ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

言うまでもないこと

2015-10-26 12:54:40 | 日記・エッセイ・コラム
言うまでもないことだが、
念のため。
戦前の日本人はバカではなかった。
むしろ、まともだった。
特に政治的には。
もちろん、大きな失敗をしたことは事実だ。
大いに反省すべし、である。
それに事の良否はともかく、
戦争をして迷惑をかけてないということは、
ありえない。
だから謝罪も必要だろう。
・・・・・
それに大きな誤解がある。
戦前の日本人は国家に騙されていた、と思っている。
と言うか、思わされている。
軍部が独走気味であったことは確かだ。
同調して新聞がそれを煽った。
そんなこともあってか政治家がその力を発揮できなかった。
いろんなことが重なって戦争になった。
しかし、結局のところ国民がそれを支持したのだ。
国民の支持がなければ戦争などできるものではない。
それを忘れている。
だからこそである。
戦争を望んでおられなかったあの昭和天皇が、
あの天皇が決断せざるを得なかったのである。
・・・・・
日本国において、
国家とは天皇とそのすべての民のことである。
だが、戦後はそれを分断された。
天皇と国民を。
そして国民の間においても。
そして今である。
基本的に何も変わっていない。
未だ分断国家である。
反省はしても否定する必要など毛頭ない。
にもかかわらず、とにかく否定する。
日本を、とりわけ戦前の日本を。
そして明治維新も、江戸時代も。
もちろん、それ以前の時代も。
とにかく歴史・伝統・文化を否定する。
それが戦後日本に置かれた重しである。
・・・・・
そろそろ重しを取り除こう。
庶民は賢い。
だから、徐々に取り除かれている。
だが知識人はどうもいけない。
相変わらず嘘を言っている。
都合が悪くなればダンマリである。
気を付けよう。
腑に落ちる、ことだけを信じよう。
頭でなく、身体に聞こう。









腑に落ちる

2015-10-20 10:45:50 | 日記・エッセイ・コラム
禅宗は座禅をこととする。
座禅は仏教における修行の一つである。
座禅以外にも修行の方法はある。
滝行あるいは千日回峰など。
では修行はいったい何の為にするのか。
それは悟りを開くことだと思う。
悟りとは何か。
何を悟るというのか。
生死の理あるいは存在の真理とでもいうのか。
たぶん頭で考えても分からないことだ。
頭で考えるとはつまり言葉に頼ることである。
言葉とは所詮レッテル貼りである。
幾らレッテルを貼ってもレッテルが増えるだけである。
どこまで行っても堂々巡りなのだ。
それが分かっているから他の方法を探す。
それが修行であろう。
・・・・・
修行してもたぶん分からない。
お釈迦様はそうでは無かったかも知れない。
だが凡人には無理だ。
入口ぐらいなら行けるだろうが。
いろんな修行があるが、まず思いつくのは座禅だろう。
座禅は瞑想をこととする。
言葉を捨て、念を捨てる。
ひたすら無になる。
完璧な無を目指す。
できるものであろうか。
少なくとも私にはできそうもない。
真似事ぐらいならともかく。
・・・・・
人は60兆個もの細胞でできているという。
細胞はその一つひとつが生命体である。
無とはその60兆個もの細胞(生命体)を同期させることではないのか。
意識してできるものだろうか。
人には自律神経というものがあり、
すべての細胞を統括している。
これは無意識である。
そこではすべてが同期されている。
始めから同期されているのだ。
本来、無なのである。
ならば、なぜ修行するのか。
それは意識のせいである。
意識こそが撹乱の原因だ。
これは矛盾だ。
捨てればいいだけのものを、
捨てないで為そうとは。
意識と深く関わっているのは言葉である。
それはすなわち言葉を捨てることである。
つまり、言葉からの完全なる開放である。
それが修行である。
・・・・・
本格的な修行が難しくても、
無を想起するだけなら誰にでもできる。
すなわちである。
頭で考えることも大事だが、
それだけに頼ると失敗する。
迷ったらすべての細胞に問おう。
そしたら答えてくれるだろう。
「腑に落ちる」かどうか。





