ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

はやぶさ

2019-12-30 08:43:06 | 日記・エッセイ・コラム
今まさに宇宙を飛んでいる。
日本の小惑星探査機「はやぶさ」のことです。
現下は二代目(Ⅱ)になる。
「りゅうぐう」と命名された小惑星に行き、
そこの砂礫を採取して、
今地球への帰還の途に着いている。
無事の帰還を願う。
・・・・・
なぜ(こんなにも長期間)飛べるのか。
その原動力(エネルギー)は何なのか。
科学に弱い私だが、聞く所によると電気であるようだ。
と言っても直接電気が推進力になるのではない。
キセノンというガスを噴射して飛ぶのです。
そのガスを噴射するのに電気が使われる。
だから原動力は電気なのです。
確かに飛ぶ力はガスの噴射なのですが、
為に各種機器を制動・制御しなければならず、
為に通信が必要になる。
それらすべては電気の力である。
ではその電気は一体どこにあるのか。
それは宇宙空間にあるのです。
勿論電気としてあるのではない。
そこにあるのは光です。
太陽の光があるのです。
それを電気に換えている。
はやぶさの模型を見れば一目瞭然、
ソーラーパネルが付いている。
・・・・・
宇宙空間は何もない真空である、と言われてきた。
だが実際はそうではないのです。
そこには光が満ちている。
目には透明で何もないように見えても、
そこには光が満ちている。
それを知らねば。
見えるとは光が目に入ることです。
普通は物に反射した光です。
太陽の光が直接目に入れば目が壊れるから。
しかして物を認識している。
ところで光には目に見えないものもある。
紫外線や赤外線です。
それに有視光であっても、
目の前を横切っているだけなら、
それも目には見えない。
つまりたとえ見えなくとも、
我々の回りには光が満ちているのです。
それを知らねば。
宇宙空間においてもしかり。
それに太陽系では太陽光が主たる光ですが、
他の惑星の光も勿論ある。
だから夜の空には満天の星の輝きが見える。
人は目に見えるものを光と命名しているが、
一般的には宇宙線と言うべきか。
目に見えようが見えまいが、
宇宙空間には宇宙線という光が充満しているのだ。
だから「はやぶさ」は飛ぶ。
・・・・・
まことに深甚なる言葉です。
四文字の漢字表現なのだが。
お釈迦様が言ったという「色即是空」である。
色とは光です。
色(光・宇宙線)すなわち、これ空(宇宙空間)である。
まことに真理である。
まことに現実である。
この世界が光に満ちていると喝破していたのか。
畏るべし、お釈迦様。
聖書(旧約)は言う、創世記の冒頭で…。
「はじめに神は天と地を創造された」
「神は光あれと言われた、すると光があった」
この第一日目の後も神の言葉が続く、第六日目まで。
そして第七日目に休息された、と。
「天と地」とは宇宙です。
宇宙そのものです。
そしてそこには光があると。
神が創造された光が。
しかして私は思う。
仏も神も同じことを謂っていると。
究極の真理を示す。
まことに畏るべし。

