ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

うつろ

2023-05-29 08:57:15 | 日記・エッセイ・コラム
今世界は虚(うつろ)で満ちている。
言葉はそも虚になり易いもの。
ゆえ禁忌とされたのだ。
そう思っている。
・・・・・
言葉とはつまり名前である。
論理と雖も結局はその張り合わせ。
ものは名前を付けて初めて切り離される。
全体が一つの世界から、それが浮かび上がると。
ときに体が現れる。
名が体を表すのだ。
所謂「名は体を表す」とはこのこと。
逆もまた同じ、
「体は名がなければ現れない」のだ。
名前は現実を分けるもの。
分けて分けて分けまくる。
そしてどこまでも細分化される。
これが言葉の技のひとつ。
だがこれだけでは収集がつかなくなる。
だから逆の作用が起こる。
細分化したものを纏めるのです。
それを一般化とか抽象化という。
これは便利なものである。
大きく体(たい)を捉えられる。
所謂概念とはこのことか。
ともかくも、
細分化と抽象化は言葉の必然かと。
思えば、
細分化は現実から離れにくいもの、
抽象化は逆に現実から離れるもの。
ここに問題がある。
現実から離れても、
現実に基づいていれば良いのです。
そも現実があっての抽象なのだから。
現実がハテなの抽象は亡霊に過ぎない。
それがまさに虚(うつろ)なのです。
そういうことだが、
それらすべてが虚と言うのではない。
それを仮定や仮想とするならそれは良い。
それを止むを得ずの方便とするならそれも又。
それを事実だと言ったとき、
ときにそれは虚となる。
ちなみに、
一寸余談。
世間のリベラルに対する定義は知らず、
私の定義では、
現実に依拠してるか否かがすべて、
つまり平気で虚を吐く人をリベラルと言い、
そうでない人を保守と言っている。
なお真正保守とは「まこと」に生きる人のこと。
自称真正保守の私は、
そうできているかは?ですが、
そう心がけています。
それもこれもこの日本が、
その真ん中に天皇陛下がおられる、
「まこと」の国だからであります。
有難いことで、
・・・・・
言葉を持った人間は、
それに依って現実の機微を捉えた。
その結果として文化・文明があらわれる。
字義の通りそれは文(つまり言葉)の技である。
日本語はそう捉えている。
まさに正にである。
だから言葉を支配する者が人を支配する。
これは必ずそうなる。
まあ言わずもがなかと。
でも言葉はそも音である。
それを支配するのは難しい。
だからその支配は緩やかだと。
そこに変種として文字が現れる。
これは言葉を支配するのに便利で、
そも文字は技術を要するものだから。
ゆえ支配者は言葉(文字)を独占する。
ここに帝国があらわれる。
にしても「まこと」なら支配にはならない。
支配とは人を仕切ること。
恣意的に人を仕切ること。
そこには虚が付いて回る。
ちなみにだから、
ゆえに天皇陛下の存在意義がある。
そこで現下を見れば、
その道具である言葉を支配しようとする者がいる。
既に文字の独占はできなくなったのに。
それにコンピュータの出現もあってか、
音や映像まで記録として残る時代です。
つまり文字と同じ効果を持ったのです。
それが誰かれなく受発信できる。
そんな情報化社会になっている。
では何を支配するのか。
それは分り切ったこと。
それはその情報である。
だから今は言論統制と検閲の時代となった。
為に、
メディアが乗っ取られており、
それを阻止するのが教育だが、
その教育も押さえられており、
いまや気付けば周りはプロパガンダばかり。
だからそこはフェイクだらけ。
さらにそれを隠す荒業もある。
それが例のファクトチェックです。
実にしたたかなのだ。
しかして、
民衆は誘導されたり洗脳されたり、
気付かない人がほとんどなのだが、
気付いていてもどうしようもない。
歯がゆいばかりです。
・・・・・
先のG7の広島サミット、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素の「うつろ」、
そろそろ店仕舞いかその兆候あり。
嘘はどこまで行っても嘘、
嘘が真になることはない。
それに多くの人は知ってるだろう、
嘘は一度吐いたらもう止められないと。
結局最後は壊れて破綻するより他ない。
ちなみに、
こんなことを言ったら叱られるかも知れないが、
G7の連中よりプーチンの方が嘘は少ない、
それも圧倒的に。
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素の取り扱い、
その取り扱いを見ればあきらか。
だからあの戦争も実はロウの戦いではない、
と確信している。
うん!

