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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

空気を読む

2025-06-30 08:39:38 | 日記・エッセイ・コラム
空気を読むって言葉がある。
これは日本人がよく言われることである。
それは言葉を使うことなく、無言の内に意思疎通を計る。
それを謂うらしい。
ゆえ海外からは曖昧でよく分からないと。
日本人でもそう言って揶揄する人がいる。
でも思うに、
しなくても済ますことが出来るなら、
する必要がないのは当り前、
それは当然のこと。
してもこの言葉は実に奥がふかい。
これは文化文明の根幹にかかわる。
それになによりこれは言葉である、
人間が人間である由の言葉である。
これは英語ではどう表現するのだろう。
いつものことだが私はそれを知らない。
でも思うのです、
これは実に当を得た表現であると。
その相手を空気と言うこと、
その動きを読むと言うこと、
基より日本語は妙であるが、
この言葉も正にそうである。
まことに、
まことに。
・・・・・
妙のひとつ、空気。
これはその場の空気のこと、酸素や窒素等の気体のこと。
また気とは存在の基底に潜むエネルギーのこととされる。
それは所謂空気だけでなく、
その場に存在するすべての物事の気も含まれる。
ところで物事は神の言葉によって現れる、
これは聖書(創世記)によれば、
それに物事は煎じ詰めれば運動振動波動に帰る、
これは私が勝ってに言っている、
また人の言葉は空気の波動によって伝わる、
とかなんとかと勝手に放題。
妙のひとつ、読む。
だからです、
見るでもなく知るでもなく「読む」である。
それは言葉であるから。
それはその基である神の言葉を読むのです。
だからの「空気を読む」である。
そしてそれが人の言葉にもなる。
ここに妙がある。
得も言われぬ妙がある。

尚ちょっと考えれば分かること。
空気を読むとはすべての生き物がしていること。
これは自ずとそうしているもの。
それは神の創った設計図(DNA)による。
これを私は神の手の中でまんまに生きると。
でも動物の哺乳類には少し外れるところが
それはまあ文化とも言える。
それは遊びの中で学ぶもの。
ヒトもそこまでは他の哺乳類とかわらない。
だから空気を読むのは当然。
ところがその中で人は言葉を持ったのです。
してもこれはDNAの意図ではなかったと。
すべからく後天的なものと。
ここでもやはり遊びの中での学びが必要且重要。
ときに人に育てられなければそれはダメなのだ。
今の学問的知見は知らないがそう言うことかと。
以前言った狼少年の例がそれである。
そこでであるが、
人も空気を読むがそれがときに全身全霊で徹底的に。
60兆個も有ると謂われる細胞のすべてを動員して。
ときに人は言葉を得たのである。
ここに一番のミステリーがある。
これが徹底的に分からないのだ。
まあ言葉ではどうとでも言える。
おもうに言葉は言葉を語らない。
考えても無駄でしょう。
だから私は言うのです、
ときに人は神に出会っていると。
往古の人もそれを想う。
そして語られたものそれが神話。
それが人間の始まりである。
・・・・・
ヒトは動物である。
ヒトは類としては哺乳類である。
特徴、自ら動くものである。
特徴、ゆえ意を持っている。
動く向きは自分で決めるのです。
為に場の空気を読む必要がある。
されど我もまた場の空気の一つ。
我を持ってるがそれを場から切り離さず、
これを当り前のように振る舞う。
でもヒトは意識を持ってしまう。
てかそのイをシキしたのである。
ときに我が表に出てきて露わに。
ここから人間の歴史がはじまる。
言葉は一度持てばもう離れない。
言葉と生きて行くしかないのだ。
でもであるこれは覚えておこう。
我は人間である前に動物である。
何より場に生きているのである。
神の事の場にである。
ゆえ空気は必然的に読んでいる。
でもそこに人の事の場を重ねる。
そして見えなくする。
日本は世界から見れば異質だと。
一寸昔はその様に言われていた。
でももうお分りでしょう。
日本が異質なのではない。
世界が異質なのであると。
それが今正に顕著に現れている。
それを知ろう。
さすれば、
そのとき未来は開かれる。
うん!

