ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

相似象?

2024-08-26 07:07:18 | 日記・エッセイ・コラム
ここにきて岸田首相が表明しました。
来月に迫った自民党の次期総裁選び、
そこに立候補しないと。
コメのバイデンに倣ったのか。
そうだろうと思う。
時がきたのである。
これは安倍首相が退陣したときと同じ事象。
まだ大統領選挙が終わっていないのに退陣。
実はトランプが勝っていただろうあの選挙。
それでもバイデンが勝つと確信して。
それが政治なのか。
凄まじき限りかな。
ゆえであろう、岸田首相の徹底的なバイデン寄りは。
今となっては、ご苦労様でしたと言うしかない。
なんちゃって、…。
ということは、
もう今回の大統領選は決まってるということか。
トランプ大統領の再選に。
私はそう思っている。
当らぬも八卦・当らぬも八卦のこの大予想、
てか一方的な当方の願望でしかない。
でもそう信じている。
ふむふむ…、
・・・・・
相似象はここまでですが、
現下の災いはすべてリベラルによる、
そうでしょう、
よく考えればそうでしょうよ。
それはヒトラーの例であきらかです。
ヒトラーは人間です。
それを疑う人はいないと。
みんな同じ人間だから仲良くしましよう。
人権は大事にしましょう。
そうならなぜ彼を絶対悪として祭り上げるのか。
彼には問題があったとは思っている。
でもなぜに絶対悪として祭り上げるのか。
言わずもがな、
それは政治的理由によるもの。
それは戦後から始まって、
一向に収まることがない。
なおも戦後は続いている。
それは戦勝国の思惑であるが、
なによりコメのデイエスの意であり、
それに連なる者らの意である。
ちなみに余談だが、
今回のオリンピックは彼らが仕切っていた。
以前からそうだろうが今や彼らはそれを隠さない。
それはさておき、
ドイツは欧米の枠にある白人国家である。
ゆえにまんまの悪とするは忍びなし。
だからヒトラーにナチスにすべてを被せた。
ドイツは止むを得ずにかそれに同調。
そして今日に至る。
日本も又同じこと。
さりながら当然様相は異なる。
しても天皇陛下には結局被せられず。
止むを得ず選ばれた永久戦犯の七人。
日本は総意として戦ったから、
これはていの良い生贄である。
彼らは逍遥として引き受けた。
今靖国に祀られてるは当然か。
してもなお悪者は必要である。
そこでそれは皇軍となる。
それも陸軍である。
海軍はどうも別枠のよう。
映画等では大抵平和志向で描かれる。
それが典型的に現れるのが山本五十六である。
アメリカ参戦への引金を引いたのは彼なのに。
その立案をしたのも彼だとか。
しても彼は民間方への攻撃は一切しなかった。
それになぜか燃料倉庫?にも攻撃しなかった。
これは早期の停戦が視野にあったか。
ゆえ彼は裏切り者だと言う人もいる。
でもそれは絶対にないと。
彼は日本人なのだ。
思えば利用されたのです。
国際主義協調主義の彼は。
ときのコメのデイエスはもう決めていたのか、
日本を徹底的に叩くとは。
それを思えば、
彼は逍遥とは程遠く忸怩たる思いだったろう。
にしても未だ日本は敗戦の中、
これは間違いなし。
・・・・・
ちなみに比べるのは筋違い?かも、
真珠湾攻撃と原爆投下は、
片や国際法順守の鑑、
片や国際法違反の極、
であるから…。
それに大都市への無差別空襲も含めればなお。
ゆえ彼らにはどうしても必要だったのである、
日本には同様の否それ以上の悪行が。
これが南京事件のでっちあげである。
しかもそれだけでなく更にエスカレート。
そして未だ止まず燻り続けている。
シナや韓国はそのプロパガンダに相乗りしただけ。
しても巧妙なのはその種を日本人に撒かせること。
そんな彼らだがその彼らとは、
それは国家としてのコメではなく、
国家の中の国家のデイエスである。
だから国家の謝罪など必要ないが、
原爆投下を国際法違反だと認めない限り、
アメリカは国家としての歴史は創れない。
歴史が浅いだけでなく歴史なき国となる。
嗚呼!
ワシントンは認めたのにな、
桜を切ったのは私だと。
てかこの逸話は作り話だったとも。
でも正直が大事との教えではある。
まあどちらにしても、
ということで、
うん!