みこと持ち

2023-05-22 06:22:33 | 日記・エッセイ・コラム
ふたりの「みこと」持ち。
ジーザスと天皇の違いは。
ジーザスは一人、天皇は世々の数だけいる。
てかその真核は今にいる陛下にある。
一人が永遠になるか、多数が永遠になるか。
死して永遠になるか、生きて永遠になるか。
そこが違う。
それは向きが違うからです。
それを想う。
・・・・・
ジーザスは一人です。
その人が十字架に掛けられて神になる。
と思っているが、
つまり生きていたときは人間であると。
それにしては、
イエスの言葉のほとんどは神に向かっていない。
祈る心はあってもその言葉は祈りではないのだ。
その言葉は人々に向かっている。
そも神の側に立っているのです。
だからかときに「私は神から来たもの」だと言っている。
だからと言って「仕切り」はしない。
敢えて言うなら「啓蒙」とでも。
だから私はこう言ってきた。
イエスは預言者であったと。
ゆえに神から言葉を預かり、
そしてそれを人々に伝える。
でも他の預言者と違うのは、
それが自分の言葉であったのだ。
だからまんま神になったと。
それも圧倒的な存在感を持って。
さもありなん、
その言行に鑑みれば、
それはもう尋常ではないと。
聖書はそもすべては神の賜物であると。
思えばこれは日本的な発想である。
人に当てれば、
神の子である人はつまりは神だと、
でも生きての神とは真に畏れ多い、
死して後ならそれも良かろうかと、
まあそんなとこ。
勿論人だけではなく他の生き物も同様。
そんなこんなで、
日本人にとってイエスが神であること、
いろんな意味で違和感なし。
・・・・・
天皇は一人ではない。
世々代々の存在です。
でも核は今上陛下にあると。
それが真核である。
かく言う陛下は祭主であり、
生きての祈りを捧げる存在。
祈りとは神と向きあうもの、
だから陛下は人の側に立っている。
てかもとより人間なのだから当然。
しかして神に「まこと」を捧げる。
天下の安寧と万民一人ひとりの幸せを願って。
と思っているが、内実は知らない。
でも想うのです、
その祈りはまったきもので、
それはもう尋常ではないと。
その凄さはイエスにも似ているが、
その向く方向は逆であると。
現に今上陛下は預言者でもないし神でもない。
昭和天皇は戦後人間宣言をしたと言われるが、
そんなもんしておりません。
真赤々な嘘です。
人間が「まこと」を貫くには、
人を仕切ってはならないのだ。
仕切る作業には必ず虚が入る。
だから陛下は人を仕切らない。
直接的には決して仕切らない。
そう言う仕組みになっている。
戦前も現今もです。
ちなみに余談だが、
なぜか日本弱体化計画があるようで、
ために嘘が至るところに、
しかも年々益々酷くなる。
今はご存知のLGBT~問題。
今少しの御辛抱を、
・・・・・
このことは神話を見ればあきらか。
日本には古事記・日本書紀があり、それに万葉集が。
欧米等の一神教世界ではそれは聖書だろう。
ちなみに思うに日本人は聖書も持っている?としか。
聖書はその初めに言う。
言葉を持ったがゆえヒトは楽園を追放されたと。
だからです、
その人々にイエスは伝えたのです、
神の「まこと」を、
それがイエスの物語り。
日本人は聖書的ではあるが、
違うところもある。
それは既に言ったことだが、
そのひとつがこれ。
それは楽園を追放されていないと謂うこと。
ゆえにか日本の神話は、
神世から始まり切れ目なく人の世に繋がる、
そんな神人一体の世界です。
ヨハネは言葉は神だと言ったが、
日本はその言霊(「まこと」)が幸はふ国なのです。
あの万葉歌人の柿本人麻呂も言ったように。
それゆえです、
追放されていない他の生き物らと対等に立てるのは、
そんな国です。
だから天皇陛下は祈るのです、
場(神=の世界)に向かって。
万民はその祈りの中で生きる。
後醍醐天皇の信任を受けた北畠親房は言った、
「大日本(おおやまと)は神の国なり」と、
言い得て妙、
まことにまことに。