魔女を狩ったはなし

2025-06-23 08:35:47 | 日記・エッセイ・コラム
マリーは本当はどんな人だったのだろう。
てかマリーアントワネットのことである。
本人は勿論その生い立ちなども知らない。
ときにギロチンに架けられたということしか。
それでも一つだけ知っていることがある。
それはあの有名な話である。
民衆が飢えで苦しんでるときに言ったという、
パンがなければケーキを食えばいいのにとか。
これは本当か?体のいい作り話ではないのか。
只の世間知らずのお嬢様のようだが。
てか本当は心優しいお姫様だったか。
事実は分からない、でも事実はいつも複雑で怪奇。
それを語るには文学的素養が必要になる。
知っておこう、
論理はそこにある多くの模様を消してしまう、
てかそういう作業のことである。
科学の様に現実での検証が必要ならそれは素晴らしい。
でなければそれはいつもプロパガンダになる。
これがときに人を暴走させる。
マリーもその被害者か。
それにもう一人、ジャンヌダルクがいる。
彼女のこともほとんど知らない。
でも有名だから少しは。
彼女は民衆の為に先頭に立って戦い終に勝利を得る。
ゆえに民衆の英雄になった。
なのにその顛末は知らないが処刑された、
それも火炙りの刑で、まさに魔女として。
そして私は思う、
リベラルの始まりはこの魔女狩りからか、
そしてこれが更なる荒廃を招くことにも、
てかとかてか、
・・・・・
上のことに限らず、
ヨーロッパ中世は魔女狩りが横行していたようだ。
そも宗教争いが頻発し、ときに戦争になることも。
ゆえにそれを理不尽と思う心も乏しかったか。
てか旧大陸はいつからか奪い合いの連鎖が起きており、
そこでの帝国は皆奴隷社会となった。
ときのヨーロッパの社会状況は知らない。
少なくともその名残・残滓はあったろう。
思うにこれは今のヨーロッパも同じかも。
未だに歴とした階級社会なのだから。
しても中世から近代になって所謂魔女狩りは見なくなった。
思えばそれは理不尽なことだと。
今や多くの人がそう思っている。
てか振り返ればである。
でも今を生きる人は往々にして今が見えない。
これが問題なのである。
今自分が魔女狩りをしていても、
それがそうだと分からない。
ネットにもその兆候がある。
てか魔女狩りで中世が終わったとすれば、
近代はそれを克服したのか。
私はまったく変わってないと思っている。
目に見える形ではなくなったが。
形をかえた魔女狩りは今もまだ。
てか近代になっても行なわれていたもの、
あの奴隷狩りこれは魔女狩りに匹敵する。
名称と中身に違いはあるが実態は同じだろう。
これも今はなくなっている。
ではすべてなくなったのか。
てか先に言ったが未だなくなっていない。
ネットにもその兆候があると…。
メディアはそれどころではない。
てかその向きが変わっただけと。
それは直接から間接にです。
それは「武」の力から「知」の力に。
つまり武器が言葉になったのである。
と言っても、
武の力はその裏に言葉あり、
知の力はその裏に武力あり、
そこは物事と同じでそも一体のもの、
表と裏が入れ替わっただけ。
でもです、
むしろより陰湿で厄介になった。
これが今の世界であり、
ゆえ嘘と狂気に満ちている、
とずっと言っているのです。
・・・・・
人の事の場をつくる人の言葉は、
神の事の場の理をとらえるもの、
それが人の言葉に力をあたえる。
鍵は神の事の場の理(ことわり)にある。
言葉がそれをすっ飛ばして一人歩きするなら、
それはもう本来の言葉とは言えない。
それをプロパガンダという。
してもプロパガンダにも一理はある。
それが現実を捉えている限りである。
でも絶対的に注意が必要なのだ。
なぜならそれは初めに結論ありきで、
往々にして現実を無視して暴走する。
それをさせずに、
それが人々の一瞬の気を捉えて高めるものなら、
それはそれで面白い。
これはプロパガンダとは言わず、
キャッチコピーとでも言うのか。
最後に諄い様だがもう一度てか何度でも、
それは、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
一つひとつは只の言葉でありそこに問題はない。
でも初めに結論ありきで暴走すれば是非もなし。
それは大嘘のプロパガンダに堕する。
てかいつもの堂々巡りで、
脳が沸々騰々、
ハイ!

