ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

またまた化けの皮

2017-01-25 11:21:08 | 日記・エッセイ・コラム
また化けの皮が剥がれた。
例のごとくシナである。
今、ネットで溢れているアパホテルの問題だ。
ほっとけばいいのに、自分で火を付けている。
いよいよ末期症状か。
・・・・・
一民間企業のことである。
それにマスメディアで宣伝した訳でもなく、単に部屋に置いていただけである。
見る見ない、また見たとしてどう思うかは個人の自由である。
それを超大国?が直接口を挟むのである。
もちろん正式の抗議ではなく、コメントとしてではあるが。
でもそれがシナのやり方だ。
それに政府指示で公然と不買運動もやってるようだ。
お隣の韓国も同じようにやられている。
例のミサイル防衛システム・サードの問題で。
でもそれは国の問題であり正に政治である。
まあ仕方ないだろう。
とは言え、国を挙げての不買運動とはあきれる。
詳しくは知らないが、韓流を全面的に禁止してるらしい。
他にもいろいろあるようだ。
実に子供っぽいやり方である。
親の喧嘩で子供の頭を殴るのだから。
超大国?が泣いている。
アパホテルの件はそれ以前の問題だ。
なのになぜ自分で火を付ける。
たぶん最も痛いところを突かれたのだ。
蟻の一穴を恐れたのか。
これは逆効果でしかない。
・・・・・
所詮、嘘は嘘である。
20万人しかいないのに30万人は殺せない。
20万人の人口が数か月後に25万人に増えている。
時に外国人が公人・私人を含め相当数いた。
その証言がない。
少しはあると言うが、もし事実なら少しばかりではないだろう。
公式記録に残されていてもおかしくない。
それに遺体がない、どこに消えたのかさっぱりない。
結局、納得できる証は何もないのだ。
もちろん事件はあっただろう。
酷い事件の一つや二つは。
でも犯人が日本兵かどうかは分からない。
大混乱のさ中だ。
ところで、アメリカでは殺人事件が日常茶飯事だという。
だからといって毎日大虐殺が行われているとは言わないだろう。
事件と大虐殺とはまったく別物だ。
嘘は嘘である。
どこまでも嘘である。
先日もネットにアメリカ人とシナ人のやり取りが載っていた。
アメリカ人曰く、
その時シナ軍(事実は蒋介石軍だけだが共産党軍も含めて)はどこで何をしていた、
見殺しにしたのか。
シナ人、調べて答えると言う、
結果は……。
韓国もそうだがシナも早晩崩壊するより他ない。
経済より何より、心の崩壊が決定的だ。
金の問題は金で何とかなるが、心の問題はどうにもならない。
シナ・朝鮮の歴史は破壊と殺戮と、そして屈服の歴史である。
そんな中で心を立てる暇がなかったのだ。
止むを得ないことである。
・・・・・
しかし日本人も悪い。
有りもしないことを謝罪してきたのだから。
シナ・朝鮮の国民に嘘を付いてきたということだ。
ある意味同罪である。
私は団塊の世代だが、学校でちゃんと歴史(日本史)を教えられた。
戦後間もない(15年程経過)頃だったが、
太平洋戦争終結まで教わった。
しかも自虐史観ではなかった。
アパホテルに置かれているという本だが、
そこに記されている日中戦争に至るまでの経緯などは、
教えられたことと何ら変わらない。
南京大虐殺などもちろんなかった。
ということは、その後徹底的に自虐史観に染められたということだ。
GHQが引き上げていたにも関わらず、
かかる事態に至ったのは、
それは日本人自身の手によるものだ。
団塊の世代として情けない。
実に情けない。
ただ最近確信したのだが、
日本人の中には日本人の振りをした外国人もいるということを。
GHQはしっかり置き土産を置いて行ったのだ。






