ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

囚人

2019-01-28 13:02:08 | 日記・エッセイ・コラム
またまたゴーンさんのことです。
何回も保釈の請求をしては、その都度却下されている。
本人は自信満々に無罪を主張しているが。
当方は法律のことはよく分からないので、
この先どうなるのやら?です。
しかしである。
やり方が汚いとか守銭奴だとかは横に置いても、
要は肝腎なことが分かっていないのです。
ゴーンもゴーンファミリィーも。
自分たちが搾取してないとでも思ってるのか。
これだけの富の偏在があるのに。
そも一人で無人島で幾ら頑張っても意味はない。
能力があり頑張ったとしてもそれがどうしただ。
すべては人がいてこそ、社会があってこそです。
口先だけではネジの一本も作れないのに。
・・・・・
欧米のエスタブリッシュメントはみなお仲間だ。
1パーセントの中のさらに1パーセントである。
それが世界の富のほとんど(一説には90%以上とも)を握っている。
少し前ではあるがアメリカで抗議の嵐が吹いた。
勿論それは無くなった訳ではない。
深く静かに流れている。
ところで、これらのことは意図して為されている。
ひとつ、錬金術の発明。
中世ヨーロッパで流行った錬金術では本当の金は作れない。
だから代わりに金と交換できるものを創った。
信用通貨である。
そしてその発行権を独占した。
これこそが錬金術である。
今緊縮財政を訴える者はみな彼らに仕えている。
本来発行権は国民のものだ。
通貨の価値は国民の働きに帰するのだから。
ひとつ、会社は株主のものだと言う。
会社は本来役職員のものである。
その会社の価値を体現しているのは実に役職員である。
一歩譲って株主のものでもある、としても。
まあ確かに設備等資産は株主のものだろう。
しかし資産はそのままでは利益を生まない。
それを有効に使う人がいてこそだ。
役職員の働きがあってこそだ。
このこと疑問なし。
他にも色々あろうが、この二つが大きい。
だからだ。
会社が株主のものなら、その成果はみな株主のものだ。
現にそのように運営されている。
労働者の給料が上がらないのもその故である。
しかして、
お金はお金が有るところへ集まるよう仕組まれている。
巧妙かつあからさまに。
それにさらに困ったことがある。
それはメディアである。
メディアもまた会社組織である。
そして会社は株主のものなのだ。
だから株主の不利になるような報道はしない。
現下のメディアはそのようにある。
ジャーナリズム精神などとうに死んでいる。
まことに嘆かわしいことです。
プラウダ(旧ソ連の機関紙)や人民日報を笑えないのだ。
同じ穴のムジナだから。
・・・・・
彼らエスタブリッシュメントはだからゲットーに入っている。
戦前ヨーロッパにあったユダヤ人居住区のような。
ゲットーから出れば危険なのです。
民衆の怨嗟の中で。
そのゲットーを守るため、
私兵をさりげなく配置している、
そして怨嗟を避けるためメディアを使う、
自分たちに矛先が向かないように、
自分たちが皆の為に頑張っているかのように、
故に騙される者も少なくない。
彼らエスタブリッシュメントは実は馬鹿だ。
民衆がいなければ彼らはエリートではいられない。
民衆がいてこそだ。
もしいなければ彼ら自身が民衆にならなければならない。
それは絶対厭なのだ。
でも一度味を占めたら止められない。
そこにしがみつく。
だから未来永劫ゲットーから出られない。
彼らこそ囚人(囚われ人)である。
自由・自由と言いながら、
まったき不自由の人である。
苦笑あるのみ。
・・・・・
ところで日本には自由がある。
本当の自由がある。
私はつまらない平凡な一庶民である。
家柄も財産もない。
だけど生まれてこのかた束縛感を感じたことはない。
たぶん彼方もそうだろう。
その中心に天皇陛下がおられる。
もとより天皇陛下は特別である。
しかして陛下だけが特別なのだ。
でもピラミッド社会の頂点におられるのではない。
円環社会の中心におられるのだ。
そういう感覚なのである。
その天皇陛下が国民の安寧と幸せを祈られている。
実に「まこと」の心で。
有難いことである。
このことがある限り社会が壊れることはない。
多少の揺らぎはあっても。
有難いことです。
まことにまことに。

