ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

ハラスメントゲーム

2018-11-26 13:15:11 | 日記・エッセイ・コラム
なかなか面白いドラマである。
主役は唐沢寿明が演じている。
その人物はドグマにとらわれない自由人である。
まことに人間的なのです。
昨今は何でもハラスメントという言葉で人を縛ろうとする。
彼はそういう風潮に迎合しながらも、言葉ではなく実相で解決するのです。
現下の日本の有様を揶揄するかのようだ。
思うに日本がおかしくなったのは、
ずっとそういう傾向だったのだが、
コンプライアンスとかハラスメントとか謂う訳の分からないカタカナ語が、
持ち出されてからだと思うのです。
いやはや!
・・・・・
学校でのいじめが社会問題になって久しい。
勿論すべての学校がおかしいとは思っていない。
だが酷いいじめがニュースにならない日がないかのようだ。
そこで大きく問題になるのが隠ぺいである。
学校や教育委員会が隠ぺいしがちなのと、
事に及んでの調査がまた杜撰なのである。
そういう時こそ出番なのに。
思うに対処方法が分からないのだろう。
ならこれは大人の問題である。
以前にも言ったが、
いじめは根絶するものではなく、治めるものです。
いじめとは人間関係の一局面であり、そも大なり小なり摩擦はあるのです。
それを上手く扱うよう指導するのが教育であり、それを担うのが先生です。
そしてその先生方に協力するのが教育委員会等です。
根絶と言っていては治まりようがないだろう。
普段から人との交わり方を指導し、
注意深く観察しながら、
いじめの目が見えたらそれとなく注意し、
酷いいじめにならないよう導く、
それでもそうことになれば厳しく対処する、
それが先生です。
見て見ぬ振りなどもっての他。
問題が見えたときの教育委員会も同様である。
・・・・・
いじめ問題の犠牲者は子供である。
だが問題の根幹は大人にある。
これはまったき大人の問題なのです。
勿論世間には普通というか立派なというか、
そんな大人は沢山いるだろう。
でも大人になれない大人もまた多いのだ。
ハラスメントとは大人になれない大人が持ち出すものであり、
これは大人のいじめ問題である。
こんなことは法律ではなく人間力で解決せよ、である。
最後の手段として法律があるのはいいとして。
対抗できない力技を持ち出されたら、である。
昨今は何でも~ハラスメントと言って法律で解決しようとする。
その姿勢がどうにも気に入らない。
これは以前にも言ったが、
法律とは事を治めるためのもので、魂(こころ)を鎮めるものではない。
表面的には従っても、心が同調しなければ、解決したとは言えない。
問題の表面を取り繕うだけだ。
本当の解決は心を開放しなければならない。
だからである。
法律ではなく(強制ではなく)人間力による解決なのである。
でもまあこれが決定的に難しいのだが。
でもそうものだと心得なければならない。
・・・・・
戦後教育は子供を育てるのに失敗している。
子供が大人にならないように仕向けているのか。
てかむしろそれが意思なのだろう。
日本を押さえておく為の。
私が受けた教育現場にはいじめ問題はなかった。
ちょっと怖そうな不良はいたが。
先生方は皆戦前の教育を受けた方達であった。
それに自虐史観など欠片もなかった。
むしろ日本には誇るべきものがある、と。
それがどうも知らない間に様変わりしていた。
小学校で学級崩壊などの話が出てきたのはその頃からだ。
だからである。
私は団塊の世代の只中なのだが、
その段階の世代が大嫌いなのだ。
まあ八つ当たり気味ではあるが。

