ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

誰に会ったのか

2024-07-01 08:42:46 | 日記・エッセイ・コラム
言葉から始まる。
人間は言葉から始まる。
この「人間」という字がまた妙である。
それまでは人という猿であった。
ときまでは楽園にいたのです。
間とはこれ実に奇妙である。
そんな間を付けるのです。
ときに世界と私に線が引かれた。
ときに我が顔を出したのです。
元々あったものだがそれが。
それはなにゆえか、
言わずもがな線が引かれたから。
そこに間ができたのである。
ゆえに楽園から離れる。
でもである、
それは実として離れたのではない。
霊的に離れただけ。
場としては未だ楽園にある。
それはかわらない。
かわりようがない。
それを思う。
・・・・・
ここでまた50音表のこと。
それも母音のこと。
一音一意と言ってもこれが基である。
「あいうえお」てか「あえいおう」のこと。
言葉を持ってこの世界の見え方が変わった。
その余りの変わりようにアッと驚く。
そしてその後エイを重ねる。
ときに神の物語りができる。
これは必然の成り行きです。
しても物語りは人の創りものである。
それは方便あるいは虚構と謂うもの。
でもこれは嘘ではない。
まだ嘘という概念がないときの思いの発露、
真摯に神の「こと」に向き合って出たもの、
だと思うのです。
そして次に自分を見つめる。
ときに人間のことが始まる。
この「こと」は歴史のこと。
してもすべては神話から始まる。
ここから宗教・哲学・科学なども出て来る。
これには一本の筋が通っている。
それは信仰である。
信仰は宗教の専売特許ではない。
すべてに通底するものなのです。
神はどこそこに居るのではない。
すべての「こと」に在るのです。
いつもその「かたわら」にある。
それが最初に出会った神である。
ときに人間はそう捉えたのです。
これはイエスも言っている。
荒野での修業を終えたあと、
悪魔の試みを受けて答えた、
人はパンだけで生きるにあらず、
神の口から出る一つひとつの言葉に依ると、
こと(言)のすべてがそれだと。
だからか、
ヨハネは新約聖書で、
初めに言葉があった、に始まり、
結局言葉は神だと言っています。
神を一神(一身)と認識するは誤りのもと、
神はすべてなのです、
それを知ろう。
・・・・・
人類が言葉を持ったときに、
最初に出会うのは誰だろう。
誰かという言い方は問題ではあるが。
それは在るを意識してそれに戸惑い、
その戸惑いの先にあるもの。
その心の揺れが感光して影をつくる。
ときに現れるのが神。
我から見ればその影は一つ。
一つと雖も実相はそれぞれ。
そこでそれをどう捉えるのかが問題。
我から見ればそれはいつも一つ、
実相から見ればそれは実相の数、
それはそのとおりで、
どちらにも異論なし。
てかどちらでもいい、
てかむしろ両方です。
そも世界(全体)はひとつ、
でも言葉が世界に線を引く、
言葉を持って世界を見れば、
それは多数でありそれも無数である。
言葉とはそう謂うものです。
そこで先のイエスやヨハネの言に思うのです、
言葉はその有様は一つだが様相はひとつ一つである。
つまり「全にして一、一にして全」であると。
ここに尽きる。
そこで一神教を思う。
一つを文字通りにとらえれば危うい。
さらに固名を付ければもっと危うい。
ここにあると、
神を全としながら個名を付けている、
これが絶対矛盾なのです。
一神教の危うさはここに。
してもそも一神教は矛盾である。
我がそこにいないのです。
我は神の外にいるのです。
神を客体として見るから。
ゆえ神の世界も又我の外。
これが楽園の追放なのか。
ところで日本では、
個々には個名を付けるが、
普通は総称して神と言う。
それも示して申すと記す。
矛盾は少しもないのです。
・・・・・
ところで血は命と謂われる。
その道(血管)の長さは地球の2周以上とも。
血とは物でこれは體を維持するもの。
してもあまり言われないが、
その他にも重要な道がある。
それは神経と謂われている。
その重要さは甲乙つけ難い。
てかむしろその上かもです。
それは文字通り神の経(みち)と記すと。
これは波動という事の道で情報が流れる。
これが脳を支える。
そして體を支える。
この道がなければ脳は空っぽのまま。
脳は脳だけでは何もできないのです。
基より體がすべてなのです。
それはさておき、
何を言いたいのかと言えば、
人間の體には神の道がある、
ということ。
漢字はそしてそれを使っていた人は、
知っていたのでしょう。
神は人の内にも在ると。
てか人の内にこそです。
うん!

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