真の御柱

2023-05-15 08:58:56 | 日記・エッセイ・コラム
ここにきて脚光を浴びている。
とは言えいい話ではない、例のLGBT~の問題である。
この問題は実に根が深い、てか闇が深い。
その始まりは随分前です。
それが「男女共同参画」である。
そも初めから男女は共同参画であったと。
そうでなければ人類は既に絶滅している。
なのにそれを敢えて看板にする。
笑えないが笑える、
えマ煮える、程に、
ヘッヘッヘッてか。
・・・・・
ポリコレは人類をカオスにする政策。
これは言葉の技ですが、
行動としては移民がその最大の手段。
これを推進する為に戦争等を起こす。
かくて難民が発生、つまりは移民となる。
これで準備がととのう、
いよいよグローバリズムの世界が完成に。
完成した後はどうするのだろう。
混沌の果てには混沌しかないが。
同じことを何度も言うようだが、
すべては言葉の問題である。
言葉がすべての問題を惹起。
そして言葉が最終的&決定的武器となる。
それがこの嘘と狂気の世界。
そんな世界で日本が今標的になっている。
たぶん日本が最終標的です。
欧米は既に壊れていて今はその仕上段階。
勿論抵抗は続いている。
なおその日本での最後の砦は天皇である。
その存在が日本の歴史伝統文化の真核にある。
三角構造の頂点でなく、
円環構造の中心として。
そういう存在であると。
真核がなくなれば日本は無くなる。
日本が無くなれば世界は三角構造だけに。
さすれば一応の支配は完成。
あくまで一応であるが。
そこでまたLGBT~問題に戻るが、
先の通りこれは世界のカオスが目的なのだが、
為にも真核(天皇)の破壊が必要になる。
今はじっとしているが、
必ずそこに及んでくる。
それはご存知のように皇統問題。
ときが日本の正念場に。
覚悟しておきましょう。
・・・・・
天皇の存在は、
余りに大きくしかも決定的なもの。
それに気付いたのはいつ頃だろう。
子どもが無関心なのは当然。
それが時とともに関心事に。
それも究極的関心事にまで。
天皇とは天の皇のことだが、
これに仕えるのが天皇陛下である。
この陛下が世の真核となる。
陛下はあくまで人間である。
だから天の皇に祈るのです。
祈り続けるのです。
ちなみに、これは男子がなすもの、
命の根を持つ女性には無理がある。
この祈る存在の陛下は「みこと」持ちである。
それは命や尊それに御言などとも記すが、
これは言葉のこと。
そも祈りとは神に想いの言葉(みこと)を捧げるもの。
「みこと」は「まこと」でもある。
「まこと」は本来は神の言葉。
人の言葉も虚を排すれば、
それは「まこと」に。
人も「まこと」にはなれるのです。
しかして陛下はまさに「まこと」の人である。
それも一部の隙もない「まこと」、
それをもって神に祈り続ける存在。
それは庶民から見れば神のごとし。
現人神と言うは当を得た妙である。
だからです、
天皇陛下は歌詠み人である。
それは皇后陛下もそしてまた他の皇族方も。
歌とは己の心魂に問うて想いを起こすもの。
そこには想いの実がある、実(まこと)がです。
そこに虚はない。
天皇陛下はときに詔もあげられる。
そこに私心はない。
決して人を仕切らない。
歴史的には例外もあったろうが。
特に私の命のときには、
・・・・・
日本以外にも「みこと」持ちはいる。
一人挙げるとすれば、
それはジーザス・クライストである。
イエス・キリストのことです。
西暦表示の起点にもなるほどの決定的な存在感、
それ程の「みこと」持ちです。
その言葉が新約聖書に残されている。
しかもそれが脈々と伝えられている。
凄いことです。
日本での「みこと」持ちは何と言っても陛下である。
これはイエスの存在感とはまた違い、
一人ではなく世々代々繋がれてきたもの、
それも生きた祈りとして脈々と。
そこが実に凄いところ。
だから私は思う。
だからそれは道だと。
だから教ではないのです、
あくまで道なのです。
教はときに歪む、
ものである。
うん!

