ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

呪術

2022-09-26 08:23:51 | 日記・エッセイ・コラム
呪は一般的には良くない言葉だ。
のろいと言って他人の災厄を請い願うものゆえ。
でも同時にまじないという意味もある。
てかこの方が一般的かも。
これならば中立的である。
心魂を鎮め安定させようとのもので。
もとより言葉には両面がある。
良し悪しに関わらず使われる。
祈りもまた同じ。
普通は良きことを願うもの。
さながら悪しきことを願う場合もある。
それを呪詛という。
ここに呪という文字が使われる。
どうも使い訳をしているようだ。
漢字ではそのようだが、そもそれは音でなく形。
そこに言霊は乗らない。
ちなみに書道はそれを補う。
その点いのりとのろいは音である。
言霊としては別物で、てかあきらかに別物。
しかして、いのりの国はのろいを嫌う。
ワの国にのろいは不要。
でも言葉は分けるもの。
言葉としてはどちらも必要なのだ。
使い方はわきまえる必要があるが。
そこはリベラルとは違うと。
言葉狩りはしないのである。
で元に戻れば、
呪術とは中立的な言葉で、
祈りに昇華する前のプレ祈り的なものか、
と勝手に想っている。
・・・・・
何度も言っている。
言葉を持ったから呪術は不可欠になった。
分けることは不安の種となるのだ。
分ければ分けるほどにです。
現状はその極みなり。
だから呪術が必要なのです。
現に呪術で満ちている。
気づかないだけで。
そも言葉とは分けるだけ。
どこまでも分けるだけ。
分けても分けても分けるだけ。
でもそこに届かない。
それを真理と謂う。
或いは神と謂う。
これはどうしようもない。
だからそこへ行くには言葉では無理、
別の方途が必要なのです。
それが呪術である。
しかして、
現代一級の呪術は科学です。
科学者とは現実を極めようとする者。
聖書では現実は神の力の顕現であり、
それは「もの&こと」で出来ており、
なかでも「こと」は神の力の直の顕われで、
それは神の口から出る言葉に依ると。
なら現実を極めるとは神の言葉を聞くこと。
聖書では神の言葉を預かる者を預言者と言っている。
だからである、科学者は現代の預言者だと。
ただし正しく聞ける者だけ。
聖書にはまた人は神に似せて創られたとも。
それは姿形ではなかろう。
それは心魂に於いてだと。
それが言葉を持たせたと。
しかしてあくまで似せてである。
つまり似せもの(偽物)なのだ。
でも本物であろうとはできると。
謙虚であればだが。
それが偽物の作法。
ここの預言者あり。
ここに科学者あり。
・・・・・
謙虚に現実に向かうもの、
そしてそれを極めるもの、
そこに預言者が存在する。
だから言葉の初めより預言者はいる。
どこかの団体が言ってるように、
人は言葉と生きていくもの。
ゆえ言葉を大事にする。
その言葉はまこと。
まこととは「誠」であり、
字義の如く言(こと)が成るである。
神の言葉は真理であり現実である、
人の言葉は仮想であり方便である、
すべてはここに尽きる。
現実は現実のまにまに、
自然は自然のまにまに、
人はそこで生きている。
手を加えるは尚慎重に。
だからときどきに祭る。
日本は祭りの国である。
そしてそこに祭り主が。
神道とは宗教ではない、人の生き方を指すもの。
だから神道は他の宗教を否定しない。
それは当然のことかと。
何度でも言うが、
言葉は分けるもの、専らに分けるだけ。
それは決して芯には届かない。
その芯に控えるのが天皇陛下。
陛とは芯につながる階段。
その下で祭り祈り続ける。
それが天皇陛下です。
日本の祭祀王ですが世界を見てもただ一人。
祈りだけがその線を越えられる。
その呪術だけがです。
有り難い!