魔女のいるところ

2025-06-16 09:16:24 | 日記・エッセイ・コラム
最近のアニメには魔法使いがよく出てくる。
それも多くは女である。         
なぜか所謂魔女なのだ。 
男の魔法使いもいるが、主役はいつも女である。
なぜかそういうことに。             
でもこれは納得できる。
ヒトは己の手だけでは何も作れない。
それにこれは女だけが為せる技だが、
そも最も大事なこと命を作ることも。
この大事もまさにそう、
てか大事だからこそ尚のことか。
思えばヒトの技だけで作れるものは何一つない。
すべて神の事の場の理(ことわり)をもって為すのみ。
あらためて言うことではないが。
でもこれを想おう。
してもなぜ魔女なのか。
命にとって一番の大事は命。
それを託されたのが女なのです。
それが神の事の場のことわりの意思。
してもそのイメージはこれまでとは違う。
それはお婆さんではなく今や少女である。
あのフリーレンやフェルンのような。
思えばジブリのアニメもその様、
なぜか少女が多いのである。
多くは魔女ではないが。
てか私の心もまた、
その様にある。
海恋し潮の遠鳴り数えては乙女となりし父母の家、
この歌が心魂にしみる。
・・・・・
思えば、人間は魔法使いである。
それは神の事の場の理の一端を自覚的に捉えたがゆえ。
それが魔法の種であり、それが正に言葉である。
しても根本的に重要なこと、
子を生み子を育て世に出し、
命の世をさらに次に繋げる。
てかこれは人だけではなく、
他の生物もそれをしている。
ここには言葉は関わらない。
命にとってこの最重要事はすべて神の手の中に。
これを為すは女である。
女こそ生粋の魔法使いなのです。
だからの魔女であると。
まあ勝手に思っている。
でもなおその奥がある、命の種はなおその奥に。
それは植物に答がある。
植物こそ地球(無機物)から命を取り出す。
それを光合成と謂っている。
天地創造の物語の初めに出てくるもの、大地と水と光。
山川草木のその山川が光と交わり草木をはぐくむ。
ところ(森)に魔女はいる。
まあそういうことです。
ゆえ思うのです、より神に近いもの、それは女である。
最初の命に性はなく皆ひとり神。
でも有性生殖になるは雄雌に順序はなく同時且つ一対。
日本神話ではそのようになっている。
てかもし順序があるならそれは雌か。
しても雌雄が出来た理由はあきらか、
それは命の永遠性を担保する為かと、
状況に応じての生き残りを画すもの。
ここでの大事は違いである。
皆同じではいけないのです。
思えば男と女は違うのです。
これは決定的に違うのです。
この違いこそが大事なのである。
ここのところお間違えなきよう。
ちなみにではなぜLGBT~があるのか。
それは分からない?
でも神の事の場の仕掛けなら受け入れるより仕方なし。
これに限らずヒトに生れるかどうかも含め。
てか人間以外はこれを悩まない。
言葉を持たないから。
もっぱらその現実を生きるのみ。
問題はすべて言葉の中にひそむ。
そのことを知ろう。
今私は怒っている。
男女共同参画は実に当り前のことで言う必要もなし。
なのになぜかそれを言い、同時に夫婦別姓とは何事。
夫婦とは一体のもの、その証しが子供です。
神の事の場も人の事の場もそこは同じかと。
そこに命の現実があり、想いへの幻想も又。
そしてそれは命に違いを求めている。
現下のような嘘と狂気に満ちた世界に誰がした。
世界は一つや皆同じは、概念の極致にあるもの、
すべてが繋がっている、ゆえそうとも言えるが、
現実は集合に集合を重ねた超集合の集合の世界、
違いに違いを重ねている世界、
それを想うのです。
・・・・・
どちらかと言えば日本は女性の国か。
男性上位に見えてもそれは見せかけ。
てかこれは女性を守り支える為です。
それは内にあっても又外においても。
ここまでなら世界もかわらなく同じ。
ここから道が分かれる。
社会が大きくなったり別れていったりすれば、
それに備えるが最重要事になる。
それは外からの脅威である。
今なら安全保障とでも。
ここに注力すれば主体が男性になる。
ゆえ社会は男性社会となる。
これは歴史の常道。
だからです、
争いが絶えず残虐非道が日常化する世界では、
男性が上位となり女性はなす術なし。
これが旧大陸の有様であり、
女は男の所有物に。
今あるジェンダーフリー(女性解放)はこの副産物。
そも日本には必要ないもの。
争いのない縄文時代、それ以降もそんなに多くない。
それに残虐非道はほとんどなし。
そこでは男と女は対等であった。
それは神話の時代から現代まで。
てか表題に戻れば、
日本に魔女はいない、かわりに巫女がいる。
神に仕える女性である。
男ではなく神にである。
卑弥呼(日巫女)はときに神になぞられる。
あの女神天照大神にである。
てか神に近い存在だからか。
しても天照大神は元は男神であった、とも言われる。
それが女性にすり替えられたと。
話としては面白くそそられるが、
今はれっきとした女性神である。
私は神に性はないと思うが、
ゆえどちらでもいいのだが、
てか神に近いと言うならやはり女性、
だからこれでいいのだ、
レレレのレ。