オリンピック

2024-08-19 08:48:58 | 日記・エッセイ・コラム
やっとオリンピックが終わった。
まだパラリンピックが残っているが。
まあ一段落である。
にしても酷いオリンピックであった。
競っている選手らは勿論そうではなかった。
それは素晴らしいものであった。
多少の齟齬はあったが。
酷いのはすべて初めと終わりのせいである。
あの訳の分からない式典にある。
おもえば欧米は変わっていない。
未だ中世のまま、
否BCとADの境を出ていない、
ようで…、
・・・・・
一括りで欧米と言ってるが、
それは欧米の人々すべてを指してる訳ではない。
それはごく一部の人らと、
それに流されている人々のことです。
てか大半の人はそれに気付いている。
しても言葉で押さえられている。
為にお金で生活も形に取られて。
見せものとしての政治はあるが、
そこでの選挙はイカサマの極み。
不正があっても無いの一点張り。
でなけりゃ制度にイカサマを仕込む。
フランスではそれが躍進した保守をおさえ込む。
日本でも胡散臭いことが山ほど。
小選挙区比例代表制がその一つ。
これ以上言わないが。
してもその初めは宗教にあろう。
宗教とはまさに言葉である。
教と付くはそのしるし。
言葉を持った人間はゆえにそれを求める。
それは必要なものであった。
同時にそれは狂気にもなる。
でも本来は必要なもの。
そこでの信仰がその狂気を押さえる。
ときに宗教は力を発揮する。
それを覚えよう。
二千年前にイエスはそれを見据えていた。
愛の宗教と言われるあのキリスト教の生み主、
そんな愛に満ちた人である。
そのイエスは戦う人でもあった。
ときの宗教指導者を徹底的に嫌った。
そして非難し糾弾した。
偽善の律法学者パリサイ人よ、
と言って。

あなたがたは、わざわいである。
あなたがたは白く塗った墓に似てる、
外側は美しく見えるが、
内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
へびよ、まむしの子らよ、
どうして地獄の刑罰をのがれることができようか、
とかてか。

ゆえである、
表向きはローマの総督であるが、
事実は扇動したその人々により、
磔刑に処されたのです。
・・・・・
今世界を支配してるのはその人々である。
だからのあの開会式だったのである。
彼らの流れは以来ずっと続いてきた。
その前もその時もそして今もである。
中世ヨーロッパでのあの魔女狩りも、
大方彼らが扇動・先導したのだろう。
それに事情は違うだろうが、
あのマリーアントワネットを殺したのも、
あのジャンヌダルクを殺したのも、
それである。
彼らはキリスト教の看板を外していない、
てかむしろ積極的に担いでいただろうと。
何しろそこはキリスト教社会だったから。
それに所謂植民地支配などは正にそれか。
ゆえ日本人から見れば、
キリスト教が悪に見えるのも宜なるかな。
そも宗教には二面性がある。
宗教はそれを免れない。
だが無宗教の日本人はそれが強みである。
初めて神を見たときの感覚が未だ残っているのか、
その道を行くをむねとする。
道とは現の実を生きる生き方のこと。
それを知ろう。
ちょっと話がそれたが、
十字架に架けられたイエスは、
目の前で己が衣を奪い合う兵士らを見て、
彼らのために祈った。

父よ、彼らをおゆるしください、
彼らは何をしているのか、分からずにいるのです、
とかてか。

今この世界でも同じことがそのまま。
あのときから何も変わっていないと。
何もです。
グローバリズムの淵源はここにある。
てか変ったのがひとつだけあります。
それはイエスの看板を下ろしたこと。
最早言わずもがなでしょう。
イエスの謂う千年王国は未だなお遥。
最後の望みは東の方に、
キリスト教国でもない、
この日本に、
・・・・・
しても、
人は言葉を持ったがゆえか、
ときに神に出会っていると。
これは私の確信であります。
その感覚を未だ持っているのが日本、
ゆえそれを「かみ」と言い「みこと」と言う。
かみは神と記し、みことは命や尊とも記すが、
実は御言のこと。
つまりは言葉のことである。
これはヨハネの言にもある。

初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった。

てか正にまさにである。
キリスト教国ではない日本だが、
その日本が今やイエスの最期の砦になっている、
何だかな~、と思うが、
でもこれは必然である。
うん!

