ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

いよいよ

2021-06-28 10:33:11 | 日記・エッセイ・コラム
イギリス型とかインド型とかが入ってきて、
よく知らないが感染者が増えていたようだ。
ニュースはそればかりでウンザリ。
当方軽く引き籠り中であり、
そのような実感はない。
私の周りでは感染者は出てないし。
世間ではそういうことらしい。
今もってだが。
・・・・・
その間ずっと気になっていた。
オリンピックの開催~である。
中止すべきだとの声が大きかった。
てかメディアがそういう声ばかり拾っていた。
彼らのアンケートでもそれが多数だと。
ちょっと信用できないが。
ともかくそのように誘導していた、
ことは明らか。
それにしても、
開催されたら困ることでもあるのか。
あるのです。
日本が評価されるのが嫌なのだ。
特に前回のように大成功したら。
まあ普通にやれば必ず成功する。
だからか為に懸命に叫んでいた。
でももう止められない。
さすがに、ここまでくればそんな声も消えた。
ちょっと分からないのが宮内庁の発表である。
天皇陛下が懸念しておられるとか。
?だが、国民への激励だすれば有難いことだ。
そう受け取っておこう。
ともかく、
後は開催を待つばかり。
いよいよである。
・・・・・
分からないのが今度のコロナちゃん。
インフルエンザの一種で基本的にそれらと変わらない。
とか言われていた。
それにしては不可解なことが多い。
それならば暑くなればともかく収束する。
次寒くなればまた流行ることがあっても。
でも収束しないのだ。
夏には少し治まりかけたが。
不可解。
政府の水際対策が終始ゆるゆる、
危機感が感じられない。
何か事情があるのか、
それとも危機感を持つまでもないのか。
過去のサーズやマーズの時とは大違い。
それにしては怖さを煽る。
不可解。
当初は治療薬もいろいろ試され有効なのがあるとか。
アビガンとかイベルメクチンとか。
次にワクチンが登場する。
ワクチンが登場すればワクチン一色。
治療薬はどこかに消えてしまった。
今もってである。
不可解。
最初はその有効性が問われた。
治験も十分ではない。
それにその副作用も。
でも今はワクチンさえ打てば何とかなると。
余りの言いように私は疑う。
有効かどうかは横に置いて、
ともかく打たせたいのかと。
不可解。
それでも直ちに悪影響はなさそうだ。
それにしても将来的な副作用は不明。
だから私は言う。
高齢者は打ってもいい。
どちらにしても先が知れてるから。
若い人には打つなと。
長い目で見た副作用が心配だし、
特に小さい子供には。
彼らは未来の命です。
それに感染しても症状が出ないとか。
風邪なら引いていないのと同じ。
敢えてリスクを取る必要はない。
それなのに。
不可解。
ここにきてワクチンを打たないと、
行動を制限するとか。
最初はあからさまでなくとも、
そのうち売ることも買うこともできなくなるかも。
そうなれば人権蹂躙。
普段人権人権と言う者こそ、
そういう時には平気で人権を蹂躙する。
そこは不可解ではない。
当然そうなる。
私にもワクチンの予約券が来た。
大事の仕舞っている。
大変大変大事なものなので、
机の奥深くにしまっている。
・・・・・
このオリンピック催行は、
まったくの無傷無事とはいかないまでも、
大過なく終了してほしい。
なにより選手のご活躍ご健闘を祈ります。
そこには多くのドラマが生まれましょう。
その中で、
悲喜こもごもあるでしょうが、
勝者には栄光を、
そうでない者にも栄光を、
共に旭日のごとき栄光を。
ということで、