荒廃

2025-06-09 08:38:06 | 日記・エッセイ・コラム
荒廃、これが今の世界の状況。
だと思うのですが、
これが日本にいれば今一わかりにくい。
しても日本も結構酷い状況だと思うが。
この状況のあきらかな始まりは「男女共同参画」であり、
それが誰の目にもハッキリしたのが例のLGBT問題であり、
これをさらに進めようとするのが夫婦別姓、
しかして今や荒廃の一歩手前。
それでも日本はなお踏み留まっている。
それは歴史伝統文化の中で営々と生きて来た庶民のお陰。
理論理屈は役には立つが人を養わない。
人を養うのは現場の力現場の働きの力。
ヒトは「人の事の場」を作るとは雖も、
それは「神の事の場」あってこそです。
人は現実に生きているのです。
現実なしでは生きられません。
思えば戦後は為に世界は荒廃の中にあった。
一人アメリカだけは空が青かった。
それが時を懸けて世界にも青空が広がった。
そこに種がばら撒かれた。
荒廃の種である。
・・・・・
今次の世界の大元は欧米の文化文明である。
その欧米がもっとも酷い状況になっている。
その原因は欧米文明にそも内包されていた。
それはその言葉であり、その在り方である。
それを世間はリベラルという。
てかここが分からないのだが、
それに欧米文明がなぜ気付かない、
それとも誰かが意図してそのようにしてるのか、
どうにも分からない。
もうひとつ分からないことが。
それは日本のことである。
そも文明的には十分わかっていると思うのだが。
なのにこの様である。
庶民は心底では分かってると思う。
でも見た目では流されてるとしか。
てか底流はそうでないと信じたい。
それにしてもそれゆえに、
いま世界は欧米を中心に日本が求められている。
上でも言ったが欧米は言葉上位で、
どちらかと言えば物作りは不得手。
ちなみにそれ以上なのが中華世界、
見せかけばかりで実がともなわず。
それに比べて日本は今だ職人の国。
ゆえ日本は技術的には優位を保つ。
やはり物作りにはたけているのだ。
これは「もの」であるが、
それが「こと」でも同じ。
てかむしろその上をいく。
世界では日本のアニメが持て囃されている。
前にも言ったが私もはまっている。
これがポリコレの防波堤になっている。
てか逆に蹴散らしてポリコレも真っ青。
このまま踏ん張ってくれれば。
これも既に言ったが、
日本は言霊が幸はふ波動の国、
ゆえ歌う国・語る国であり、物語りの国である。
ゆえ舞う国・踊る国であり、神楽薫る国である。
それが現下の様な漫画・アニメの国にする。
そしてJポップやアニソン等の歌が満ちる。
これはそも概念だけではできない。
てか概念はむしろそれに蓋をする。
これは全體細胞の気のほとばしり。
それが神の事の場の情動を伝える。
他の生き物がそうしているように。
ここに道がある日本人の道と場が。
それを思うのですが、
また私は思うのです、
底流は底流としても、
それは無意識の流れではあっても、
ときにはそれを敢えて意識しよう、
少しは自覚的に。
・・・・・
欧州にも以前は青空があった。
それが今は見る影もなし。
てか実際は知らない。
漏れ聞くところではです。
都会では夜になれば女は一人で出られない、
てか男でも危険がつきまとう。
思うにそれらは移民が大きく影響している。
してもなぜ移民がそれだけ増えたのか。
すべてはセレブ社会を維持する為。
求めたのは安価な労働力です。
セレブはセレブだけではセレブたり得ない。
セレブだけならセレブも働かねばならなくなる。
彼らには労働力が必要なのです、それも安価な。
ゆえ国民の迷惑を顧みずそれを進めた。
おまけに大きな声では言えないが、
戦争は彼らに大きな利益を与える。
だから好んで戦争をする、てかもとへ戦争をさせる。
そしてこれが更なる難民という移民をもたらす。
そしていよいよ立派な荒廃がなる。
てか分かっていながら日本はなぜ後を追う。
日本には彼らのようなセレブがいないのに。
てか私は移民には断固反対である。
特に労働力不足のための移民には。
最高神である天照大神までも働く国である。
労働は必要悪でなくむしろ生きがいである。
不足なら国民の間でやりくりをすればいい。
それだけのことです。
にしても今やメディアはまったく機能せず、
もっぱらプロパガンダばかり。
政治家は、これが一番分からない、なぜか一切機能せず。
官僚はやりたい放題でいざとなれば頬被り。
ここにいたって警察も裁判所も信用に疑問符が。
よく分からないが深田が燃えているし。
でもまあこれも前に言ったが、
神の事の場は何があってもびくともしない。
自然は必ず自然にかえる。
そこはあわてずボチボチ、と。
うん!