化けの皮

2017-01-19 14:47:25 | 日記・エッセイ・コラム
化けの皮がはがれた。
しかも、はっきりと。
シナのことである。
習近平がスイスのダボスへ行って演説をした。
あのダボス会議で。
しかも基調演説として。
・・・・・
ダボス会議はその年の世界の仕切りを話し合う会議である。
今やグローバリストの表看板となっている。
もともとはひっそりと行っていたが。
考えてみれば、世界はどんどんグローバル化している。
顕著なのは経済である。
超大企業が国を超えて世界に広がっている。
自由貿易の名のもとに。
もちろん自由貿易そのものは悪くはない。
世界を潤すものだ。
だが国を越えて仕切るのは問題だ。
会社が株主のものである、というインチキによって。
超大企業の株主が、その一握りの大金持ちが世界を仕切るのだ。
これは1パーセント(の中の更なる1パーセント)が、
世界を仕切るということだ。
陰謀論にはこの類の話がよくあるが、
これは明らかに事実である。
このことがいよいよ露わになってきた。
既に多くの人が気付いているが、今年はそれが決定的に表に出る。
そのあらわれがトランプ大統領の誕生である。
彼の言葉にはっきり現れている。
曰く「アメリカファースト」である。
国が大事なのである。
国が大事とは国民が大事なのである。
だから雇用の創出である。
筋が通っている。
ちなみにTPPの件も同じだ。
何度も言うが、自由貿易が悪いのではない。
単に自由貿易を推進するための取り決めなら問題はない。
だがTPPにはISD条項がある。
場合によっては企業が国を提訴できるのである。
企業が国の上に立つのだ。
この条項こそ癌である。
死に至る病となる。
だからかトランプはTPPを拒否する。
まことに筋が通っている。
もちろん安倍政権にも異論はないだろう。
・・・・・
で、シナに戻る。
シナは最も自由貿易に反する国だ。
まったき統制経済である。
その国のトップが自由貿易が大事だと大見えを切る。
どの口が言うのか、である。
が、そこまでグローバリストが追い込まれているということだ。
これが今の世界の基調である。
しかし習近平がそう言うということは、
彼がグローバリストの側にいるからである。
シナは初めからそうなのです。
彼はシナ共産党という超大企業のCOOという訳です。
その下で使われているシナ国民こそ大迷惑である。
さて、ではシナはどうなるのか。
これは分からない。
分からないからこそ、今年も世界は面白い。
願わくば、
何ごとも、
なるべく平和の内に。

神の言葉

2017-01-15 17:06:35 | 日記・エッセイ・コラム
神から言葉を預った者を預言者という。
聖書はその預言者のことを多く記している。
だから、そこには神の言葉が記されている。
その行動とともに。
旧約聖書で有名なのはノアやモーセである。
他にイザヤなどもいる。
新約聖書はイエスのことが記されている。
でもイエスは預言者なのか…。
イエスは神であり、人として扱ってはいないが。
よく分からない。
イスラム教最大の預言者はムハンマドである。
彼が遺したものをクルアーンという。
イスラム教の聖典である。
聖書とクルアーンとではどのような差異があるのだろう。
これもよく分からない。
どちらにしても神の言葉であり、ともに不磨の大典である。
人が勝手に変えることはできない。
・・・・・
でも疑問がある。
聖書やクルアーンを疑ってる訳ではないが、
素朴な疑問である。
本当に神の言葉なのか。
私には考えられないことである。
でも、そういうこともあるのだろう。
一般的には神の啓示とか謂われるようなものが。
それはそうかも知れない。
そういう特別な人がいても可笑しくない。
ともかく納得しておこう。
もう一つ疑問がある。
それが神の言葉としても、
神の言葉が神の言葉のまま提示されているのか、
ということである。
そんなことはないだろう。
それなら普通の者に分かる筈がない。
何しろ神の言葉なのだから。
人の言葉に直して提示されてるのだろう。
そういうことだと思う。
・・・・・
そこで次の疑問がある。
神の言葉は疑えない。
それが人の言葉ならどうだろう。
それなら嘘もあるかも知れない。
誤解や曲解なら尚更である。
直接聞いた預言者ならまだしも。
その後に続く凡人では…。
だから注意しなくてはならない。
よほど注意し、
謙虚に謙虚を重ね、
なお慎重に。
常に問い続けなければならない。
現下のようにその解釈でいろんな流派に分かれ、
その上、いがみ合ってる姿は論外である。
そこに、神の言葉などあるとは思えない。