人権

2022-09-19 08:01:57 | 日記・エッセイ・コラム
それはまた
人権ポン!
ん?じゃんけんじゃありません。
グー・チョキ・パーの話ではないのです。
大きな声では言えないが、
クルクルパーの話ですわ。
地政学でも言ったが、
旧大陸は根底に奴隷制度がある。
そも人権などはなかったのです。
人権は力とともにあるだけ。
力ある者にだけあるのです。
なのに今になって人権人権と煩いこと。
それでも本気なら、それも良しである。
でもそうではないだろう。
大方プロパガンダである。
さりながら、
プロパガンダとは言わずもがな宣伝であり、
それはそれを信じさせるのが目的、
結果信じる人が続出する。
言葉が武器とはこのことである。
クルクルパーは横に置いて、
問題は人権ポンを言い出した人間。
まあ人権という言葉だけではない、
それに類するリベラルチック言語、
それらはすべてがそれです。
・・・・・
ちなみに日本は違います。
米を大切につくる農業の国です。
天皇陛下も自ら田植えをし稲を育てる。
そんな国です。
でも大平原はない。
山間や河口付近の扇状地が主。
その土地は山また山で移動は厄介、
運搬はもっぱら船であった。
海洋国家だからそこは得意。
島や海岸伝いにそして河川を利用する。
海洋国家の面目躍如。
農業国だがもとより海洋国であり、
漁業国であるのだ。
そんな国。
地政学でも言ったが、
現に実際にもそうで、
指導者はいるがそれ以外は基本的に平等。
国をしらすひと、天皇陛下があり、
一君万民と言い、そのもとで平等。
もとより役割分担は当然で、
それに指示伝達もあるから、
そこに序列ができるも必然。
それが時に権威主義に陥る。
問題はどこにでもあるのだ。
でも根っこは明らかに平等。
だから人権という言葉は生まれなかった。
そんな抽象的な概念は必要なかったのだ。
そこは人間という言葉で十分であったと。
江戸時代中期の東北の医師安藤昌益は言った、
医術の前には武士も町人もないと。
ともに同じ人間なのだから。
そも身分とは階級ではない。
文字通り身を分けるもので、
各自の生き方の様式である。
それに家業を継ぐのが第一、
選択肢も余りなかったかと。
そこには過度な支配被支配の関係はなく、
それは奴隷がいないということで、
大方心魂では皆自由人あったか。
それがバラバラにならないで、
調和して社会を成してきた。
それは一君万民だからで、
中心があったからです。
だから人権など不要、
そも同じ人間には。
・・・・・
人権と人間の違い。
人権とは実のない脳内の幻想である。
人間とはまさに目の前の現実である。
これは決定的に違う。
かたや方便としては有用である。
だから本来悪くはないのだ。
だがとかく虚言となる。
かたや目の前の現実である。
言いも悪いもない。
どこまでも「真言」なのだ。
まことの国・日本では、
人権という言葉は実に必要ではない。
方便として利用しても、
むやみに振り回すものではなかろう。
だって、
僕らは人権ではない、
僕らは人間だもの、
だっちゅうの。

やってる!々!