考える

2019-01-21 12:27:17 | 日記・エッセイ・コラム
人間は考える葦である、
とはフランス人パスカルの言葉だったと思う。
考えるとは言葉を操ることだ。
そしてそれを叡智に扱うのがフランス人だと。
私にはそこがどうも合わない。
どこか嘘くさく感じるのです。
・・・・・
人間以外の生物は考えない。
でも世界(現実)は当然に認識しているだろう。
でなければ行動等(生命の維持)できない。
でも言葉を持たないから明確な認識はなさそうだ。
言葉を持たないとは、
目の前の物事にハッキリとした線を引けないということで、
現実を認識していても、
そこは曖昧だとしか思えない。
その曖昧さは人間にとってはであり、
彼らには自明のことかも知れないが。
私はそれを「思う」と表現している。
それは言葉にできないが認識はしていると…。
人間ではそれを直観とでも謂うのだろうか、
動物ではそれを本能とでも謂うのだろうか、
或いは無意識の意識とでも謂うのだろうか、
まあ言葉の綾です。
・・・・・
私は言葉は世界の中に線を引くものだと思っている。
線を引けば物事が分けられる。
それが分かるということだと。
言葉とは世界に線を引いて分かったような気になること、だと。
言葉を沢山知れば知るほどよりよく分かる、のだと。
だから豊かな語彙(言葉であり知識でもある)を得ようとする。
以前に「考えるとは語彙と語彙の間を埋めること」だと言った。
しかもそれを言葉で埋めるのです。
そしてその埋め方にこそ人の本性があると。
ただ知るだけなら辞典とかわらない。
言葉があるだけなら辞典とかわらないのです。
しかも辞典にかなう訳もない。
言葉を知ってその間を埋めてこそ人間なのです。
なら線を引かない生物は…。
線を引かない生物にとっては世界はひとつなのです。
線を引かないのだから当然だろう。
ひとつのものに間はない。
埋める必要がないのです。
目の前の(ひとつの)世界をあるがままに生きるのです。
私はそう思っている。
・・・・・
人間は言葉を持ってしまった。
だから分かったような気になっているが、
それは世界を分断して隙間を作っている、ということです。
だからなお間を埋めなければならない。
しかし埋めれば埋めるほど間は増える。
終りの無いいたちごっこです。
無限のループです。
だから性に合わない。
嘘くさく感じるのです。
でも考えてしまう。
それが人間です。
人間の本性です。

私の流儀

2019-01-14 16:41:52 | 日記・エッセイ・コラム
こうやって何がしかのことを記しているが、
私の語彙や知識は多寡が知れている。
基本的には義務教育(高等学校を含む)がベースである。
大学は卒業しているが、
大学紛争が盛んな時期であったので、
勉強をした記憶がない。
むしろ卒業後の方が本をよく読んでいる。
でも何と言っても義務教育が土台である。
それがなければ以降の読書にも繋がらなかっただろう。
そこは間違いない。
・・・・・
学校での成績は良い方であった。
未だに平家物語や徒然草、奥の細道などの冒頭部分は覚えている。
数学は比較的得意で、苦手だったのは英語である。
歴史は特にだが、物理・生物などの理系も好きだった。
それはさておき、
基本的な語彙や知識はそこで得たのだが、
それがあるから、
その後いろんな本を読むことができた。
それは勉強の為などではなく、
あくまでも興味本位であった。
若い頃は特にジャンルを決めずに読んだ。
もともと興味のある歴史は勿論、
文系の政治・経済などから理系の自然科学の分野まで、
それに宗教的なものやオカルト的なものも。
何でもありだった。
・・・・・
で「それがどうした」である。
どうもしない。
言いたいのは、
考えるとは言葉を操ることである、
ということだ。
だから考えるには言葉を知っていなければならない。
沢山知っていればいるほど考える手づるが多くなり、
広く深く考えられるようになる。
語彙や知識が必要なわけである。
今にして思うのは、
学校教育でいろんな教科を学び、
多くの語彙を身に付けたが、
それらは独立してあるのではない、
ということだ。
すべてが繋がっている。
こんなもの勉強して何の役に立つのか、
と時に言われるが、そんなことはない。
いつどこで役に立つかは分からないし、
人の心に沁みついて深みを与えるのは、
言うまでもない。
・・・・・
私は学者でもなくジャーナリストでもない。
ただのサラリーマンの成れの果てです。
語彙など多寡が知れている。
でも少しは考えられる。
それは語彙と語彙の間を私なりに埋めるのです。
しかもただ埋めるのではない。
それを言葉にするのです。
それが考えるということ、だと思う。
それにしても、そも私の語彙や知識が正確かどうかは?である。
そこはまさに凡人なのである。
正確さだけなら辞書に勝るものはない。
あやふやさが私自身ではあるのだが、
その間の埋め方にこそ実に私の私たる所以がある。
と謂うことで、
当方の誤解や錯誤、はたまた不見識は無視してやって下さい、
その間の埋め方こそ私なのですから。
ご寛容を!