沈黙

2017-01-09 13:11:04 | 日記・エッセイ・コラム
これは映画の題名である。
まだ公開されてはいない。
時々暇に任せて映画に行くのだが、
その時、予告編で見たのだ。
舞台は日本なのだが、監督は欧米人のようだ。
ともかく本編を見るつもりはない。
私には合わない。
・・・・・
欧米人の発想にはいまいち馴染めない。
言葉過多で理屈っぽいところが、どうも…。
この映画の筋書きはよく知らないのだが、
沈黙とはどうも神の沈黙らしい。
命を懸けての信仰であるのに、
神は何も答えて下さらないと。
それだけの単純な筋ではないだろうが、
発想そのものが馴染めない。
聖書にもあるが神は時々人を試す。
極めつけは怒りで人を滅ぼす。
その聖書にヨブ記という編がある。
そこに出てくるヨブは信仰の人である。
ありとあらゆる災いに合いながらも神への信仰を捨てない。
恨んでもおかしくない程のことなのに。
それが本当の信仰だと、聖書は言ってるのだろう。
ならばである。
神の沈黙を嘆くとは…。
こんなに信仰してるのに何も答えて下さらない、と。
まことに畏れ多いことだ。
これはつまり人が神を試すことになる、はたまた疑うことになる。
信仰とは真逆のことだ。
本当の信仰は神を試さない、疑わない。
たとえ棄教することになってもだ。
その時もし神が現れれば、何も言わずただ立てばいい。
素の魂で。
それでいいと思うのだが。
・・・・・
この映画の原作は日本人である。
日本では数少ないクリスチャンである遠藤周作氏である。
だからか発想が欧米的なのは。
もうすでに故人ではある。
あの世で思いの胆を聞いてみたいものだ。
それにしても矛盾だ。
イエスは人類のすべての罪を背負って生贄となられた。
その時、人類は救われている。
なのに一々個々に救いを求めるのは、
ダブルブッキングではないのか。
私はクリスチャンではないのでよく分からない。
勿論祈るのは自由だ。
祈りは神との繋がりを確認する手段であり、
それはそれを通して自らを救うことである。
祈りは神への要求ではない。
だから思う。
人のことは人で決着を付けよう。
そういうことだ。

悪魔のいない世界

2017-01-02 17:05:16 | 日記・エッセイ・コラム
欧米には悪魔がいる。
というか、悪魔という概念がある。
概念があるということは、
心の中にその概念、つまり悪魔がいるということです。
概念(言葉)とはそういうものです。
なぜそんなものを創ったのだろう。
それは一神教ゆえのことだと思う。
自分の信じる神だけを神とすれば、他は否定せざるを得ない。
唯一とはそういうことです。
だから他の神らしきものは認められない。
否定するより他ないのである。
そこに悪魔が誕生する。
神に反逆するものとして。
・・・・・
日本にも悪魔という言葉はある。
これは明治以降に創られたのかも知れない。
勝手にそう思っている。
そもそも日本には悪魔のいる場所はない。
神様しかいないのだから。
この世界を創ったのは神であり、すべては神の手の中にある。
豊穣をもたらすのも神であり、災厄をもたらすのも神である。
神社では数々の(名前の)神が祀られている。
例えば、天照大神など。
でも普通は固有名詞では呼ばない。
一般名詞で言うことがほとんどだ。
神様、という言葉で。
もう少し具体的に言うこともある。
水の神とか風の神とか。
それに悪神もいる。
疫病神とか死神なども。
つまり、すべてが神の技なのである。
良きにつけ悪しきにつけ、すべて神様のなさることなのだ。
そこに悪魔はいない。
一般的にはこれを多神教と言っている。
でも私は超一神教と言う。
何でも超を付ける流行り言葉のように。
でもピッタリだと思う。
・・・・・
欧米流の一神教は二元論的発想になる。
善か悪か、などのように。
そして好き嫌いを通り越して、否定の論理に陥る。
否定の論理はときに狂気を呼ぶ。
まことに殺伐とした世界である。
日本のような超一神教の世界では、
好き嫌いはあっても、否定はない。
融通がきくのである。
だから曖昧でもある。
そこがよく分からないと言われる所以だが。
でもそれこそ真骨頂である。
その曖昧なものを曖昧なまま追い求めるのです。
それが道となる。
高みへ続く道となる。
そこに教はなく、道があるのみ。
教ではなく、道なのです。
・・・・・
正月を祝いましょう。
ともかく大いに祝いましょう。
素晴らしい一年になるように。
数多の神に包まれて。