2022-09-12 08:44:04 | 日記・エッセイ・コラム
マスコミにはほとほとウンザリしてる。
安倍元総理の暗殺とその報道。
殺したのは?統一教会に恨みを持った御仁だとか。
なら犯人を徹底的に追及すればいいのに。
何を思ったか統一教会を深堀するばかり。
そして事件とは直接関係のない宗教を問題にする。
さなら創価学会も別の意味で興味があるだろうに。
教祖の池田大作氏は未だ生死不明?で音沙汰なし。
ちょっと解せない。
そも宗教と政治は同根。
だからこそ際どいところでは政教分離、
と言うのは分るが、
それを一切関わってはいけないとは逆に憲法違反では。
それを国会議員が言っている。
てか言わされている。
思えば通常の商売とマルチ商法が別物であるように、
もとより宗教の信仰と霊感商法もまた別物である。
要は悪いことをする輩を取り締まればいいだけ。
そこの切り分けができていない。
頭が悪いというしかない。
てかむしろ敢えてやっている。
これはまさに現代の魔女狩り。
今やマスコミはそのお手伝い。
もはや救いなし。
・・・・・
安倍元総理国葬の件もそうだ。
早々とそれを決めた岸田首相。
当初は余り反対がなかったが。
それでも、
私はしない方がいいと思った、
安倍元総理の為を想うならば。
無用の波風を立てるだけだと。
本人も又希望しないだろうと。
ときに既に楽園に還られたと。
礼をもって見送ればいいだけ。
それでも、
結局その判断を支持したし今もそうである。
国葬とは外交である。
安倍元総理の足跡を活かすためにも。
それだけの遺産を残している。
例えばIPEF(インド太平洋経済枠組)等に。
それにそれなりの政治家が来日されるなら、
込み入った話はできないとしても、
顔を合わせるだけでも意味がある。
このややこしくも不穏な時代です、
リモートではなく実に会うことが。
何より主催する日本にとって、
その存在感を示す機会になる。
なのだが、
ここにきてエリザベス女王が亡くなられたと、
これは欧米では特筆する出来事であり、
イギリスの行方が慮られるもの。
それにつけても時代の目まぐるしさに、
目まいが起こりそう。
・・・・・
さて国内に戻れば国葬の件だが、
それは今も声高に反対している。
それもマスコミの影響が大きい。
連日統一教会問題で自民党を安倍派を叩いてる。
そも「もりかけ桜」を持ち出し、
安倍総理を徹底的に叩いていた。
お隣のシナの賄賂政治を思えば、
目糞鼻糞どころか大方は捏造だ。
極め付けは安倍総理の前では憲法改正反対だと。
まるで子供のような台詞を吐く。
元へ子供にも失礼な発言でした。
思えばこれも安倍さんが嫌いだからではないと。
安倍さんの政策が嫌いだったのだ。
それは「日本を取り戻す」だから。
反日自虐史観を立てて日本を貶め、
日本の頭を押さえつけたいからだ。
だからか国葬にも反対する。
日本の存在感が増すのを嫌うのだ。
それに引きずられる国民もどうかと思う。
それでも私は国民(庶民)を信用していますが。
為の彼らの典型的な手口がこれ。
先ず反対デモをさせる。
それをマスコミが報道する。
しかも多くが反対してるように。
本当は極めて少ないのに。
そも賛成の人はデモをしない。
どちらでもいい人は尚デモをしない。
そうして於いてアンケートをとる。
それも誘導尋問的に引っかけて。
うまくいけば大きく報道する。
そうでなければ素知らぬ顔。
そうして魔女を狩るのだ。
・・・・・
こんなことをしても、
国葬は止められない。
これはもう決まったことです。
彼らも分かってるだろう。
だが少しでも貶めたいと。
これからのこともあるし。
情けないことです。
気に入らんのは仕方なし。
批判するのも勿論自由である。
でも敢えての反対は止めてほしい。
今となっては黙って見てればいいのに。
と思うのだが。
それは無理だろう。
どだい無理だろう。
魔女を狩るのが仕事だから。
うん!