ところで

2021-06-21 08:43:31 | 日記・エッセイ・コラム
人間は言葉を持ってしまった。
言葉は私と世界の間に線を引いた。
ときに世界は私から離れた。
楽園からの追放である。
ゆえにもがき苦しむ。
そして神を知った。
でも分からないことがある。
なぜ言葉を持ってしまったのか。
これは苦しみでしかない。
なのに理由が分からない。
聖書には理由が記されている。
まあそういうことにしたのだ。
でも筋は通っている。
もの凄く。
・・・・・
ところで、
神を知ることと我に問うことは、
どちらが先なのだろうか。
ほぼ同時だろう。
というより区別などなかったのかも。
後で分けたのかも知れない。
さりながら、
意識としては神を知る方が先だと。
勝手ながらそう思っている。
神話が先にあると。
我に問うとは今でいう哲学のこと。
神話と哲学は別物ではない。
当初は同じものか。
この違いは神道と仏教の違いに近しい。
日本は神仏習合と言われている。
それらは日本で出会って習合したと。
一般にはそう言われている。
でも私は少し違う。
そうとも言えるが、
そうではなく、
神仏は初めから習合していたと。
日本人はなぜかそれを察知した。
そして意識的に習合させた。
そう思っている。
ちなみに、
欧米の基底にあるギリシャ・ローマも同様。
ときに多神教でありながら、
ソクラテスに代表されるような哲学があった。
それらは別物ではないのかも。
表現は違っても世界を問うているのは同じ。
問わずにはいられない。
そこは全き同じなのだ。
・・・・・
言葉を持ち初めた頃の人間は、
その初々しい魂で存在のすべてに神を見た。
すべては神の子であり神的な存在であると。
人の子は人であり、犬の子は犬である。
神の子が神であるのはまた当然のこと。
だから我に問うは神に問う、に同じ。
神話と哲学は繋がっている。
だからです、
トインビーが言った、
「神話を忘れた民族は滅ぶ」は
「哲学を失った民族は滅ぶ」と
同じだろうと。
哲学の話にいちいち神を持ち出す必要はないが、
神を追い払えば我を見失う。
後には干からびた言葉だけ。
聖書によれば、
神の言葉は真理であり現実であると。
人の言葉はそれに寄り添って脳内に付けた印導である。
それは真理でも現実でもない。
それらを指し示すだけ。
でもともかく寄り添っていれば「実」である。
実そのものでなくともです。
ここに毒が入る。
実そのものになることはないのに、
それを実だと言う。
それを「嘘」という。
存在するものはすべて神的なのだが、
それを越えて自ら神に成ろうとする。
傲慢の極みである。
・・・・・
今世界は混乱している。
とはいえ、
今に始まったことではない、
これはずっと前からだろう。
とはその通りだが、
ここにきて誰の目にもハッキリしてきた。
その因は言わずもがな、
言葉にある。
人間の混乱のすべては言葉にある。
聖書はそれゆえ最初にそれを言っている。
そしてそれゆえ厳しく戒めている。
だがそれを熟知している者がいる。
それを利用して世界を支配しようとする。
彼らは報道・教育・学問など言葉を扱う生業を押さえ、
それらの世界を牛耳っている。
だからのこの混乱である。
いみじくもイエスは弟子たちに言った。
「世の終わりにはどんな前兆がありますか」、
と問われて。
私の名を名乗る多くの者があらわれる、
それゆえか争いや天変地異がおこる、
さらに偽預言者も多数あらわれる、
などなど。
天変地異はともかく言葉が問題なのだ。
嘘がはびこりそれに惑わされると。
実から離れた言葉が暴走するのだ。
まさに今のこと。

名乗り

2021-06-14 09:57:21 | 日記・エッセイ・コラム
聖書が言ってるように、
言葉が神そのものだとしても、
それは神の言葉である。
それを脳内に写し「しるし」として留めたのが、
人の言葉である。
しるしとは念であり、
つまりは概念である。
ところが言葉には特殊なものがある。
概念から外れるものである。
それを固有名詞という。
今や空前のペットブームだが、
彼らには固有の名前を付ける。
さすれば猫は猫ではなく、〇〇~ちゃんに変貌する。
もはや我が子となるのだ。
・・・・・
思えば、
名前は自分では付けない。
親に付けてもらっている。
昔の日本人もそこは同じだが、
大きくなってからは自分で付けることもある。
それは例外的だが、
名前を変えることは往々にあった。
歴史上では豊臣秀吉がそうである。
でもその命名は多くは権威ある人から頂く。
そういうものである。
だからである。
神に名前は付けられない。
聖書には神が自分の名を名乗ったことがある。
厳密にはそう言えるか微妙だが。
それは旧約聖書の出エジプト記にある。
モーセが荒野を彷徨っているとき神に会合する。
そのとき神から言葉を預かる。
その言葉が神の言葉である証として、
神に名前を問うた。
ときに神は答えた。
「Iam 」と。
日本語では「私は在る」である。
文語訳では「私は在りて在るもの」である。
ではどこに在るのか。
それはすべてである。
場所も問わず時も問わず。
文字通りすべてにである。
・・・・・
一神教がどうしても馴染めない。
なぜなら神に名前を付けたから。
人の分際で人がである。
そのときから彼の宗教では、
神は「在るもの」ではなくなった。
それに気付かない。
神の手の中に在る人間なのに、
人の手の中に神を置いたのだ。
人間が神になったのか。
そこに混乱の因がある。
神が揉めるのではない。
人間が揉めるのだ。
ところで日本はどうだろう。
日本は多神教である。
八百万の神がいてそれぞれに名前を付けている。
てか余りに多くて一々名前は付けられない。
決定的に違うのは「神」という言葉だ。
八百万と雖もすべては皆「神」である。
神とは名前ではない。
これは概念である。
ここに私の不思議がある。
私は学者でもなく宗教家でもないから、
知識的には大したことはない。
私の知見からすれば、
一神教の世界では神という概念がないのかと。
固有名詞(名前)しかないのかと。
そこが分からない。
本当に…。
一般名詞の神があれば、
神はすべてそこに収斂される。
それならそこまで争う必要がないだろう。
ただ好み(好き嫌い)があるだけ。
棲み分けができるのだ。
・・・・・
だからか欧米では、
ゴッドと言わずにグレイトサムシングとか言う人もいる。
一般名詞にしようとしているのか。
そのようにも見える。
何はともあれ、
その辺のことはよく分らない。
それにである、
欧米はギリシャ・ローマが基底にあって、
元は多神教であった。
これは事実です。
ただここでも私は知らない。
そこにも神という概念はなかったのか。
それぞれの神名があっただけなのかと。
よく分からない。
まぁいい。
日本は普通の国である。
日本人にとっては。
でも神の在り方が世界と違うとすれば、
日本の普通は、
世界では普通ではなく、
特別なものとなる。
実のところ、
ここだけの話、
大きな声では言えないが、
私は特別だと想っている。