にているもの

2019-12-23 15:11:22 | 日記・エッセイ・コラム
新約聖書と仏典は似ていると思う。
ともに弟子たちが師匠の言行を記録したものである。
少なくとも私はそう理解している。
なぜイエスや釈迦は書物を残さなかったのか。
言葉の限界を知っていたからだ。
人間にとって言葉とは、
現実を切り分け識別し、それを声として伝える、
或いは文字として残しておくもの、
である。
でも言葉は現実ではない。
あくまで現実を示唆するものでしかない。
言葉は手段である。
手段は手段である。
手段に囚われたら現実を見失う。
だから言葉は利用するとしても、
それは仮想でしかないと心得て、
他に方途を求める。
つまり全身全霊で現実(真理)に対峙するのです。
60兆個にも及ぶという細胞のすべてを動員して、
その「気」をもって感得するのです。
一部の器官(脳)だけに頼るのではない。
それが祈りであり悟りである。
そこに智慧がある。
・・・・・
釈迦が生きていた時代に聖書は成っている。
なら釈迦は聖書を知っていたかも知れない。
直接的には知らなくとも、
時代に存する聖書的霊性には触れていたと思う。
勿論インド・チベットの前仏教的・ヒンズー的霊性にも。
しかして、
当時の霊性の中で深く思いを致し、
一念発起して出家し、
種々の修行を行ない、
ときに菩提樹の下で悟りを開いた、
と謂う。
それを自分一人のものとせず、他者に伝えようとしたのです。
それが仏教の始まりです。
イエスはユダヤ人ユダヤ教徒である。
ユダヤ教にも宗派があるようですが、
イエスはエッセネ派に属していたと云われる。
エッセネ派には珍しく修行という方があった。
イエスもそれを行なっていただろう。
それが荒野の修行として、マタイの一文に見られる。
でも修行とはどこか仏教的である。
イエスは仏教を知っていたのかも知れない。
その幼少期から青年期にかけては、
新約聖書にはまったく記載がない。
最も多感な成長期である、どこで何をしていたのか。
どこか遠くへ(インド・チベット)行っていたのか。
研究者の中には、そう言う者もいる。
なら話は分かりやすい。
・・・・・
だからこそ、
実のところ、
キリスト教と仏教はどこか似ていると、
勝手ながらそう思っている。
イエスは磔刑に処せられたが、
復活して昇天するとき弟子達に告げた、
何れ人々を救済する為に戻ってくると。
その時(世の終りには)人々は、
雲に乗ってやって来る私を仰ぎ見ると。
所謂イエスの再臨である。
中近東ではよく見られるメシア(救世主)思想である。
仏教はそも自己完結の行法であり、
自らの力で悟りを開くものである。
他人を救うのが目的ではないのだ。
もともとはそうだろうが、いつのことか知らないが、
メシア思想が入ってくる。
メシアという語の音韻が変化してミロクになったと言われるが、
これが仏教でいう弥勒菩薩となり、
56億7千万年後に現れて人々を救済すると。
それに弥陀来迎図というのがある。
臨終に際して救済のため、
阿弥陀如来が雲に乗ってやって来ると。
これらはイエスの再臨とよく似ている。
どこかで交わっているのか。
根底では繋がっているのか。
・・・・・
日本は古来神仏習合である。
土着信仰の神道と伝来宗教の仏教とが習合していると。
でもである。
私にしてみれば
日本に来る前から神仏は習合していた、
のだと…。
この場合の神は神々ではなく、
主イエスではあるが。

荒野の修行

2019-12-16 10:27:56 | 日記・エッセイ・コラム
聖書的霊性について記したが、
それは旧約聖書のことである。
では新約聖書とは違うのか…、
そんなことはない、同じです。
イエス自身がそう述べている。
当時の乱れた信仰を糾弾して、
聖書に帰れと常に訴えていた。
当時は聖書と謂えば旧約です。
新約聖書は元よりありません。
・・・・・
新約聖書は謂わばイエスの言行録で、
それは弟子達によって記されている。
思うに仏教の各種経典類に似ている。
それはさておき、
新約聖書はイエスの生まれた経緯と、
宣教を志した30才頃からのことが、
記されている。
学びの時期すなわち幼年期から青年期のことは、
記されていない。
・・・・・
ところで、
マタイの福音書によれば、
イエスは悪魔の試みを受けるため、
御霊に導かれて荒野に上った、と。
そして、40日40夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいてきて言った。
「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」
イエスは答えて言われた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、
 神の口から出る一つひとつの言葉による』
 と書いてある」と、
その後も試みが続くのですが、
省略。
イエスは書いてあると言ったが、
それは聖書(創世記)を指している。
私の解釈は、
パンとは人の為したものの総称で、
パンそのものもあるのでしょうが、
その他のすべてものと思うのです。
衣食住や金銀財宝などを含め。
さりながら真の価値はそれではない。
真の価値はこの星(地球)が命あふれる星だと謂うことです。
それが基なのです。
そしてその基は神の創造による。
神は初めに天と地を創った。
これは「もの」です。
そのあとで光などを創った。
神の口から出る言葉により。
これは「こと」です。
ここに森羅万象が成る。
そして存在(永遠の今)があるのです。
それがすべてです。
・・・・・
よく言われることだが、
イエスの生涯は聖書預言(当然に旧約)の成就であると。
何よりイエス自身がそう語っている。
とかなんとか、
あれやこれや、
分かったことのように記してるが、
もとより聖書を極めた者ではない。
少々聞きかじっただけである。
でも日本人として思うのです。
その霊性がとても似ていると。
唯一神と多神の違いはあるが。
そしてこれもいつものことで、
そも全体と個別は対立しない、
同じものの言分けでしかない、
と…。