孔子先生

2019-01-08 15:45:09 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカでは孔子学院が閉鎖されているという。
シナ共産党の宣伝機関であったらしい。
それは当然に分かっていたとは思う。
酷いことにスパイの巣にもなっていたようなのだ。
そんなこと初めから分かってるのに、
今になって気付くとは…。
・・・・・
孔子先生もとんだとばっちりである。
孔子先生は歴史に名を遺す素晴らしい先生である。
論語という今に残る立派な本がある。
シナには実としては無いかも知れないが。
名跡だけは残ってるとしても。
これは私の一方的な思い込みだが、
シナには無いもの(見失ったもの)がある。
それは祈り(祈る心)である。
シナは孔子先生の教えを国の教えとしてきた。
所謂儒教である。
だがそれは本当に良いと思うからではなく、
支配に都合がいいから利用してきただけだ。
真の教えはそこにはない。
そも孔子先生は祈りを否定していない。
我鬼神を語らず、とは言っている。
それは鬼神(神)を否定してるのではない。
若輩者の私には語るにはまだ手に負えない、
としたうえで、
だから、
人の世は人が為しているのだから、
人の思いを深く極め、
それをもって世を治めようと…。
まさに合理精神である。
近代精神にも通ずる素晴らしい教えなのだ。
・・・・・
立命館大学の名誉教授であった、
白川静先生が言っていたのだが、
孔子先生はシナ中を廻って祭儀を行なっていたとか。
祭りのために廻っていたのだ。
つまり祈る人だったのである。
私の浅薄な知識だから当てにはならないが、
そう考えれば腑に落ちるのです。
孔子先生の本当の姿が。
その孔子先生の教えを、
教えとしては素晴らしいのだが、
祈りの心を欠落したまま、
なお支配に都合よいところだけを利用し、
孔子先生を顧みようとはしない、
まことに不埒な国となってしまったのです。
今のシナは。
それが中華思想の質です。
自分中心で自分の都合のみを考え、
場合によってはどこまでも諂い、
場合によってはどこまでも尊大に振る舞う、
という。
・・・・・
孔子先生の教えはこの日本で生きている。
シナは既に捨ててしまったが。
聞くところによると、
日本にも孔子学院があるらしい。
理解しかねることだ。
シナの道具でしかないのに。
もしである、
孔子先生の教えを本当に伝えたいのなら、
それなら問題はない。
だがそうは思えない。
だからである、
孔子学院という名前は良くない、
孔子先生にまことに失礼である、
うん!

正月祭り

2019-01-04 10:34:36 | 日記・エッセイ・コラム
歳を重ねたせいか、
こうやって新年を迎えられるのは、
まことに有難いことであり、
まことにめでたいことであります。
・・・・・
ところで竹田恒泰先生が言っていたのだが、
正月はなぜめでたいのか、と。
結論、実はめでたくはないのだと。
でも、おめでとうございますと言って、めでたく振る舞うのだと。
三が日でも七日間でも…、正月の間。
ひたすら良き言葉のみを発する。
ひたすら良き態度で接する。
そうやって、
心を立て前向きに過ごすことで、
良き一年を期するのである。
そういうものだと。
ときに風が吹く。
心魂に清々しい風が。
このことが素晴らしいのだ。
ちなみに我田引水ながら、
私はこれを心魂の新陳代謝と言っている。
肉体が新陳代謝を繰り返すように、
精神も新陳代謝が必要なのである。
為に意図して心魂に区切りを付す。
それが正月祭りである。
・・・・・
祭りとは祈りを形にしたものである。
形にして心魂に線を引く。
そこに意味・意義がある。
ならその根幹は祈りと言うべきでしょう。
そも言葉を持った人間は、
それゆえに存在の不可思議に会合し、
そして困惑し様々に想いを巡らす。
その果てに、
大いなる力を想うのである、
そしていよいよ、
想わずにはいられなくなる。
それを祈りと謂う。
何しろ不可思議の核心である。
ときに名付けて神とか言うが、
神は信じるとか信じないとかではない、
信じるより他ないのです。
そして祈らずにはいられなくなる。
かくして私も祈る。
・・・・・
正月祭りは素晴らしい。
それは日本人の心に深く根差している。
水に流すという言葉があるのも故なるかな、
更新し続ける(継続できる)力があるのも故なるかな、
災害に強いのも頷けるのだ、
恨みを引きずらないのも頷けるのだ、
それもこれも祈りがあってこそ。
さりながら近年はその情緒が薄れてきた。
まあ余計な心配だろう。
日本は今日も日本だ。