神を知る

2021-06-07 10:33:07 | 日記・エッセイ・コラム
念とは「今の心」と記すが、
脳内に眼前の世界を写して、
そこに身体が捉えた「今の様」を、
印(しるし)として留めるもので、
それが以降の導(しるべ)となる。
他の動物はこれを持たない。
だから身体(五感)で記憶するのみ。
脳は重要な働きをするが、
脳も身体の一部に如かず。
人間も同様で身体での記憶が根っこにある。
普段の行動のほとんどはそれである。
だが印導を持ってしまった。
言葉を持ってしまったのだ。
だからそれに頼る。
印導を蓄えたその脳に頼る。
ときに脳は身体から切り離され一人歩きする。
つまり考えるのである。
これが人間の力である。
これは強い力となるが、
同時に落とし穴になる。
・・・・・
実を念として脳に刻まれたのを、
印導(言葉)と表現しているが、
それは現実の後追いでしかない。
動物とは因果なもので、
生きる為には自ら動かなければならない。
為には字義の通り動機が必要なのだ。
それは今の心即ち念が基となるが、
他の動物はそれを身体に記憶する。
その記憶から動機が生まれる。
それを本能と言う。
人間にも勿論それがある。
日常生活の無意識の行動は多くはそれだろうと。
それでも印導とは裏表でその区別は付きにくい。
それほどに脳(印導)が勝っているのだ。
完全な本能は反射神経だけかも知れない。
まあよく分らないが。
なお、
動くとは場所だけではない、
未来へ向かうことでもある。
これが問題なのだ。
他の動物はその念が今に重きを置き、
それを身体全体で感得しているから、
己と世界に一体感がある。
だから今があるだけです。
ただし過去と未来を包含した野太い今だが
だからそこに大きな迷いはない。
人間はそうはいかない。
印導とはつまりは世界に線を引くこと。
特に己と世界の間に。
次に「今」にも線を引く。
現在・過去・未来と。
そうなれば未来に動く動物となり益々戸惑う。
未来はときに不確定なもの。
線を引いてそれが現われた。
だからもがくしかない。
それに一つだけ決まっている未来がある。
それは元いた場所(あの世)に必ず帰ること。
それがまた不安の種に。
・・・・・
もがく心魂は鎮めねばならない。
それには、
ひとつ、不確定な未来を敢えて定めること、
ひとつ、元いた場所を取あえず定めること、
それらが必要なのだ。
さりながらできないのです、人間には。
幾ら印導を重ねても、それは現実の後追い。
重ねれば重ねるほどもがくしかない。
だからお釈迦様は捨てた。
印導は横に置いたのです。
そして専ら修行に励んだ。
印導に頼らないとは脳内に線を引かないこと。
それを徹底すれば全体が一つになる。
己自身も含めて。
ときに世界は一つで無我の境地なり。
尋常ではない。
普通の人にはできない。
どうしても印導に頼る。
そして想う。
未来は必ず過去になる、
だから決まっているとも言える。
それに元いた場所も在るのは確かです。
そこから来たのだから。
ゆえにである、
人間には不明であっても、
世界は初めから決まっていると、
だから決めている力があると、
そんな大いなる力があると,
そしてその力を想い、
そしてその力に祈り、
そして心魂を鎮める。
言葉を持つことと神を知ることは、
そのときから切り離せなくなった。
それは大古の昔である。
・・・・・
日本は神国だと言われる。
日本だけではない、
言葉を持った人間にとって、
神を知った人間にとって、
それは皆同じ。
だから神話がある。
だから始まりの物語がある。
歴史と科学の根底にはこれがある。
それを知ろう。
あのイギリスの歴史家トインビーは言った。
「神話を忘れた民族は必ず滅ぶ」、
この言葉は私の確信とも符合する。
ちなみに、
神を知るとは宗教ではないと。
無限世界の存在への共振です。
念の為。