ねじれのはざま

2019-12-09 15:10:58 | 日記・エッセイ・コラム
韓国は今(も昔も)捻じれのはざまで苦しんでいる。
朝鮮は随分前から中華思想に染まっている。
そして自らを小中華と称していた。
中華思想とは自分が中心で、その周りを上下関係で律する。
すなわち華夷秩序である。
中心は勿論シナである。
古来中原を支配する者は圧倒的に強い。
さからって滅ぶか、なびいて生きるか。
朝鮮は地の利なく、屈服の道を選んだ。
それも小判鮫のように密着して。
さすればシナ以外には上位に立てるのだ。
それは単なる独りよがりの思い込みだが、
唯一の救いであり、よって立つ柱となる。
それを小中華と謂う。
・・・・・
だからシナには平身低頭である。
何を言われてもご無理ごもっともなのだ。
外に対してそうなら、内もまたそうなる。
結果まことに鬱憤のたまる社会となった。
でもどうしようもない。
これが恨の原因である。
考えれば当然であるが、
その大元はシナにある。
だから本当はシナが大嫌いなのだ。
でもシナには逆らえない。
本家なのだから。
これが半島の歴史です。
しかしてである。
日本は彼らの華夷秩序では下位にある。
あくまで自分の方が上なのだ。
それは江戸時代からもずっと。
彼の国の所謂朝鮮通信使の記録からもそれが覗える。
しかるに、その日本に併合されたのです。
これほど癪に障ることはない。
でも当時は目を見張るばかりに生活が向上した。
特に底辺で生活していた多くの国民にとっては。
それに日本の政策もあり中華の呪縛から離れた。
だからそれなりに満足していたのだ。
それが日本の敗戦で独立することになった。
これが悪夢の始まりである。
小中華が復活してしまった。
そうしなければ国の基が作れなかったのだ。
日本を貶めることで、己の上位を確認する。
それゆえ何でもかんでも日本が悪いとした。
でも本当は日本が嫌いではない。
むしろ好きだと思うのです。
これが捻じれです。
今韓国は苦しんでいる。
このねじれのはざまで。
・・・・・
追伸。
中華思想に染まれば謝罪ができなくなる。
謝罪すれば自分の上位性がくずれるのだ。
立場が逆転してしまう。
だから絶対謝罪しない。
自分に非があってもだ。
逆は大いにある。
ゆえに日本には常に謝罪を求める。
同意の上で併合したのに、侵略したと言ってきて、
千年の恨みとかで、どこまでも謝罪を求めてくる。
慰安婦の件もそうだ。
認めて謝ってくれれば、それで終わりにすると…。
止むを得ず、取り敢えず、一度謝罪してしまうと、
認めたことになり、止むことなき謝罪要求となる。
何より、していないことをしたことにされるのだ。
これは父祖に唾する最悪の行為である。
きっと自戒すべし。
韓国に阿る人たちがよく言う。
「すまん」の一言があれば、それで済むと。
済んだためしがない。
それにである、
彼らの目当てはお金だから、お金で解決すればいいと。
これも大嘘である。
お金を渡してしまえば、それは謝ったことになる。
知るべきである。
本当の目的はお金ではないと。
謝罪をこそ求めているのだと。
お金は使えば終わりだが、謝罪は永遠に続くのです。
それが小中華の霊性維持(自己確認)の仕掛けです。
お金は付録に過ぎない。
そんな手に乗ってはいけない。
胆に銘ずべし。
うん!