靖国

2024-08-12 09:58:37 | 日記・エッセイ・コラム
終戦の日の前にあるのが広島・長崎。
これはもう恒例である。
そこでよく問題になるのが、
原爆死没者慰霊碑の碑文である。
「安らかに眠って下さい
 過ちは繰返しませぬから」
とある。
これには主語がない?とか。
特に保守系の人が非難する。
私は保守ですそれも真性の。
でもこれで良いんです。
なにも問題はない。
むしろ日本人の心そのもの。
だと、
・・・・・
日本語には主語がない。
ここにそれがあきらか。
これは被害者加害者に直接言及はしていない。
ここにある主題は戦争とその場における原爆使用です。
その主題に対して思いを述べているのである。
ときの場にいたすべての人々に向けて。
それは戦前・戦中を生きた人々、
及び今ここにいるすべての人々、に。
戦争は起こしません、戦争は起こさせません、と。
そこにあるのは祈りである。
非難や恨みではないのです。
であるから何も問題はない。
これが日本語の特徴である。
細胞一つひとつが一つの命だという。
その総体として私がある。
私とはそれらの細胞にとっては「場」である。
それが私である。
私を一つの生命とすれば、
私にとっての「場」とは家族親戚故郷国家世界である。
私はいつも「場」とともにある。
当然のことかと。
だから日本人の個人主義は欧米の個人主義とは違う。
「個」は「場」とともに、そこに先後はないのです。
それが日本語の世界です。
先の碑文は、靖国の心でもある。
それが分からないのがリベラルです。
でも欧米のリベラルならやむを得ぬかも。
日本人ならなぜこれが分からないのかと思う。
これもすべては戦後の言論空間に仕掛けられた罠。
ために戦後のどさくさに紛れて、
人間の生活を利権にしたのです。
利権にして方々にばら撒かれた。
同時に行われたのがその逆です。
それはその場からの追放である。
しかもその状況が後に続くよう、
いろんな仕掛けを構築している。
それが今に及んでいると。
ひとつは教育に、ひとつは学問に、ひとつは報道に、
そしてその他の枢要な機関にも。
そこでの人事を押さえれば後は思うまま、
生活の利権を盾に取るとはそういうこと、
それはもう巧妙にである。
勿論全部が全部という訳ではありません。
そこには知ってか知らずかのせめぎあいあり。
それでも以前は穏やかであった。
昨今はなぜかそこがあからさま。
さすがにここにきて追い込まれているのかも。
にしても、
今何が起こっているのか、
そこはしかと見ていよう。
・・・・・
現役を半ば退いてからしばらくは、
毎年靖国神社にお参りをしていた。
ほんの数年間のことだが。
でもインバウンドてらコロナとかいろいろあって、
それに東京はやはり遠いので最近は行っていない。
そのかわり、
そういうことで終身会員になっており、
参拝は近くの護国神社に行っています。
暑い最中ではありますが、
蝉しぐれの中、
ときおり木立を抜けて吹く風は爽やか、
まことによきかな。
今年もそのように。
ちなみに余談だが、
私は以前は維新を支持していた。
それが今は毛嫌いしている。
理由はいろいろあるが、
一番は靖国の問題。
ハシシタさんと百田さんの言い合いを見ていれば、
もう情けなかった。
維新には「こころ」がない。
これは他の政策にも現れている。
今や日本共産党より嫌いである。
まあ余計なことで、
ちなみにちなみに、
直近はなお自由民主党もである。
もう溜息しかない。
嗚呼!

