かりやすい。
同じ複数でも2と3~は違う。
3以上が本当の複数だと思う。
2は対とは言うが多数とは言わない。
3はそれ以上の数字を代表している。
それ以上のすべての数字を代表している。
つまり3は現実を示していると。
勝手にそう思っている。
日本の神話では造化三神といって、
原初の神様は三者である。
聖書の天地創造も、
私の解釈では、
それは物と光と事の三者で成っており、
それを為す神は一にして全であるのだ。
キリスト教ではそれを、
「父と子と精霊」と言っている。
当然に基は聖書だから、
「物と光と事」に対比している、
と勝手に思っている。
まあ言葉遊びである。

聖書の民

2021-10-11 09:57:08 | 日記・エッセイ・コラム
聖書の民とは先ずはユダヤ人であろう。
次にキリスト教の欧米系の人々である。
イスラム教の人々はコーランの民だから違うようだが、
旧約聖書も聖典の一つとされており、
だから聖書の民でもあるのだろうと。
こう見てくると聖書の民は実に多い。
ちなみにキリスト教はユダヤ教キリスト派とも謂える。
イエスはあくまでユダヤ教を伝えたのだ。
本来のユダヤ教に戻れと。
しかして、
布教しているときは人?であったが、
天に召されて神となった。
・・・・・
そこで日本人である。
日本人は聖書を持たない。
でも私は「日本人は聖書の民である」と。
それは聖書(創世記)と日本語が符号するからだ。
この世界(宇宙)は一言で言えば、
「もの」と「こと」で出来ている。
神は最初に「天と地」を創られた。
次に「光あれ」と言われたら光があった。
そこから空や陸や海、
それに草や木などの生物を、
さらに諸々創られていった。
最初の天と地は「もの」である。
それ以降は「もの」を基とした現象つまり「こと」である。
光の現象として闇を創り、
天地の現象として空や陸や海を創り、
そしてその他諸々を。
それら一つひとつは事の端である。
それは神の口から出る言葉によって創られた。
言葉とは「ことのは」であり事端に同じ。
日本語(音=かな)で読み解けば明らか。
でも最初に言葉で創られた光は実に微妙。
事実「もの」でもあり「こと」でもある。
現代物理学でもそう扱っている。
現象は「もの」を基とするが「光」があってこそだろう。
だから最初に創られたのが光なのだ。
即ち光は「もの」と「こと」を繋いでいる。
実に不可思議な「もの」であり「こと」であるのだ。
而して物事を分けて考えたとしても、
そも密接不可分且つ一心同体である。
即ち「ものごと」なのだ。
・・・・・
ここに日本の神名の妙がある。
最高神の「天照大神」は太陽神つまり光の化身である。
そこに「大物主」がいて「事代主」がいる。
「もの」と「こと」と「光」が揃っている。
この三者こそ存在の根幹かと。
人はそれを察知していたのか。
実に興味深い。
さらに物と事の違いも神名に表れる。
物は見たり触ったりできる。
分かりやすいのだ。
だから単に物主と。
事は変化の様だから捉えどころがない。
一時的には変化が無いようにも見える。
ゆえにそれは「しる」ものである。
だから「ことしろぬし」と言うと。
漢字なら知とか識だろうが、ここでは代を当てている。
何にしても妙なり。
その基は何と言っても言葉である。
「しる」とは実に言葉の技なのだ。
人間にとっては現象は言葉があってこそ捉えられる。
だから逆に現象を神の言葉に依るとしたのか。
にしても神とは?
架空の存在なのか。
そうとは言えない。
そも宇宙や生命の不可思議を想えば、
そこに人知を越えた計らいがあると、
そう思わざるを得ない。
その根源を神と呼んだ。
そのときから神は在る。
言葉とともに在る人は、
ゆえに神とともに在る。
・・・・・
存在するものはすべて神の手に依る。
だからすべては神の子である。
神の世界に神の子として在る。
その世界(場)を楽園と謂う。
人はそこで禁忌を犯した。
神威の根幹である言葉を手に入れたのである。
ゆえに神の怒りに触れ楽園を追われた。
と聖書は言っている。
それは言葉には毒があるからだ。
注意しなければ簡単に毒される。
それを嘘と謂う。
だから追われたのだ。
そこで思うのだが、
日本人は追われていないのではと。
もとより場としては誰も追われていない。
現に他の生物とともに生きている。
追われたとは次元的なことだと。
それは霊的な次元のことかと。
ともかくも、すべての現象の基は言葉にある。
だから現象が生起するとは言葉が成ることで、
その言葉を「まこと」と謂う。
それ神の言葉なり。
日本人はそれを大事に抱えている。
漢字で記せば「真言」や「誠」である。
特に誠はそのまんまで、
文字通り言が成るのだ。
ゆえに今だ楽園に留まっていると、
そう思うのです。
だから罪を背負っていない。
だから罰も受けていない。
つまり男の労働や女の出産は罰ではないのだ。
むしろ生きがいであり喜びなのだ。
そういうことかと。
・・・・・
日本では神様はどこにでもいる。
己の内にもです。
それに草や木や虫や鳥にも。
だから彼らとはどこまでも対等なのです。
同列かつ並列的に存在している。
だからかときに話しかけもする。
それは決して奇異ではないのだ。
外から見ればそう見えても。
そういう世界に生きている。
日本人は聖書の民だと言っているが、
違うところもある。
だから今はむしろ、
聖書以前の聖書の民かもと、
そう想っている。
うん!