あまりのあまり

2019-12-02 11:19:03 | 日記・エッセイ・コラム
余りにあまり、の失言です。
甘利にあまり、が実際です。
あまりに甘利、が情けない。
テレビ番組でのことらしいが、某甘利さんが失言したようだ。
後で釈明の会見を開いたとのこと。
どうもよく分かっていないようだ。
そんな人は政治家にも学者にも大勢いる。
一般国民はなおさらだ。
暗澹たる思いです。
・・・・・
日本は男系男子の天皇がこれを治める。
これは最高神たる天照大神(女神)の神勅であり、
それを体現した初代・神武天皇から連綿と続いている。
それが国柄であり、国体である。
事後に整えた法律はその下にあるのです。
順序を間違えてはいけない。
何より男系・女系の別をまったく理解していない。
男系とは男性の血(遺伝子)が途切れることなく続くことです。
女系とは女性の血(遺伝子)が途切れることなく続くことです。
字ずらから見れば当たりまえです。
でもほとんどの人が誤解している。
だから男系では男子が縛られるのです。
女子は自由であります。
皇室女子は皇室から出る自由があるのです。
一般男子と結婚すればだが。
逆に女子は誰でも皇室に入れるし、
皇后にもなれるのです。
勿論女系はその逆です。
そのとき皇室男子は自由です。
一般男子が皇室に入ることもできる。
日本はその始めより男系なのです。
いまさら女系にはできない。
どうしてもと言うなら、この時只今より始めるしかない。
女子の初代天皇をたて、一から始めるより他ない。
そのこと誰も言わない。
分かっていないからだ。
・・・・・
今議論されている女性・女系~は言葉のトリックだ。
彼らの言ってるのは双系のことだろう。
双系なら男子でも女子でもどちらでもいいのです。
その場合は大きな欠点がある。
つまり血が定まらないのです。
二代三代ぐらいまでならともかく、
代を重ねれば重ねるほどに紛れていく。
となれば、どうなるか。
天皇はとどのつまり選挙で選ぶことになる。
それは最早天皇ではない。
アメリカは壮大な選挙という茶番でお茶を濁している。
なお茶番と言うにはそれなりの理由がある。
今ここではそれを述べない。
ただしトランプ大統領の登場は茶番ではない。
アメリカ国民の大いなる意思だと思っている。
シナは天命を受けたという嘘でお茶を濁している。
それが嘘なのは言うまでもないが、
ために暴力も辞さない大喧嘩が必須なのだ。
それを思えば、
血の定めで自ずと決まる、
というのが何と素晴らしいことか。
かくて皇室男子は定めを受け継ぐのである。
その受け継ぐ様を今般見たではないか。
その霊性を、その神聖さを。
馬鹿な議論はもう止めよう。
・・・・・
ちなみに、
皇室典範には継承順位が記されているが、
そこには女性皇族の記載はない。
これまた然りである。
女性天皇はあくまで繋ぎであり、
野球で言えばピンチヒッターである。
試合開始前に出場選手とその打順が示されるが、
ピンチヒッターは示されない。
それはピンチヒッターだからだ。
いつどこで出るか分からない。
出ないかもしれない。
そういうものは、そも示しようがないのだ。
だから現下の皇室典範で差し支えない。
もし必要になれば、
今般の御譲位のように特例法を作ればいい。
それは謂わば監督が代打を告げるのと同じ。
戦後メディアの大嘘、
開かれた皇室をとしつこく言うが、
実際皇室の事は何も知らないのだ、
その本当のことを。
もういい加減にしてほしい。