日本国紀

2018-11-19 13:51:08 | 日記・エッセイ・コラム
これは今バカ売れしている本の表題である。
昨今日本で一番売れている作家百田氏の作品である。
早速購入した。
なお私は通販(特にアマゾン)嫌いなので書店で購入した。
特に本に関してはそうで、町の書店を応援しているのです。
なおなお、
アマゾンという固有名詞を記したが、
アマゾンが嫌いという訳ではないのです、
一人勝ちが嫌いなだけです。
念の為、
・・・・・
発売日の前々日の土曜日だったと思う。
平台に並んでいて目に付いたのである。
まあ書店にはよく行きます。
週に2~3回ぐらいですが。
まだ一行も読んでいない。
当分目を通さないと思う。
歴史にはもともと興味があり、
古事記・日本書紀から、
世間では偽書と言われるものや、
さらには荒唐無稽?なものまで、
もう様々な本を読んできた。
でも基本は学校で学んだ歴史です。
私の学んだ歴史は偏向していなかった。
でなければ嫌いになっていたかも。
それはともかく、
なぜすぐに読まないのかと言えば、
読むためと言うより、
応援するために購入したから。
その右寄り(本当は真中ですが)の姿勢に共感して、
・・・・・
勿論読むつもりです。
唯物史観というハッタリや誤魔化しではなく、
だから当然無味乾燥な記述の羅列等ではなく、
実に基づいた物語として書かれているようで、
すこぶる面白そうである。
手元に読む本がなくなったら、
ゆっくり読もうと思っている。
なお歴史は物語でなくてはならない。
以前にも言ったが、私にとって歴史とは「魂の軌跡」なのです。
人の思いが伝わらないようでは意味がない。
その思いを伝えるのが物語です。
それは無味乾燥な事象の羅列ではないのだ。
人の思いが乗っていてこそである。
物語こそ歴史の本体です。
勿論事実は事実である、およそ誰にとっても。
見る者によって視点は違えども、事実はもとより一つである。
それをどう捉え、どう行動したかは、人による。
思いは人それぞれなのだ。
それが物語となり、歴史となる。
・・・・・
戦後教育は物語を語らない。
無味乾燥な言葉を羅列するのみ。
自由とか平等とか平和とか人権とか…。
これでは心が乾く。
為になお一層無味乾燥な言葉を叫ぶ。
だから小学校が壊れる。
付き合ってられない。
しかも壊れていることに気が付かない。
それが典型的に現れるのが、いじめ問題である。
解決方法が分からないのか、見て見ぬ振りばかり。
哀れ!
ここに提示する、解決方法を。
小学校の前庭に二宮金治郎の銅像を戻すこと。
現代版教育勅語を立てること。
すなわち物語を取り戻すのだ。
物語を通して言葉を伝えるのです。
生きた言葉をです。
完全になくなるとは言わないが、
粗方は解決するだろう。

魂の軌跡

2018-11-12 13:58:35 | 日記・エッセイ・コラム
歴史とは魂の軌跡だと私は思っている。
勿論当然事象(行動の記録)なのだが。
人間以外の生物にも歴史はあるのだろうか。
歴史という考え方があるのだろうか。
時の経過の中でどう行動したか、
という意味では同じであろうが。
だから一見すればあると言うことになる。
だが私の結論は無いである。
・・・・・
他の生物には明確な自我が見られない。
自我は言葉を持たなければ明確化しないと思う。
勿論自我そのものはあるだろう。
だがそれを概念化した上で、己を振り返らねばならない。
それがないと明確な自我とは言えない。
それでは歴史は語れない。
歴史とは人々の来歴を文字による記録で著したものである。
だから歴史時代とは文字の記録で辿れる時代ということだ。
文字の無い時代は考古学という。
とはいえ、事象の変遷をなべて歴史と言ってもいいだろう。
文字に代わるものをもって表わせば。
それが提示できるならだが。
他の生物についても観察記録としては提示できるだろう。
だがそれは歴史とは言わない。
それはその種の生態を研究する学問である。
歴史という言葉はそぐわない。
・・・・・
魂とは物である身体に宿る気(精神)である。
唯物論のごとく世界は物だけで出来ていると考えるなら、
彼方も私も同じような物であり大きな違いはない。
同じホモサピエンスなのだ。
でも現実は彼方は彼方であり私は私である。
その違いは身体的にもあろうが、何より思いの違いである。
魂の表出の違いなのだ。
それこそが違いなのだ。
現下の世界は唯物論が席捲しているが、
唯物論とは便法であり、
扱い難いものである魂は取り敢えず横に置いて、
先ずは物だけで考えよう、
というものである。
しかるに、その前提を忘れてしまったようだ。
それが昨今の情勢である。
この世界が歪むのは当然の成り行きだ。
それはさておき、
・・・・・
歴史とは魂の軌跡と謂うは故なのだが、
それは言葉があってこそ現れる。
言葉が自我を浮かび上がらせ、それが思いとして表出する。
その結果の行動の積み重ねが歴史である。
だから人間特有のものなのだ。
小さくは自分という個人史、大きくは国史・世界史など…。
狭義では歴史とは文字の記録をいうのだが、
それは元を糺せば言葉であり、
言葉はそも音(声)であり文字は後付けでしかない。
だが文字は記録として残こる。
だから歴の史(ふみ)なのだ。
歴史とは言えないが、似たものに神話がある。
神話は事実の記録ではないようだ。
その内容は時に奇想天外でもあり。
でも大きな意味・意義があり、すこぶる価値あるものなのだ。
それは時代を生きた人の魂が宿っている。
歴史が結局は魂の軌跡なら、神話もそれに違いないのだ。
しかもそれに特化している。
それに何がしかの事実の反映でもあろうし。
・・・・・
日本には最古の歴史書として古事記・日本書紀がある。
いろいろ言われているが、それらは日本の正史である。
その最初は神話で始まっている。
だから歴史書としては認めがたいと言う人がいる。
笑止!
だから素晴らしいのだ。
初めに純然たる魂の表出から始まっているのだ。
その上で魂の軌跡である事象が記されている。
素晴らしい。
なお古事記は厳密には正史とは言えないかも知れない。
だが古事記こそ日本人の魂だと思う。
彼の本居宣長先生も言ってるように。

