言葉から始まる。
人間は言葉から始まる。
この「人間」という字がまた妙である。
それまでは人という猿であった。
ときまでは楽園にいたのです。
間とはこれ実に奇妙である。
そんな間を付けるのです。
ときに世界と私に線が引かれた。
ときに我が顔を出したのです。
元々あったものだがそれが。
それはなにゆえか、
言わずもがな線が引かれたから。
そこに間ができたのである。
ゆえに楽園から離れる。
でもである、
それは実として離れたのではない。
霊的に離れただけ。
場としては未だ楽園にある。
それはかわらない。
かわりようがない。
それを思う。
・・・・・
ここでまた50音表のこと。
それも母音のこと。
一音一意と言ってもこれが基である。
「あいうえお」てか「あえいおう」のこと。
言葉を持ってこの世界の見え方が変わった。
その余りの変わりようにアッと驚く。
そしてその後エイを重ねる。
ときに神の物語りができる。
これは必然の成り行きです。
しても物語りは人の創りものである。
それは方便あるいは虚構と謂うもの。
でもこれは嘘ではない。
まだ嘘という概念がないときの思いの発露、
真摯に神の「こと」に向き合って出たもの、
だと思うのです。
そして次に自分を見つめる。
ときに人間のことが始まる。
この「こと」は歴史のこと。
してもすべては神話から始まる。
ここから宗教・哲学・科学なども出て来る。
これには一本の筋が通っている。
それは信仰である。
信仰は宗教の専売特許ではない。
すべてに通底するものなのです。
神はどこそこに居るのではない。
すべての「こと」に在るのです。
いつもその「かたわら」にある。
それが最初に出会った神である。
ときに人間はそう捉えたのです。
これはイエスも言っている。
荒野での修業を終えたあと、
悪魔の試みを受けて答えた、
人はパンだけで生きるにあらず、
神の口から出る一つひとつの言葉に依ると、
こと(言)のすべてがそれだと。
だからか、
ヨハネは新約聖書で、
初めに言葉があった、に始まり、
結局言葉は神だと言っています。
神を一神(一身)と認識するは誤りのもと、
神はすべてなのです、
それを知ろう。
・・・・・
人類が言葉を持ったときに、
最初に出会うのは誰だろう。
誰かという言い方は問題ではあるが。
それは在るを意識してそれに戸惑い、
その戸惑いの先にあるもの。
その心の揺れが感光して影をつくる。
ときに現れるのが神。
我から見ればその影は一つ。
一つと雖も実相はそれぞれ。
そこでそれをどう捉えるのかが問題。
我から見ればそれはいつも一つ、
実相から見ればそれは実相の数、
それはそのとおりで、
どちらにも異論なし。
てかどちらでもいい、
てかむしろ両方です。
そも世界(全体)はひとつ、
でも言葉が世界に線を引く、
言葉を持って世界を見れば、
それは多数でありそれも無数である。
言葉とはそう謂うものです。
そこで先のイエスやヨハネの言に思うのです、
言葉はその有様は一つだが様相はひとつ一つである。
つまり「全にして一、一にして全」であると。
ここに尽きる。
そこで一神教を思う。
一つを文字通りにとらえれば危うい。
さらに固名を付ければもっと危うい。
ここにあると、
神を全としながら個名を付けている、
これが絶対矛盾なのです。
一神教の危うさはここに。
してもそも一神教は矛盾である。
我がそこにいないのです。
我は神の外にいるのです。
神を客体として見るから。
ゆえ神の世界も又我の外。
これが楽園の追放なのか。
ところで日本では、
個々には個名を付けるが、
普通は総称して神と言う。
それも示して申すと記す。
矛盾は少しもないのです。
・・・・・
ところで血は命と謂われる。
その道(血管)の長さは地球の2周以上とも。
血とは物でこれは體を維持するもの。
してもあまり言われないが、
その他にも重要な道がある。
それは神経と謂われている。
その重要さは甲乙つけ難い。
てかむしろその上かもです。
それは文字通り神の経(みち)と記すと。
これは波動という事の道で情報が流れる。
これが脳を支える。
そして體を支える。
この道がなければ脳は空っぽのまま。
脳は脳だけでは何もできないのです。
基より體がすべてなのです。
それはさておき、
何を言いたいのかと言えば、
人間の體には神の道がある、
ということ。
漢字はそしてそれを使っていた人は、
知っていたのでしょう。
神は人の内にも在ると。
てか人の内にこそです。
うん!