地政学

2022-09-05 09:17:09 | 日記・エッセイ・コラム
最近地政学という言葉をよく聞く。
比較的新しい言葉ということだが、
若い頃には結構聞いていたと思う。
それが余り聞かなくなった。
少し前までは「世界は一つ」が圧倒的だったからな。
そも一つも多数も同じ、視点が違うだけのこと。
だから概念としては一つでもいいが、
実際に生きるのは個別の問題である。
そこでは地理的条件が大きな意味合いを持つ。
何にしても地政学ってのを学んだ訳でもなく、
字面だけで分かったような気になってるだけ、
実に頼りない話である。
・・・・・
地球世界は陸と海で出来ている。
だから大きくは大陸勢力と海洋勢力がある。
ヒトは想えば元は森の住人かと。
それが森から出てきたのだ。
そこで大きく変貌したならば、
文明のその始まりは草原だと。
私はそう想うのです。
今は絶滅したがインドにもライオンがいた。
インドはジャングルのイメージだが草原もあるのだ。
だから私がまだ子供の頃にはいたと。
そもライオンは草原の生き物である。
そこに人間が住んだのだ。
ときにライオンは一番の敵となった。
現生人類にとって最古の文明といわれるシュメールは、
中東の大河の流れる大草原にあった。
そこで穀物を大々的に生産した。
そこでの遺物に円筒印章がある。
その一つにライオンに挟まれた人が彫られていた。
まるでライオンに襲われているかのような。
それは実は逆であったとか。
それは左右にライオンを従えている、
大王(ギルガメシュ)であるらしい。
ときの大敵はライオンであった。
その難敵を克服した英雄だったのだ。
なるほど、そうかと。
今神社の本殿左右に狛犬が鎮座する。
これはそれを彷彿とさせる。
ともかくも、
文明は大草原の大河のほとり、
と言われるのは尤もなことと。
だとしても、森に留まったヒトもいただろうし、
森を出たとしてもそこが海だったら?
海に活路を見出すより他ない。
でもそういう場所は海と山が近いと。
大方そういう地形かと。
ならそこではヒトは海と山とを行ったり来たり。
ちなみに古来日本には海人と山人がいたようだ。
ならそれは結局同じ系譜なのか?
海と山が迫っている日本では尚。
そう思えば納得である。
それにまた海に出ればそこは大草原に同じ、
いやそれ以上に広い大海原。
そこにはライオンはいない。
危険は海そのもの。
しかもその危険は皆平等で一蓮托生である。
そこでも勿論指導者は必要。
それも皆の協力あってこそ。
関係性はその中で培われる。
当然序列もできるだろうと。
でも根底には平等性がある。
しかもそれは観念ではなく、
現実的なものとしてあると。
・・・・・
文明は(大草原の)大河のほとり。
歴史ではそのように教えてきたが。
それは事実だし、その通りだろう。
でも余り実感はなかった。
日本はそこに当てはまらないから。
でも昨今の情報化時代の中で改めて思う。
その映像を見れば一目瞭然、そこは広大な大地であると。
地中海沿岸から中東、欧州から中央アジアに北西インド、
そして東アジア(シナ)の大平原。
これらは旧大陸の大文明圏である。
ときに大山塊や大河などでさえぎられるが。
それを除けばそこには境界がない。
しかしてそこが豊饒の大地となる。
ゆえ大文明圏となるは必定のこと。
ところがそれゆえに問題が起こる。
そこが奪い合いの大地となるのだ。
民族の攻防が激しく時を早回しすれば、
その勢力圏は目まぐるしく変転し変幻自在、
しかも往々にして消えてしまう。
それを思えば今のウクライナも、
その一過程なのかと。
しかしてそこでは、
支配・被支配の関係を免れない、
たとえ同族であっても。
他は大方搾取の対象であり、
ひどい時は奴隷か死である。
そしてここに帝国ができる。
これが旧大陸の歴史である。
思えばあのアレキサンダーが言った。
ギリシャから出て中東インドと進み、
ことごとく征服して、言ったという。
もう私の前に征服する土地がないと。
そこまで行って大山塊や砂漠そしてジャングル、
彼の前に(人の住む)土地はなくなった。
その向こうには東アジアがあったが、
彼には見えなかった。
でもときに東アジアも同じ状況であった。
これが大陸勢力の有様である。
新大陸(アメリカ)は横に置いて、
アフリカのサハラ以南とインドの一部、
それに東南アジアはジャングルが多く、
大陸勢力にとっては少し手に余ったか、
ちょっと別の歴史になっている。
そこで海洋勢力だが、
大陸の海岸沿いにはそれらしい勢力がいたかも、
地形にもよるだろうが。
思えば地中海沿岸はそのようだ。
それを内海としての海洋勢力が。
イギリスは島国だからもとよりそうだが、
でも一番はやはり日本であると。
・・・・・
その日本は列島である。
列島は北から、
アリューシャン列島、北海道、本州、四国、九州、沖縄及び南西諸島、
台湾、フィリピン、それにボルネオ、インドネシア、
さらに太平洋諸島など。
実に大きな版図である。
これは概ね大東亜共栄圏の範疇である。
そこに半島などが加わって。
沖縄はそも日本だが、
台湾を併合したのはだから意図あってのことだろう。
朝鮮半島は大陸との最も大きな陸橋であった。
ゆえに大陸勢力との緩衝地として極めて重要。
満州はちょっと微妙。
思えばその昔ロシアとの交渉で、
樺太・千島交換条約というのがあったが、
そこにも意図があったのだろう、
海洋勢力としての。
そう思うのです。
これが私の発想です。
それにしても結局は、
すべて私の言葉遊び、
かな?