意思のもと

2015-10-14 13:12:29 | 日記・エッセイ・コラム
人は60兆個もの細胞でできている、らしい。
と言われても、想像もできない数字だ。
そんな膨大な数の細胞だが、個々の細胞は同じものだろうか。
まったく同じかどうかは分からないが、
基本的には同じだろう。
それが手足に在っても、心臓に在っても。
脳に在ってもだ。
・・・・・
人間の意思は脳によるものだと、
一般的には思われている。
それはそうだろう。
だが脳は脳だけで生きてはいけない。
手足や心臓に支えられている。
では脳が主で手足や心臓は従か。
そうとも言えないだろう。
手足や心臓こそ脳を従えているとも言える。
どちらでもいいだろう。
というか、どちらでもないと思う。
それは主従の関係ではない。
そもそも一体なのだ。
私はそのことを疑わない。
もし聞けるなら、手足や心臓・脳に聞いてみたい。
たぶん答えは同じだろう。
60兆個もの細胞に主従などあろう筈もない。
・・・・・
ならば意思は脳だけのものではない。
つまりは、
60兆個もの細胞すべてが関わっている、
ということだ。
とは言え、脳が決定的に関わっていることも事実だ。
経験的にも科学的にもである。
普通に考えて、
脳が中枢的役割をしているということは、
疑えない事実である。
しかし忘れてはならない。
脳がすべてではないということを。
でも人はそれを忘れる。
そういう人を「頭でっかち」と言う。
・・・・・
悲しいかな現代は。
まことに「頭でっかち」の世界である。
言葉過多な頭でっかちが闊歩する世界である。
思いを致そう、
すべての細胞に。
膨大な数のすべての細胞に。






なじめないもの

2015-10-09 15:43:29 | 日記・エッセイ・コラム
なじめないものがある。
電子書籍である。
とは言うものの、使ったことはない。
使わないで言うのは、
真に胡乱である。
でも、生理的に厭なのだ。
嫌悪感をすら感じる。
・・・・・
言葉には話し言葉と書き言葉がある。
話し言葉はその場限りである。
言った尻から消えていく。
時の中には残らない。
書き言葉はそうではない。
時の中に定着させるものである。
繰り返しが可能なのである。
永遠は無理としてもだ。
ことほど左様に、
話し言葉と書き言葉は性格が違う。
そこがいいのである。
しかるに、コンピュータはそれを壊してしまう。
それが嫌なのである。
便利といえば便利なのだが。
・・・・・
話し言葉は今やその場限りではない。
簡単に録音できてしまうのだ。
しかもどんな長時間でも。
つまり、時の中に定着させることができるのである。
書き言葉はどうだろう。
もともと時の経過に堪えるものである。
それが本である。
これまでは主として紙で作られた。
今は電子書籍がある。
紙は物だが、電子書籍は物ではない。
単なる電気信号でしかない。
手に取ることはできない。
読み進めば順次目の前から消えていく。
まるで話し言葉のように。
もちろん保管しようとすればできるのだが。
それにしてもである。
コンピュータは話し言葉と書き言葉の境界を曖昧にする。
これがなじめない。
まったく、なじめない。
・・・・・
だから電子書籍は厭なのである。
生理的に厭なのである。
まあ、人それぞれだが。











ヒラメキ

2015-10-05 10:00:18 | 日記・エッセイ・コラム
人間にはヒラメキがある。
脳の不思議である。
今のところコンピュータにはないようだ。
とは言え、ヒラメキのようなものはある。
それは圧倒的な記憶容量と演算速度が演出している。
でも人間のヒラメキとは違う。
・・・・・
ヒラメキはどうして起こるのか。
はっきりとは分からない。
分かっているのは、
脳の中の記憶はただ蓄積されているだけではない、
相互にやり取りをしている、
ということだ。
意識してできることも少しはあるのだろうが、
その多くは無意識下で行われる。
それは眠っている間にさえ行われている。
記憶は無意識下で絶えず相互に接触しているのである。
その接触が刺激となり新たな局面を生む。
それが意識に現れる。
ヒラメキとはそういうものだろう。
となればさらに思う。
ヒラメキらしきものは絶えず起こっている筈である。
だが、そのほとんどは気付かれないまま消えている。
では現れるにはどんな条件が必要なのか。
研究に没頭すれば四六時中気に懸かるという。
寝ても覚めても、である。
しかし何事も煮詰まり過ぎると良くない。
時にはそこから離れたくなる。
その時ではないのか。
そこから離れる瞬間こそ、その時ではないのか。
覚束ない私の経験からではあるが、
そのように思う。
・・・・・
ヒラメキにとって大事なことがある。
脳の記憶である。
いろんな情報をできるだけ脳に記憶させなければならない。
それがヒラメキの元である。
コンピュータで検索すれば分かるからといって、
記憶を蔑ろにすればヒラメキは起こらない。
情報を脳に入れなければならないのである。
詰め込み教育は良くないと言われるが、
それはそういう面もあるが、
明らかに詰め込みも必要なのだ。
このこと留意しなければならない。
なるほどコンピュータの検索は便利である。
大いに利用すればいい。
それはそうだが、
そればかりではいけない。
情報を脳に取り込もう、
そして自分で考えよう。
コンピュータはあくまでも道具である。