ここに心地の良い波動がある。
音にもいろいろあるから。
それを音楽と言っている。
音には声(言葉)もある。
それを歌(うた)と謂う。
日本は言霊の幸はふ国であり、
声音の国であり歌う国である。
歌は声であり言葉であり祈りである。
ゆえに祈り人である陛下は歌い人でもある。
皇族の方々も同様である。
時の折々に歌われている。
年の初めの歌会始もそれ。
そこでは陛下や皇族の方々や、
それに国民も挙って応募して。
歌にもいろいろあるのですが、
これは和歌と言わるれもので、
いにしえからの由緒あるもの。
まさに歌う国であります。
・・・・・
もともと和歌にはそれほど思い入れはなかった。
でも言葉の不可思議に想い致す中で、
思うところがいろいろ。
そんな中で思い浮かぶ歌がチラホラ。
それは学校教育で教わったもの。
てかそれ以外はありません。
そんなに多くはないが、
それにすべて覚えてる訳ではないが、
心に残っているものが。
その一つ、
敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花、
本居宣長の歌です。
真っ先に浮かぶ歌です。
これは真正面で真っ直ぐに大和心を歌っている。
それは桜であり、
これを美しさではなく、
匂うと歌うのです、
それも朝日がそうさせると、
まあそういう歌。
これは以前言ったイロハ歌に寄っている。
宣長翁は意識していたかは知らない。
でも意識なき意識は確実にあったと。
いろは歌の頭句とまさに共振共鳴しているのです。
色は匂えど散りぬるを…、
色とは光(日)の綾、
これは物が発する光、
直接でない間接の光、
もとは日の光である、
光は本当は見えない、
見えるのは物である、
だから色は物である、
それが散るのである、
それはやはり桜花か、
てかとか。
このイロハ歌も50音表であり、
まさに波動であり言霊であると。
彼の歌はこれにまったき共振共鳴している。
しかもそれを匂うと言う。
朝日に匂うと言うのです。
完全なる共鳴、
畏るべしかな。
・・・・・
もう一つ、
海恋し潮の遠鳴り数えては乙女となりし父母の家、
与謝野晶子の歌です。
その時には特に勧興はなかった。
それが最近よく思い出すのです。
女性を出汁にしたリベラルの嘘のせいかも。
それはともかくもこの歌のこと。
これは悠久の生命を歌っている。
晶子嬢の想いは知らず、
私はそう想うのである。
生命はそも海で生まれたとか、
それが進化して陸上に上がる、
徐々に上がってなお進化する。
そして哺乳類が現われ、
ついに人類が登場する。
これは雌雄で命を繋ぐ。
それが父母なのである。
でも生むのは雌である。
それを人は乙女と言う。
そして乙女は母となる。
その事の場が父母の家。
そんなことを私は想うのです。
これをまとめて言えば、
それは悠久の生命を歌っていると、
それを和歌という衣裳を着て、
それも又みごとに着こなして。
それが心魂に染み入る。
畏れいります。
でも思うのである、
ここにはLGBT~の出番はない。
それは仕方のないこと。
でも出番は必ずあると。
命の使命は命を繋ぐことただひとつ。
為にすべての命があるのです。
直接的に為せなくとも。
それを疑わない。
女性はみんな生みの人である。
でもときに産めない人もいる。
それでも皆かけがえなき存在。
それに男も必要である。
そこには二つのことが。
一つは言わずもがなか。
一つはかけがえなきものを守るため。
そんなこんなを含めて、
命は繋がれてきたのだ。
この歌にはその響きが。
その響きを想う。
・・・・・
言葉はそも響きである。
歌はまさにその響きそのもの。
それは人の體に届けられる。
そして人の體を包み込む。
包み込んでも縛らない。
その受け方は自由なのです。
それに比べれば、
理屈は実に厄介である。
これは一重に脳に届けられる。
一重に脳にである。
ここに危険がある。
この脳化社会の今。
それは脳を超えて體をも縛る。
それは現実を縛るに同じこと。
そして終には現実を否定する。
注意が必要な訳である。
そも理屈は手段である。
目的的なこともあるが。
しても目的は絶対化しやすい。
この絶対化こそが一番の危険。
概念の絶対化は危険なのです。
それに比べれば、
歌は素晴らしい。
万葉の時代から今に至るまで、
歌う国・祈りの国の日本には、
色んな歌がある。
今世界的にも人気があるのは、
アニソンにシティポップてか。
ところで、
この今まさに聞いている、
鶫が奏でる歌声を、
良きかな、
良きかな、
音にもいろいろあるから。