狼少年

2023-05-08 07:01:32 | 日記・エッセイ・コラム
狼少年は二人いる。
てか二種類あるってこと。
ひとつはイソップの物語、
狼が来たと何度も嘘をつく少年のこと。
もうひとつは、
これは現実にあったこと。
生まれて間もなく親に捨てられたのか、
狼に育てられて成長した少年、
それが人間社会に戻ったという話。
なんとも興味深い話。
この二つは、
実に対照的かつ象徴的である、
同じ狼少年と言うが。
・・・・・
人は人に育つよう設計されている。
その設計図がある。
それがDNAです。
これが肉体を決定づけている。
それにつられて精神も現れる。
それはその初めからあるもの。
なおそこにあるのが言葉を持つ力、
なぜかその力が備わっている。
これが他の動物と違うところ。
これもやはりDNAの技かと。
ところですべての始まりのDNAであるが、
生まれた後は環境に大きな影響を受ける。
言葉を持つ力も勿論その影響を受ける。
日本語の世界に生まれれば日本語に、
英語の世界に生まれれば英語にと。
ちなみに言語は不思議なもので、
そこには共通の要素もあると。
そも初めは一つだったとか。
まあそれはそうだろうと。
で冒頭の件、
イソップの狼少年は嘘をつく。
これが言葉が有する決定的落し穴。
もう一人の狼少年、
彼は結局言葉を話さなかった。
それに狼的性格も変わらなかった。
その成長に人が関わらなかったからか。 
つまり言葉を持つ力が発動しなかったのだ。
ちなみに、
他の動物らを、
生まれたときから育て、
そして言葉を教えても、
言葉を持つことはない。
そもそのDNAでは無理なのだ。
ということです。
・・・・・
それにしても、
イソップの狼少年これがいけない。
何と言っても嘘がいけないのです。
だが嘘は見分けがつきにくいもの。
その線引きはいつでも難しい。
人間には真理や絶対正義などは分からない、
神ならぬ身だから当然のこと。
己が見えるように見、聞こえるように聞く。
己が思うように思い、考えるように考える。
それができるだけ。
人には人の事実があるのです。
事実は人の数だけあるのです。
誰かの事実と違うだけで、
それを嘘だとは言えない。
なら嘘とは?
嘘の字に口編があるから言葉の技には違いなし。
虚という字があるから「うつろ」なのか。
すなわち心に無いことを言うこと。
嘘の対極は真(まこと)。
これは心に写ったことをまんまに伝える、
まんまのこと、です。
正直とも言う。
ちなみに心に写るとは脳に写ることではない。
DNAが細胞一つひとつにあるように、
すべてのDNAに問うのである。
全身全霊に訊くのである。
ときに虚はないと、
真あるのみ。
ところでもう一人の狼少年。
彼は言葉を持たない。
だからそこに嘘はないのである。
だが人間とは言えないかも、
なら人間になる前のヒトか。
想えば人間は皆それを経験している。
なのに今やその心は風前の灯に。
それが現下のような混乱を惹起。
でもである、
この混乱こそが節目となり、
人類は又一段と進化すると、
そういう人達もいる。
私もそう思う。
しかもそれは難しくない、
言葉にすれば簡単なこと。
人間は言葉の生き物です。
どこかの某学会もテレビで言っている、
「言葉と生きていく」と。
そこで私は言う、
「言葉を持ちながら言葉にとらわれない」
「言葉を持ちながら言葉から自由になる」
その心を持てと。
簡単そうだが実は難しい。
矛盾そのものなのだ。
でもである、
ときに人類の次元が上昇すると。
そして楽園に帰れると。
・・・・・
ちなみに現下は混乱の極致。
嘘と狂気に満ちている。
「狼が来た」とは言っていないがそれに同じ。
「コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素~」と。
そんな人ばかりではないのだが、
世に出ている人のほとんどは狼少年であろう。
おまけに人間が作った道具(CP)に振り回される。
これは言葉に始り言葉で終わると謂う、
まさに言葉の権化そのものなのだ。
そんなもんどうでもエイアイと思っているが、
最近はさらにチャットGptとかとかで喧しい。
想えば言葉を持たない生き物には何の影響もない。
彼ら神の被造物は我関せずである。
そも大宇宙は変わらず、人間だけが右往左往。
確かに人間社会では大問題である。
覇権争いに日夜邁進しているから。
それには欠かせない道具なのです。
ということで世界は言葉で沸騰中。
いよいよである、
うん!