きょうき

2024-08-05 09:00:22 | 日記・エッセイ・コラム
きょうきって凶器のことです。
凶器っておどろおどろしいものだから、
ゆえひらがなで記しているのです。
これは何かって言えば、
人間の最終兵器である、
言葉のことであります。
まあずっと前から言ってます。
性懲りもなく。
・・・・・
言葉は脳が創っている。
と皆思っているだろう。
それは半分は正しいと。
でも脳は脳だけで創っているのではない。
體が発した情報を元にしている。
眼、耳、鼻、舌、皮膚、他諸々。
それらからの情報なしでは創れない。
それを思うのです。
それを脳が処理して言葉にする。
そして脳に貯める。
と言うことは、
その初めは現実がすべてであり、
それに基づいているということ。
であるがある程度出来てくると、
脳は脳だけで創ることも出来る。
これを一般的には抽象とか言う。
でも無から有は生まれない。
結局はすべて現実にかえる。
脳も體にある器官のひとつ。
その役割が違うだけで。
中枢的役割ではあるが、
あくまで役割なのです。
ちなみに余談だが、
心がどこにあるかとの問いには、
答えは一つ、それは體にあると。
脳だと誤解している向きもある。
私の心は私の全細胞の総意としてあると。
細胞の一つひとつは対等なのだ。
だから当然でしょう。
でも人間は言葉の生き物である。
四六時中言葉に憑りつかれてる。
ここに誤解が生じる。
言葉が脳にあるから。
結局すべては脳だと。
確かに有意識の意識は脳にある。
でも無意識の意識は體にあると。
他の生き物がそうであるように。
しかも無意識の方が本体だろう。
そう思うのです。
・・・・・
前段が長くなったがここで本題。
ここで凶器のこと。
ちなみに言葉は道具であり、
本来は利器としてあるがときに凶器にもなる。
ここにその典型的な凶器がある。
それが「人権」と「差別」です。
これは凄いですよ、鉄壁のコンビです。
これは奴隷の発想である。
ちなみに奴隷が発生するのは、
そこが奪い合いの世界だから。
しても奴隷を必要とするところでは、
奴隷は大事な資産であり、
供給が多ければ使い捨て、
でなければ使い方を考慮。
だからもあって人権という言葉が出来たのか。
皆同じ人間と謂うならそんな言葉は必要ない。
そこに区別があるからで、
それを階級と言っている。
その最下層が奴隷である。
そこに出て来た発想かと。
それは階級間の軋轢も軽減させる。
何とも都合のいい言葉である、
これが支配者の道具に重宝されている。
しても持ち出したのは奴隷自身ではなかろう。
支配者の側でありあくまで政治的道具として。
そういうものである。
区別と記したが差別でも同じ、
意味としては同じようなもの、
どちらも違いということです。
でも差別と謂う言葉は人権とコンビになって、
徹底的に貶められた。
今や負のイメージで雁字搦め。
であるが、
それが限定的に使われるならまだ辛抱できる。
でも今やことあるごとに持ち出される。
実に不穏な時代となった。
ところで自由人の国日本では、
そんな言葉は必要ありません。
人間という言葉があれば十分。
そも奴隷もいない階級もない、
中心はあっても頂点がない国、
そんな一君万民の国なのです。
それがお互い様と助け合いで生きている。
なのにである…、
・・・・・
ちなみに何度も言ってきたが、
言葉はレッテルに過ぎないと。
現実の「ものごと」に貼ったレッテルである。
レッテルを貼っても中身は変わりません。
なのに中身ではなくレッテルにこだわる。
そして終にレッテルが現実にすり替わる。
これがリベラルの手口であり、
ときに言葉が凶器となる。
ちなみに「まこと」は誠と記すが、
これは「こと」が「なる」であり、
もとより神の言葉のこと。
これに倣おうとしたのが人の言葉。
ここに科学の精神がある。
ゆえ科学はことがなせる。
正しく神の「ことわり(理)}を見い出せば。
正しく現の実の「こと(事)」を割り出せば。
しても何だろう今の世界の有様は。
始まりの物語りを取り戻そう。
神の物語りを取り戻そう。
體のDNAとは別のもの、
もう一つのDNAを、
心魂の発現たる人の言葉に潜むDNAを。
それを取り戻しましょう。
それを「まこと」という。