人間は言葉から始まる。
この「人間」という字がまた妙である。
それまでは人という猿であった。
ときまでは楽園にいたのです。
間とはこれ実に奇妙である。
そんな間を付けるのです。
ときに世界と私に線が引かれた。
ときに我が顔を出したのです。
元々あったものだがそれが。
それはなにゆえか、
言わずもがな線が引かれたから。
そこに間ができたのである。
ゆえに楽園から離れる。
でもである、
それは実として離れたのではない。
霊的に離れただけ。
場としては未だ楽園にある。
それはかわらない。
かわりようがない。
それを思う。
・・・・・
ここでまた50音表のこと。
それも母音のこと。
一音一意と言ってもこれが基である。
「あいうえお」てか「あえいおう」のこと。
言葉を持ってこの世界の見え方が変わった。
その余りの変わりようにアッと驚く。
そしてその後エイを重ねる。
ときに神の物語りができる。
これは必然の成り行きです。
しても物語りは人の創りものである。
それは方便あるいは虚構と謂うもの。
でもこれは嘘ではない。
まだ嘘という概念がないときの思いの発露、
真摯に神の「こと」に向き合って出たもの、
だと思うのです。
そして次に自分を見つめる。
ときに人間のことが始まる。
この「こと」は歴史のこと。
してもすべては神話から始まる。
ここから宗教・哲学・科学なども出て来る。
これには一本の筋が通っている。
それは信仰である。
信仰は宗教の専売特許ではない。
すべてに通底するものなのです。
神はどこそこに居るのではない。
すべての「こと」に在るのです。
いつもその「かたわら」にある。
それが最初に出会った神である。
ときに人間はそう捉えたのです。
これはイエスも言っている。
荒野での修業を終えたあと、
悪魔の試みを受けて答えた、
人はパンだけで生きるにあらず、
神の口から出る一つひとつの言葉に依ると、
こと(言)のすべてがそれだと。
だからか、
ヨハネは新約聖書で、
初めに言葉があった、に始まり、
結局言葉は神だと言っています。
神を一神(一身)と認識するは誤りのもと、
神はすべてなのです、
それを知ろう。
・・・・・
人類が言葉を持ったときに、
最初に出会うのは誰だろう。
誰かという言い方は問題ではあるが。
それは在るを意識してそれに戸惑い、
その戸惑いの先にあるもの。
その心の揺れが感光して影をつくる。
ときに現れるのが神。
我から見ればその影は一つ。
一つと雖も実相はそれぞれ。
そこでそれをどう捉えるのかが問題。
我から見ればそれはいつも一つ、
実相から見ればそれは実相の数、
それはそのとおりで、
どちらにも異論なし。
てかどちらでもいい、
てかむしろ両方です。
そも世界(全体)はひとつ、
でも言葉が世界に線を引く、
言葉を持って世界を見れば、
それは多数でありそれも無数である。
言葉とはそう謂うものです。
そこで先のイエスやヨハネの言に思うのです、
言葉はその有様は一つだが様相はひとつ一つである。
つまり「全にして一、一にして全」であると。
ここに尽きる。
そこで一神教を思う。
一つを文字通りにとらえれば危うい。
さらに固名を付ければもっと危うい。
ここにあると、
神を全としながら個名を付けている、
これが絶対矛盾なのです。
一神教の危うさはここに。
してもそも一神教は矛盾である。
我がそこにいないのです。
我は神の外にいるのです。
神を客体として見るから。
ゆえ神の世界も又我の外。
これが楽園の追放なのか。
ところで日本では、
個々には個名を付けるが、
普通は総称して神と言う。
それも示して申すと記す。
矛盾は少しもないのです。
・・・・・
ところで血は命と謂われる。
その道(血管)の長さは地球の2周以上とも。
血とは物でこれは體を維持するもの。
してもあまり言われないが、
その他にも重要な道がある。
それは神経と謂われている。
その重要さは甲乙つけ難い。
てかむしろその上かもです。
それは文字通り神の経(みち)と記すと。
これは波動という事の道で情報が流れる。
これが脳を支える。
そして體を支える。
この道がなければ脳は空っぽのまま。
脳は脳だけでは何もできないのです。
基より體がすべてなのです。
それはさておき、
何を言いたいのかと言えば、
人間の體には神の道がある、
ということ。
漢字はそしてそれを使っていた人は、
知っていたのでしょう。
神は人の内にも在ると。
てか人の内にこそです。
うん!
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