変わらない構図

2018-11-05 18:50:21 | 日記・エッセイ・コラム
戦後一貫して構図は変わっていない。
すなわち日本を押さえておく、ということである。
終戦直後はそもボロボロであり、
そこからの復活をいかに押さえるかであった。
だからと言って、あからさまに非人道的なことはできない。
そこそこの復興は認めざるをえなかった。
・・・・・
そこで行われたのが、
WGIP(ウオーギフトインフォメーションプログラム)である。
日本人に反抗させないようにと。
徹底的に自虐史観が植え込まれたのだ。
ために主だった知識人の追放と出版文書類の徹底した検閲が行われた。
嘘もこじ付けもお構いなし、目的のためには何でもありだ。
とはいえ、あからさまな嘘は通じない。
何しろ終戦直後である。
現実を知っている者が沢山いた。
日本にも外国にも。
だから南京大虐殺も東京裁判には結局持ち出せなかった。
従軍慰安婦は当然のこと影も形もなし。
徴用工、はて?
あの日本を裁くための裁判なのに。
件の事案はだからまったき嘘だということだ。
さりながら、ご存知のように大嘘なのに今もって無くならない。
南京の件は少し影をひそめたが、ユネスコには登録されてしまった。
慰安婦の件は相変わらずである。
言っているのはシナと朝鮮だが、
アメリカも事実は分かっている筈なのに何も言わない。
そもアメリカ(の権力)の意向なのだから当然だろう。
つまり結託しているということだ。
最近は少し風向きが変わってきた。
でも構図は変わっていない。
・・・・・
結局、問題は歴史である。
自分(の歴史)を取り戻さない限り本当の復活はない。
これまで随分とお詫びと反省を重ねてきた。
それも止むを得ないことではある。
ともかく戦争という手段に訴えてしまったのだから。
とはいえ戦争は一人ではできない。
相手のあることだ。
善悪は一方的には決められない。
双方に責任があると言うべきだ。
つまり喧嘩両成敗なのだ。
さりながら勝てば官軍であり、また敗軍の将兵を語らずであり、
結局日本が悪者となった。
それも致し方なし。
でもそろそろ自分(の歴史)を取り戻そう。
アメリカは直接的には日本を責めない。
言論の自由を標榜しており、嘘で塗り固められないのだ。
むしろアメリカ人(特に軍人)は日本人(日本軍)を認めている。
責めているのは戦争を欲した張本人等(戦後支配の中枢)である。
彼らは自分たちを正当化しなければならない。
為にメディアを乗っ取っている。
日本は勿論、アメリカやヨーロッパでもだ。
だから未だWGIPから抜けられない。
占領軍はいなくなったというのに。
てか…形を変えて存在しているが。
・・・・・
そも歴史の捉え方がおかしい。
現下の世界では。
人間にとって歴史とは何だろう。
私はそれは「魂の軌跡」だと思っている。
言葉を替えれば「思いの系譜」とでも言うべきか。
思いが行動を促し、その結果事象がある。
思いを除いたら、それは単なる跡形であり、
歴史とは言えない。
思いだけで事象を述べないなら、
それも歴史とは言えない。
ともに揃っていてこそなのだ。
それが歴史である。
ところで歴史観という言葉がよく使われる。
歴史観とはまさに思いのことで、
それは立場が違えば本来異なるものである。
それに比して事象とは事実の記録であり、
立場の如何に係わらず概ね同じ筈である。
そこには大きな齟齬があってはならない。
もとより嘘は論外である。
・・・・・
さりながらである。
巷でよく耳にする。
歴史観が相違するのはおかしい…、と。
なのに事象については嘘も平気である。
はて?これは…。
どこかの国の歴史教育か?
あの国も、あの国も、そしてこの国も。
よく分からない、
呆けてきたのかな…。