呪は一般的には良くない言葉だ。
のろいと言って他人の災厄を請い願うものゆえ。
でも同時にまじないという意味もある。
てかこの方が一般的かも。
これならば中立的である。
心魂を鎮め安定させようとのもので。
もとより言葉には両面がある。
良し悪しに関わらず使われる。
祈りもまた同じ。
普通は良きことを願うもの。
さながら悪しきことを願う場合もある。
それを呪詛という。
ここに呪という文字が使われる。
どうも使い訳をしているようだ。
漢字ではそのようだが、そもそれは音でなく形。
そこに言霊は乗らない。
ちなみに書道はそれを補う。
その点いのりとのろいは音である。
言霊としては別物で、てかあきらかに別物。
しかして、いのりの国はのろいを嫌う。
ワの国にのろいは不要。
でも言葉は分けるもの。
言葉としてはどちらも必要なのだ。
使い方はわきまえる必要があるが。
そこはリベラルとは違うと。
言葉狩りはしないのである。
で元に戻れば、
呪術とは中立的な言葉で、
祈りに昇華する前のプレ祈り的なものか、
と勝手に想っている。
・・・・・
何度も言っている。
言葉を持ったから呪術は不可欠になった。
分けることは不安の種となるのだ。
分ければ分けるほどにです。
現状はその極みなり。
だから呪術が必要なのです。
現に呪術で満ちている。
気づかないだけで。
そも言葉とは分けるだけ。
どこまでも分けるだけ。
分けても分けても分けるだけ。
でもそこに届かない。
それを真理と謂う。
或いは神と謂う。
これはどうしようもない。
だからそこへ行くには言葉では無理、
別の方途が必要なのです。
それが呪術である。
しかして、
現代一級の呪術は科学です。
科学者とは現実を極めようとする者。
聖書では現実は神の力の顕現であり、
それは「もの&こと」で出来ており、
なかでも「こと」は神の力の直の顕われで、
それは神の口から出る言葉に依ると。
なら現実を極めるとは神の言葉を聞くこと。
聖書では神の言葉を預かる者を預言者と言っている。
だからである、科学者は現代の預言者だと。
ただし正しく聞ける者だけ。
聖書にはまた人は神に似せて創られたとも。
それは姿形ではなかろう。
それは心魂に於いてだと。
それが言葉を持たせたと。
しかしてあくまで似せてである。
つまり似せもの(偽物)なのだ。
でも本物であろうとはできると。
謙虚であればだが。
それが偽物の作法。
ここの預言者あり。
ここに科学者あり。
・・・・・
謙虚に現実に向かうもの、
そしてそれを極めるもの、
そこに預言者が存在する。
だから言葉の初めより預言者はいる。
どこかの団体が言ってるように、
人は言葉と生きていくもの。
ゆえ言葉を大事にする。
その言葉はまこと。
まこととは「誠」であり、
字義の如く言(こと)が成るである。
神の言葉は真理であり現実である、
人の言葉は仮想であり方便である、
すべてはここに尽きる。
現実は現実のまにまに、
自然は自然のまにまに、
人はそこで生きている。
手を加えるは尚慎重に。
だからときどきに祭る。
日本は祭りの国である。
そしてそこに祭り主が。
神道とは宗教ではない、人の生き方を指すもの。
だから神道は他の宗教を否定しない。
それは当然のことかと。
何度でも言うが、
言葉は分けるもの、専らに分けるだけ。
それは決して芯には届かない。
その芯に控えるのが天皇陛下。
陛とは芯につながる階段。
その下で祭り祈り続ける。
それが天皇陛下です。
日本の祭祀王ですが世界を見てもただ一人。
祈りだけがその線を越えられる。
その呪術だけがです。
有り難い!
のろいと言って他人の災厄を請い願うものゆえ。
でも同時にまじないという意味もある。
てかこの方が一般的かも。
これならば中立的である。
心魂を鎮め安定させようとのもので。
もとより言葉には両面がある。
良し悪しに関わらず使われる。
祈りもまた同じ。
普通は良きことを願うもの。
さながら悪しきことを願う場合もある。
それを呪詛という。
ここに呪という文字が使われる。
どうも使い訳をしているようだ。
漢字ではそのようだが、そもそれは音でなく形。
そこに言霊は乗らない。
ちなみに書道はそれを補う。
その点いのりとのろいは音である。
言霊としては別物で、てかあきらかに別物。
しかして、いのりの国はのろいを嫌う。
ワの国にのろいは不要。
でも言葉は分けるもの。
言葉としてはどちらも必要なのだ。
使い方はわきまえる必要があるが。
そこはリベラルとは違うと。
言葉狩りはしないのである。
で元に戻れば、
呪術とは中立的な言葉で、
祈りに昇華する前のプレ祈り的なものか、
と勝手に想っている。
・・・・・
何度も言っている。
言葉を持ったから呪術は不可欠になった。
分けることは不安の種となるのだ。
分ければ分けるほどにです。
現状はその極みなり。
だから呪術が必要なのです。
現に呪術で満ちている。
気づかないだけで。
そも言葉とは分けるだけ。
どこまでも分けるだけ。
分けても分けても分けるだけ。
でもそこに届かない。
それを真理と謂う。
或いは神と謂う。
これはどうしようもない。
だからそこへ行くには言葉では無理、
別の方途が必要なのです。
それが呪術である。
しかして、
現代一級の呪術は科学です。
科学者とは現実を極めようとする者。
聖書では現実は神の力の顕現であり、
それは「もの&こと」で出来ており、
なかでも「こと」は神の力の直の顕われで、
それは神の口から出る言葉に依ると。
なら現実を極めるとは神の言葉を聞くこと。
聖書では神の言葉を預かる者を預言者と言っている。
だからである、科学者は現代の預言者だと。
ただし正しく聞ける者だけ。
聖書にはまた人は神に似せて創られたとも。
それは姿形ではなかろう。
それは心魂に於いてだと。
それが言葉を持たせたと。
しかしてあくまで似せてである。
つまり似せもの(偽物)なのだ。
でも本物であろうとはできると。
謙虚であればだが。
それが偽物の作法。
ここの預言者あり。
ここに科学者あり。
・・・・・
謙虚に現実に向かうもの、
そしてそれを極めるもの、
そこに預言者が存在する。
だから言葉の初めより預言者はいる。
どこかの団体が言ってるように、
人は言葉と生きていくもの。
ゆえ言葉を大事にする。
その言葉はまこと。
まこととは「誠」であり、
字義の如く言(こと)が成るである。
神の言葉は真理であり現実である、
人の言葉は仮想であり方便である、
すべてはここに尽きる。
現実は現実のまにまに、
自然は自然のまにまに、
人はそこで生きている。
手を加えるは尚慎重に。
だからときどきに祭る。
日本は祭りの国である。
そしてそこに祭り主が。
神道とは宗教ではない、人の生き方を指すもの。
だから神道は他の宗教を否定しない。
それは当然のことかと。
何度でも言うが、
言葉は分けるもの、専らに分けるだけ。
それは決して芯には届かない。
その芯に控えるのが天皇陛下。
陛とは芯につながる階段。
その下で祭り祈り続ける。
それが天皇陛下です。
日本の祭祀王ですが世界を見てもただ一人。
祈りだけがその線を越えられる。
その呪術だけがです。
有り難い!