異質

2021-10-04 09:16:36 | 日記・エッセイ・コラム
欧米人は罪に生きる、
日本人は恥に生きる、
とはアメリカの日本研究者ルース・ベネディクトの言辞、
だったと思う。
アメリカが日本と戦うにあたり、
日本を研究するよう依頼された。
色んな面を研究したでしょうが、
先の言辞が特に有名です。
確かに印象深い言辞です。
・・・・・
日本異質論は私の小さい頃はよく言われた。
でも欧米から見ればの異質である。
まったく気にすることはない。
これには宗教が関わっている。
キリスト教の欧米が罪を意識するのは当然で、
聖書の教えの中、
罪の文化を生きている。
日本はどうか。
仏教国なのか。
仏教国と言えなくもない。
でも根っこは神道である。
だが神道は宗教ではない。
教えの宗が無いのだから。
その読みは「かみのみち」であり、
人は神の道を宗とする、
と謂うことです。
欧米との違いはここに顕著。
欧米では人は自分の外に神を見る。
罪の文化ここにあり。
罪とは外から問われるもの。
外に神を見ることと符合する。
日本では神様はどこにでもいる。
しかしてすべてのものに神が宿る。
神の道を宗とする日本人は、
故に自身の内にも神を見る。
だからその悪行を問うのは内にあり、
それは自分自身であり、
それを恥と言ってきた。
しかして恥の心はすべての人間にある。
それは聖書にもある通りで、
禁断の実を食し智慧(言葉)を得たからか、
アダムとイブは自身の裸に気付き、
恥じらいを覚えたと。
そして身を覆ったと。
その恥をしっかりと胸(むね=宗)に刻んだのが日本である。
神道がそれを伝えている。
そこが他とは違うのです。
だからか異質と言われる。
・・・・・
日本の神話は神代から始まり、
人の世に繋がるのだが、
そこに境目はない。
神の道は人の道に繋がるのだ。
故にか悪行は自分で問う。
それを持って恥と。
私はずっと不思議なのだが、
聖書を知らない日本人が何故に聖書的なのかと。
そうは思っているが違いもある。
あきらかな違いは罪でなく恥を見据えるところ。
京アニのような酷い事件でも、
犯人は殺さずに生きて捕える。
そして懸命に治療して助ける。
外形としては罪を問うのだが、
結局は自分で問えと言うこと。
そこは徹底している。
罪の文化の欧米は、
人命は大事だからと死刑廃止を訴えるが、
いざとなれば即射殺である。
外からの裁きに躊躇しない。
こっちの方が異質だろうに。
このことが宗教観に現れる。
一神教は表向きは皆信仰心が篤いから、
彼らか見れば日本人が不思議なようだ。
無宗教なのにその行動が宗教的だから。
同じ東アジアでもシナは違う。
彼らは明らかに神を見失っている。
元々は持っていたろうに。
神話も残ってるし?
共産党になってからは更に酷くなった。
だから中華思想(自己中)が暴走する。
酷いもんだ
でも日本人は神を見失っていない。
それどころか強固なまでに持っている。
持っていることさえ分からなくなるぐらい。
それもこれも内にあるからだ。
異質とはこのことだ。
・・・・・
だから日本人は一見宗教的ではない。
外形的な信仰はあまり見せないのだ。
どうしても緩く見えてしまう。
それは一神教のように、
宗教と信仰が一体化してないからだ。
むしろ別物としている。
否そも宗教という言葉がなかった。
ただ神様が沢山いるだけ。
ならその信仰はどこに表れるのか。
それは生活の端々にです。
大きなものは正月やお盆の行事、
それに各地各所のお祭り、
さらに各種の年中行事、
ひな祭りや端午の節句それに七夕など、
他にもいろいろ。
さらに言えば春夏の甲子園もそうかも。
行事はすべからく祈りと一体で、
それはもはや切り離せないのだ。
そこに信仰の意識はない。
それゆえ尚更のこと強固なのだ。
その根は神道にある。
神の道はそのまま人の道となり、
人の道は祈り内で神の道となる。
これ神国の所以なり。