ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

世界はひとつ

2018-04-30 11:19:37 | 日記・エッセイ・コラム
世界は繋がっている。
すべて繋がっている。
世界を宇宙と言い換えても同じである。
そも全体をひとつと見れば、それはひとつに決まっている。
部分の集合と見ても、
その部分はすべて繋がっており、
結果ひとつに収斂される。
それが世界である。
・・・・・
昨今よく出てくる言葉で、
グローバリズムやワンワールドというのがあるが、
実は当然のことを言ってるだけで、
非難などするようなものではない。
でも私は嫌いである。
大の付くほど。
今それを言っている人間が嘘つきだから。
人に限らず、存在するものはすべてオンリーワンである。
世界に一つだけの花、という歌にあるように。
彼らはその言を良しとし、個性(違い)は大事だと言う。
その同じ口で、皆同じでなければ駄目だとも言う。
また違い(個性)を認めるのは当然としながら、
時にそれを言えば差別だとも言う。
国や民族もそれぞれの歴史や文化・伝統がある。
それを持ち出せば、時代遅れだとか反動だとか言い出す。
それは個性であり、存在のよすがであるのに。
どうも彼らは病気のようである。
気の違う病気だろう。
・・・・・
彼らの病気の原因は、
グローバリズムやワンワールドという言葉のせいではない。
その言葉はそも現実である。
ならなぜに病気になるのか。
それは言葉に毒を盛るからである。
その毒とは「覇道」である。
つまり自分の思い通りにしようとするからだ。
よって違いを当然としながらも、
その違いが邪魔になって、結局排除しようとする。
違いを無くした方が支配しやすいからだ。
個人においても国や民族においても。
だから言うことが矛盾だらけになる。
そして病気になるのだ。
気の違う病気に。
現下の世界はそのようになっている。
まあ既にご存知だろうが。
・・・・・
個性を尊重した、
本当のグローバリズムやワンワールドとは、
棲み分けによる共生とそれに基づく緩やかな連帯、
その中にしかない。
しっかり見れば分かるはずだ。
自然界はそれを完遂している。
基本的には棲み分けであり、
場を同じくする時は、助け合いにもなり競争にもなるが。
それが自然である。
そこに覇道はない。
水が低きに流れるように、ただ流れるだけです。
覇道は醜悪である。
私はこれが大嫌いである。
さりながら、人の在るところ覇道ありである。
この日本にも覇道はあるだろう。
だが天皇の存在がそれに歯止めをかけている。
結果日本は和の国となる。
残念ながら、
世界は未だそれを知らない。

分からないこと

2018-04-24 17:17:09 | 日記・エッセイ・コラム
結論は分からない、である。
これはいつものことで、何事にも拘わらずである。
それに私だけのことでもなく、誰もがそうだろう。
分かったような顔をする人もいるが、それは大抵ハッタリか嘘である。
ことによってはそう言えるものもあるだろう。
それにしても、さっぱり分からない。
それは安倍政権おろしのすさまじさ、
である。
・・・・・
単に好き嫌いでこれほどのことができるのか。
余りに無理筋のモリカケ騒動である。
得意のレッテル貼りで疑惑のように見せかける。
それがダメなら次の疑惑を持ち出す。
それもダメなら、最初の話の蒸し返し。
それもダメなら、次の話の蒸し返し。
それもダメなら、また最初の蒸し返し。
それもダメなら、また次の…。
それもダメなら、別の問題(自衛隊の日報問題)を持ち出す。
それもダメなら、さらに別の問題(官僚のセクハラ疑惑)を持ち出す。
まったく問題でないものもあり、
問題があるとしても、
現下の情勢では優先順位の低いものや、
事のすり替えやこじ付けなど、
それがどうしたと言うものばかり。
とにもかくにも安倍(政権)が悪いと言う。
トランプ大統領も同様の攻撃を受けている。
でもスケールが全然違う。
向うはロシア疑惑という大きなものだ。
それも無理筋みたいだが。
共通点もある。
それは攻撃する側がどちらもオールドメディアであるということだ。
これは意味があるのだろうか。
日本のメディアもほぼ同調している。
反トランプであり、親リベラルなのである。
同じ穴のむじな、なのだろう。
・・・・・
反安倍に共通してるのは反日だということだ。
日本を貶めることは平気である。
欧米のメディアは基本的に反日である。
彼らはグローバリズムを推進しており、ゆえに国が前面に出ることを嫌う。
なかでも日本が煙たいようだ。
だから日本を敗戦国の枠に閉じ込めておこうとする。
ために日本を貶めるのだ、それが嘘でも。
このことに貢献してるのがシナ・朝鮮である。
ここまでは何となく分かる。
でも分からないことがある。
日本を貶めるのが外国人(在日も含め)ならさもありなん、である。
どうも彼らだけではないようだ。
日本人にもあきらかな反日がいるのだ。
なぜ自分自身(父祖)を否定するのか。
そこが分からない。
日本人には悪くなくても反省するようなところがある。
それはいいとしても、度の過ぎた反日は如何なものか。
意味不明である。
反日は単に手段なのだろうか。
ただ日本を閉じ込めておきたいだけなのか。
だからの反日であり、だからの憲法改正反対なのか。
それにしても分からない。
それはそういうことを画策する力がある、ということだ。
一つの大きな政治的力として。
それはこの日本のどこにあると言うのか。
それが分からない。
さっぱり分からない。
・・・・・
勿論外国人(在日も含め)も日本が好きだ、という人が沢山いる。
最近とみに増えているようだ。
政治の外にいる人はむしろそれが普通かも知れない。
普通が何よりである。
そんな普通の人々と手を結び、本当の平和を創りたいものだ。
ために日本は日本で在らねばならない。
好きだと言ってくれるような日本で在らねばならない。
水が低きに流れるよう、
大きな受け皿として、
日本は日本として在り続けよう。