それを音楽と言っている。
音には声(言葉)もある。
それを歌(うた)と謂う。
日本は言霊の幸はふ国であり、
声音の国であり歌う国である。
歌は声であり言葉であり祈りである。
ゆえに祈り人である陛下は歌い人でもある。
皇族の方々も同様である。
時の折々に歌われている。
年の初めの歌会始もそれ。
そこでは陛下や皇族の方々や、
それに国民も挙って応募して。
歌にもいろいろあるのですが、
これは和歌と言わるれもので、
いにしえからの由緒あるもの。
まさに歌う国であります。
・・・・・
もともと和歌にはそれほど思い入れはなかった。
でも言葉の不可思議に想い致す中で、
思うところがいろいろ。
そんな中で思い浮かぶ歌がチラホラ。
それは学校教育で教わったもの。
てかそれ以外はありません。
そんなに多くはないが、
それにすべて覚えてる訳ではないが、
心に残っているものが。
その一つ、
敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花、
本居宣長の歌です。
真っ先に浮かぶ歌です。
これは真正面で真っ直ぐに大和心を歌っている。
それは桜であり、
これを美しさではなく、
匂うと歌うのです、
それも朝日がそうさせると、
まあそういう歌。
これは以前言ったイロハ歌に寄っている。
宣長翁は意識していたかは知らない。
でも意識なき意識は確実にあったと。
いろは歌の頭句とまさに共振共鳴しているのです。
色は匂えど散りぬるを…、
色とは光(日)の綾、
これは物が発する光、
直接でない間接の光、
もとは日の光である、
光は本当は見えない、
見えるのは物である、
だから色は物である、
それが散るのである、
それはやはり桜花か、
てかとか。
このイロハ歌も50音表であり、
まさに波動であり言霊であると。
彼の歌はこれにまったき共振共鳴している。
しかもそれを匂うと言う。
朝日に匂うと言うのです。
完全なる共鳴、
畏るべしかな。
・・・・・
もう一つ、
海恋し潮の遠鳴り数えては乙女となりし父母の家、
与謝野晶子の歌です。
その時には特に勧興はなかった。
それが最近よく思い出すのです。
女性を出汁にしたリベラルの嘘のせいかも。
それはともかくもこの歌のこと。
これは悠久の生命を歌っている。
晶子嬢の想いは知らず、
私はそう想うのである。
生命はそも海で生まれたとか、
それが進化して陸上に上がる、
徐々に上がってなお進化する。
そして哺乳類が現われ、
ついに人類が登場する。
これは雌雄で命を繋ぐ。
それが父母なのである。
でも生むのは雌である。
それを人は乙女と言う。
そして乙女は母となる。
その事の場が父母の家。
そんなことを私は想うのです。
これをまとめて言えば、
それは悠久の生命を歌っていると、
それを和歌という衣裳を着て、
それも又みごとに着こなして。
それが心魂に染み入る。
畏れいります。
でも思うのである、
ここにはLGBT~の出番はない。
それは仕方のないこと。
でも出番は必ずあると。
命の使命は命を繋ぐことただひとつ。
為にすべての命があるのです。
直接的に為せなくとも。
それを疑わない。
女性はみんな生みの人である。
でもときに産めない人もいる。
それでも皆かけがえなき存在。
それに男も必要である。
そこには二つのことが。
一つは言わずもがなか。
一つはかけがえなきものを守るため。
そんなこんなを含めて、
命は繋がれてきたのだ。
この歌にはその響きが。
その響きを想う。
・・・・・
言葉はそも響きである。
歌はまさにその響きそのもの。
それは人の體に届けられる。
そして人の體を包み込む。
包み込んでも縛らない。
その受け方は自由なのです。
それに比べれば、
理屈は実に厄介である。
これは一重に脳に届けられる。
一重に脳にである。
ここに危険がある。
この脳化社会の今。
それは脳を超えて體をも縛る。
それは現実を縛るに同じこと。
そして終には現実を否定する。
注意が必要な訳である。
そも理屈は手段である。
目的的なこともあるが。
しても目的は絶対化しやすい。
この絶対化こそが一番の危険。
概念の絶対化は危険なのです。
それに比べれば、
歌は素晴らしい。
万葉の時代から今に至るまで、
歌う国・祈りの国の日本には、
色んな歌がある。
今世界的にも人気があるのは、
アニソンにシティポップてか。
ところで、
この今まさに聞いている、
鶫が奏でる歌声を、
良きかな、
良きかな、
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