時の色

2023-05-01 09:49:13 | 日記・エッセイ・コラム
日本には年号(元号)がある。
これが又素晴らしい。
時に色が付けられて、気の転換が計られる。
つまり時の「けじめ」が付くのです。
その始まりは確か大化であったかと。
以降天皇即位時に改元されるのだが、
在位中に改元されることもあったと。
それは新しい時の始まりとなるので、
その命名にはなにやら決め事があり、
私なりに一言で言えば、
時代を先取りしてそれを象徴的に示すものだと、
そう思っている。
どこか正月元旦のお祝いにも似てる。
これは大宇宙の周期に合わせたもの。
そこでケジメを付けて前を向く。
それも国を挙げて行なうのです。
真に実に素晴らしいもので、
これは時に色は付けません、
心魂身体に新風を送るだけ。
・・・・・
ところで、
この間ひとつ大きな転換がある、
それは明治の維新から。
年号はこれまでと同じく事前に決められる。
そこは一緒だが、
転換とは天皇陛下の諡号(漢風)のことで、
これは年号とは別物であり、
薨去後にその事績を勘案して贈られるもの。
それが年号をそのまま当てることになった。
つまり初めから諡号が決まっているのです。
ここに大きな転換があったかと。
その理由は知らない。
だから、ゆえに、
その即位はまんまに時代を背負うと、
そういうことになったのだ。
それを思えばその選び方は尋常ではないと。
良き文字だとか語呂が良いとかなどは関係ない。
そこにはもっと深い思い入れが、
と勝手ながらに思っている。
ちなみに、
今の天皇陛下は普通は今上陛下と申し上げる。
令和天皇と言うはもってのほか。
同じく平成天皇などももってのほか、
上皇陛下と申し上げるべし。
天にかえられて初めて天の皇になられるのだ。
そう理解している。
・・・・・
想うに時に色があるとは思えない。
敢えて言えば無色の時色?とでも。
ちなみに光も同じことか。
光には本来は色はないと。
只波長の違いがあるだけ。
その違いを捉える装置があるのです。
それが目(脳も含めて)である。
それが色として捉えるのだ。
それは物を捉える為で、
ときに色形を識る。
それは生まれつき備わっているもの。
でも時を捉える装置は持っていない。
身体には持っていない。
時を捉えるには言葉が必要だと。
言葉が時に色を与える。
ときに歴史がはじまる。
歴史とはそういうもの。
なかでも、
年号を持つというのは、
時の色がいつも心にあるということ。
時の色と自分が一心同体で結びつくのです。
そこが素晴らしい。
今昭和が昭和レトロとか言って、
結構持て囃されている。
観光に来ている外国人でさえ、
そんなふうに言ってることが。
これはアニメの影響だろうと。
アニメと言えば「鬼滅の刃」がある。
これは時代は大正である。
その前には「るろうに剣心」てのがあった。
これは明治時代であった。
明治大正はどうも時代劇の範疇に入ったようだ。
昔は丁髷の江戸時代以前のことだったが。
これも時代に色があるからだ。
それにしても、
むべなるかな、
今となっては大正時代以前生まれの人は、
もうほとんどいないのだから。
うん!
・・・・・
ちなみに、
今回これを記したのは、
どこかで聞いた話だが、
それを唐突に思い出したからです。
それは明治の維新は一大計画であったと、
それも200年越しの大計画であったと、
という話です。
維新が主題ではなかったが、
話の中に出て来ていたもの。
その計画が成れば世界は概ね平和に、
しかも時に日本はその中心に在ると。
信憑性は如何ばかりか、
でも世界最古の王朝国家であり、
明治維新の不可思議さを思えば、
それに先に記した、
年号が天皇の諡号になること、
それにこれまでの年号に鑑み、
さらに昭和天皇の終戦の詔等、
想えばあながち…。
それにしても200年先とは、
概ねこれから40年後のこと。
なら令和の時代が主たる時代。
私は間違いなくときにそこにいない。
今の若い人が立ち会うことに。
まあ、よろしく、です。
でもである、
人は皆そこから来てそこに居てそこに帰る。
ということで、
気恥ずかしいことだが、
ときに安倍さんの横で、
見ていようと思います。