言葉を貶める輩

2018-04-20 16:41:21 | 日記・エッセイ・コラム
今言葉は貶められている。
とことん貶められている。
言葉は本来中立である。
負のイメージを持つものもあるし、
良いイメージを持つものもあるが。
それはどちらも必要なもので、
しかもそれは人がそのように感応してるだけだ。
言葉は中立である。
それに時にはイメージが逆転することもあろうし。
すべては人の技である。
・・・・・
ちょっと前まで忖度という言葉が飛び交っていた。
負のイメージを貼り付けられて。
忖度とは「他人の心中をおしはかる」ことです。
これは他人を思いやるという、まさに「おもてなし」の心である。
にもかかわらず貶められていた。
件の最大の被害者は忖度という言葉だろう。
政治とは人を仕切るのが仕事である。
役人はそれを実行する人である。
なら役人が政治家の意向を尊重するのは当然である。
つまり忖度すべきなのだ。
それがいけないなら、それは職務放棄である。
忖度せず放置すれば、それこそ犯罪的仕業と言うべきだろう。
言葉を貶めるなかれ。
言葉はそも中立である。
・・・・・
勿論役人にも個人的には思想信条の自由はある。
政治家の意向に従いたくないときもあるだろう。
それでも従うのが役人である。
この時、形としては面従腹背ということになる。
この言葉は余り良いイメージではない。
気に入らないけれども実行する、というなら問題はない。
表向きは従うが実際は実行しない、というなら大問題である。
面従腹背は後者で使われる。
だから負のイメージがあるのだ。
例の文科省前事務次官の前川某が堂々と使っていた。
自分は面従腹背だと。
それを肯定的に扱っていたのがリベラル人士やメディアである。
それは勝手にしろだが、余りにも得手勝手である。
これがリベラルの悪弊である。
・・・・・
直近では首相案件というのがある。
これは言葉としてのイメージはまさに中立である。
何も問題がない。
行政府のトップである首相が先頭に立って推進してるなら、
それを首相案件と言っても差し支えない。
安倍晋三案件なら問題だが。
それなら私的な案件ということで公私混同になるだろう。
あくまで首相案件なのだ。
でもメディアは鬼の首を取ったように報道していた。
安倍政権打倒なら何でもありで、
どんな言葉にも負のイメージを貼り付ける。
しかもそれは彼らが一方的に言ってるだけで、
公文書には一切載っていないのだ。
いやはやリベラルは末期症状である。
・・・・・
昨今はセクハラ問題がまたややこしい。
これも官僚のトップ、事務次官がからんでいる。
しかしこれは個人の問題である。
当事者を糾弾するのは当然だが、
内閣(や大臣)の責任にするのはお門違いである。
そのお門違いを堂々とやっている。
国民も舐められたもんである。
勿論セクハラはいけないが、
こんな体たらくだと、
裏があるのかと勘繰られるだけだ。
勿論あるのだろう。
なお本件は得意のレッテル貼りではなく、
もう一つの得意技「問題のすり替え」である。
飽きもせずよくやるもんだ。
・・・・・
さすがに国民も呆れてるだろう。
と思うのだが、同調する者もいるようだ。
喝!

