ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

平和への道

2014-03-24 14:55:18 | 日記・エッセイ・コラム

どうにもおかしい。

大きな思い違いをしてる。

世界を一つの大きな力で仕切れば、

平和になると思ってる人がいる。

これはダメだ。

これではダメだ。

・・・・・

戦争は偶発的に起こることはない。

戦争は起こそうとする者が起こしている。

なぜ起こすのか。

世界を自分の思い通りに仕切りたいからだ。

そこで戦争を起こす。

実際に戦争してる者はそうとは知らず戦ってる。

企図している者は別にいる。

そういうことだ。

だが普通の者には分からない。

分からないように仕組まれてるのだから。

・・・・・

対外的な戦いが決着し、

一つの大きな力ができたとして、

それで平和が来るわけではない。

次は内なる戦いになるだけである。

戦いの形が変わるのである。

戦いが終わることはない。

戦いを戦いによって終わらせようとする限り、

戦いは終わらない。

・・・・・

発想そのものが間違ってる。

自然はいつも先生だ。

圧倒的な先生だ。

自然は一極集中ではない、多極分散だ。

棲み分けによる共生、

それが自然の理である。

それを知らねばならない。

棲み分けによる共生と、

それを基とした緩やかな連帯、

それが平和への道である。

それこそが平和への道である。

皆騙されている。


人間に必要なもの

2014-03-20 17:58:58 | 日記・エッセイ・コラム

人は自分と世界を分けた時から、

迷い子となってしまった。

戸惑いと不安の中にある。

人以外の生き物は自分と世界を分けない。

自分は世界であり、世界は自分である。

だから戸惑いはない。

ただ現実が在るのみ。

・・・・・

人は惑う。

それなら惑う者はどうすれば良いのか。

惑いを打ち消す力があれば良いのだが、

そんなものは実際あるのか。

思うに、

それは「信じること」である。

ひたすら信じることである。

でも、時として揺らぐ。

ではどうすれば良いのか。

どうすれば揺らぎを押さえられるのか。

また思う。

それは「祈ること」である、と。

ここでやっと惑いは押さえられる。

・・・・・

「信じること」と「祈り」こそ、

人間には必要である。

信じるというだけでは心もとなく、

祈ることにより思いを定める。

それが自分と世界を繋ぐ。

安定の世界である。

ゆるぎない現実である。

それはつまり「信仰」である。

信仰は宗教ではない。

宗教の基ではあっても、宗教ではない。

だから信仰があれば無宗教でもかまわない。

それに信仰の核心は何でもいい。

何を信じてもいい。

それこそ自由である。

それこそが自由である。


空海の真言

2014-03-17 16:20:52 | 日記・エッセイ・コラム

心のゆらぎ、魂のゆらぎ、

その「ゆらぎ」、

それが音として現れるのが言葉である。

言葉とは魂の表出である。

だから言葉には魂が宿る。

言霊と言われる所以である。

・・・・・

己に問う。

それは魂の直なゆらぎなのか。

日本人は己を映すのに鏡を重用する。

卑弥呼の時代から。

鏡は目に見えるものを写すものだが、

目に見えないものをも写すものとする。

魂の直のゆらぎを見ようとする。

明鏡止水、

さざ波一つもない明るい水面に映るがごとく、

平明に見ようとする。

そして深奥から湧き出る、

直なゆらぎを見ようとする。

「まこと」を探すのである。

・・・・・

「まこと」は漢字では真や誠で表される。

一般的にはそうだが、

本当は真言であると思っている。

ゆえに思う。

空海の宗は真言である。

が、それは「まこと」であると。

空海は仏教を説きながら、

神道を語っている。

畏るべし。


卑弥呼の鏡

2014-03-12 10:06:53 | 日記・エッセイ・コラム

邪馬台国は興味津々である。

歴史のロマンを掻き立てられる。

どこにあったのか。

大和朝廷との繋がりはあるのか。

いろんな説があるが結局分からない。

一番の記録は魏志倭人伝である。

これは外国の文書である。

日本の文書としては無いのである。

朝廷の公式文書である、

古事記、日本書紀には何も記されていない。

僅かに付記は見られるが。

・・・・・

その王は女性で、名は卑弥呼と言う。

卑弥呼は鬼道を使う。

古来、鬼と神はそもそも同じだという。

一身両面である。

それなら鬼道と神道は同じではないか。

同じ道の思想ではないか。

しかも鏡である。

神道において鏡とは己を写し照らす神器である。

卑弥呼も鏡を欲したという。

ここは繋がっている。

・・・・・

倭国の邪馬台国であるが、

邪馬台とはヤマトと読めないのか。

台という文字が誤字であるとか、トとは読めないとか言われるが。

しかし、倭はヤマトとも読んでいる。

邪馬台がヤマトと読めなくとも、

倭はヤマトと読む。

なら、卑弥呼と大和朝廷は繋がっている。

間違いなく繋がっている。

ただ、

その繋がり方がよく分からない。


中央銀行の怪

2014-03-05 10:04:55 | 日記・エッセイ・コラム

これは自由主義国の話である。

独裁国家は論外である。

・・・・・

各国の中央銀行はほとんど国立ではない。

すべて確認した訳ではないが。

少なくとも、我が国の中央銀行である日本銀行は国立ではない。

株式会社である。

出資証券を発行している。

日本国が過半数を持ってはいるものの、

出資者の名簿は非公開であり、

誰がいくら持っているのかは分からない。

・・・・・

その中で意味不明の議論が行われている。

すなわち日本銀行の独立性云々である。

国立なら政府と癒着せぬよう、

独立性を担保しなければならない。

話は逆である。

私立なのである。

私立であれば独立性ではなく、

勝手なことをしないよう縛りを懸けなければならない。

どういう縛りがいいのかを議論すべきである。

であるから、

日本銀行の独立性を担保しなければならない、

という議論は意味不明である。

気を付けよう、

この世界には平気で嘘を付く者がいる。

・・・・・

なお奇妙なことがある。

アメリカのことである。

米ドルを発行しているのはアメリカの国ではない。

アメリカの銀行でもない。

連邦準備制度理事会(FRB)という組織が発行している。

これはアメリカの主要な銀行が集まって作っている団体である。

まったくもって分からない。

さっぱり分からない。

そんな訳の分からん団体に、

世界は振り回されている。