有難いこと

2018-04-16 16:58:10 | 日記・エッセイ・コラム
また入院することになった。
もう旅行に行くかのようだ。
一応帰りの切符は持っているつもりだ。
…。
帰ってまいりました、無事に。
もう少し養生ですが
・・・・・
にしても有難いことである。
こんな貧乏人でも、それなりの治療が受けられる。
実に有難い。
日本の医療保険は素晴らしい。
若い頃は病気知らずで、保険料の高さに閉口していたが。
それが兄貴が入院したとき、
その様子を見ていたら、
保険料が高いのも止むを得ない、
と思うようになった。
今はもう実に有難い。
これは感謝である。
国に感謝である。
国に感謝とは、つまり国民に感謝である。
保険料を払っている国民ひとり一人に感謝である。
・・・・・
さすがに、これはもらってないが、
生活保護費も同様である。
憲法には、
国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利がある、
と記している。
実はこの権利という言葉が曲者だ。
権利を主張する者はすべからず傲慢である。
もらうのは当然のことだと。
国が相手ならもらい得だと。
国とはつまり国民だ。
それは国民が納めた税金である。
国民ひとり一人に世話を懸けているのだ。
それなら感謝だろう。
先ず感謝だろう。
・・・・・
権利という言葉はそも欧米の言葉である。
そこは根っこが奴隷制の社会である。
奴隷とは人間であって人間でないものである。
それが人間だと主張する。
その時、権利という言葉が生まれる。
だから権利という言葉には怒りが付いているのだ。
日本は違う。
奴隷のいない社会である。
人間はすべからく人間である。
だから権利という言葉は要らない。
敢えて使うにしても、そこに怒りはない。
むしろ感謝が付いているのだ。
リベラルはそれを知らない。
てか知ってて知らぬ振りか。
まあバカである。
・・・・・
最近は減ってきたようである、
朝日新聞が良識的だと思う日本人が。
でもまだまだ多いのだ。
私の目の黒い内にどうにかならないものか。
朝日新聞が改心するか、はたまた廃刊になるか。
それを期待する。
日本人よ日本人たれ!

土下座

2018-04-02 11:24:45 | 日記・エッセイ・コラム
平昌オリンピックでのことだが、
土下座して謝罪してる人がいた。
韓国の女子スケート選手である。
詳しくは知らないが、その後体調を崩して入院したらしい。
気の毒なことである。
原因は選手間のイザコザのようだが、
それで非難の嵐が吹いたのだ。
・・・・・
彼の国は中華思想の国である。
自分中心に物事を考える。
まあそれは人の常ではあるのだが。
問題はそこに自分を顧みることがない、ということだ。
自分を顧みないとは、
他人との関わりの中でしか、
自分を認められないということだ。
だから序列がすべてとなる。
どちらが上か下かである。
謝罪とは本来自発的・内在的な発露である。
だが中華世界にはそういう謝罪はない。
でも謝罪という言葉はある。
それはつまり、謝罪とはさせられるものなのだ。
シナでいう自己批判もそれである。
だから謝罪すれば必ず下位に立つ。
それが土下座なら、これはもう最悪である。
身の置き所がなくなるのは当然で、
体調を崩す筈である。
・・・・・
ところが日本はそうではない。
謝罪とはするものである。
自発的なものなのだ。
勿論謝罪をせまる厄介な人もいるのだが。
それはともかく、
だから、
日本では謝罪する方が尊ばれる。
何より謙虚が好まれるのだ。
ゆえに謝った方が勝ちなのである。
私が現役のときなど、
何かあれば「すいません、すいません」と、
挨拶代わりに言っていたものだ。
そんなもんである。
どうも日本は特殊なようである。
海外では、
謝ったら負けというのが、
常識らしい。
・・・・・
ということで、
日本とシナ・朝鮮は水と油である。
慰安婦問題のこじれ方は、
これはもう典型的なこじれ方で、
どうにもならない。
ほっとくより他ない。
でも嘘は正そう。
シナ・朝鮮はほっとくとしても、
世界には伝えよう…。