電気自動車

2025-06-02 06:31:37 | 日記・エッセイ・コラム
この世界は「ものごと」で出来ている。
しかしてすべては一体で繋がっている。
それはそも分けられない。
でも均質ではなくすこぶる多様であり、
そのうえ留まることなく変化している。
命はその中で生まれそれを捉えて在る。
人はそこにある違いに目を付ける。
人はそこにある違いに印を付ける。
そして分別する、敢えて分別する。
違いと雖もその境は実に曖昧だが。
その違いの大きな枠の一つに、
「もの」と「こと」がある。
私はずっとそれを言ってきた。
これは私の思いの柱の一つである。
うん!
・・・・・
私は以前から徹底的に糾弾していることがある。
例のアレ、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
である。
てか電気自動車は後で付け加えたもの、
どうにも胡散臭く思ってしまって、
地球温暖化脱炭素の付録だが。
これが今回の主題である。
それはこれが分かり易く目の前にあるから。
てかその理非が捉え易いのだ。
昨今それが表に現われている。
私が言っていたこと。
電気とはエネルギーでありすぐれて「こと」である。
これは本来貯められない。
これは流れるもので変化を常在とする。
比べて石油はすぐれて「もの」である。
これは長く留まるもので、
勿論変化はするが短期的には無きに等しい。
これに条件を与えて急激に変化させる、
それがエネルギーとなり力を発揮する。
これを為すがエンジンである。
対して電気自動車の場合はそれはモーター。
これは力を発する装置ではあっても、
その素になるエネルギーは作らない、
それは外から供給されねばならない、
そこが大きな違いである。
だからそれをどうするか。
私は電池を余り信用していない。
例えば乾電池、
これはすこぶる便利なものだが、
これ実は発電機だと思っている。
常時ゆっくり発電放電していて、
通電すればより大きく発電する、
これを利用しその力を活用する。
ゆえ電池とは言葉の綾であると。
例えば蓄電池、
これは電気を行き場なき所に閉じ込める、
閉じ込めると雖もそれはそも流れるもの、
大量且長期間は難しくしかも漏れやすい。
ハイブリッドのように自前で電気を作り、
少しの時間だけ置けるようにしておいて、
それを順次使用するそれなら素晴らしい。
てか今や自動車は制御に電気が必要です、
そも随分前からハイブリッドなのである、
その電気を動力にも利用するというなら、
これは実に優れモノである。
てか自前で電気を作るなら、
電気自動車にそも疑問なし。
そうでなければ、
それは蓄電池の問題であり、電気供給方途の問題である。
これが解決できるとは思えない。
繰り返すが、
電気は流れるもの貯めるのは不向き。
それに供給と言ってもそれが難しい、
持ち運びは出来ないのです。
それを流すには電線が必要。
それが集住地なら有効かと。
さならば電車方式のように、
常時流しておいて常時使う、
この方式なら有効であり現に成功してる。
何事もやり方であり適材適所なのである。
てか広大かつ人口希薄なところではこれは不向き。
てかそれゆえ発電機を持つ電車の計画もあるとか。
これなら砂漠でも新幹線が走れそう。
それにもうひとつ問題が、
それは家庭で使う電気のこと、
これは消費に見合う発電量を常に準備する必要が。
それが崩れれば停電ということにも。
あまれば捨てれば良いだけだろうが。
要するに発電を柔軟にせよとのこと。
蓄電はその隙間を埋めるだけ。
まあそういうことです。
・・・・・
世界は「ものごと」でなる。
物事は流れるもの、
それを目の前にし、
ゆえその元を想い今を見て先を想う。
しかしてそれをイしてシキすれば分別がつく。
人はその分別を持った。
その大きな始まりの一つが「もの」と「こと」を分けること。
そしてときに「とき」をもシる。
それがさらに現実を次々とシキしていく。
ここに人間世界がなる。
究極に置いては同じと雖も、
物と事とは別物と分別する。
そんなことで「もの」と「こと」は分別しましょう。
電気自動車はやはりそこが疑問。
てかこれは物だから分かり易い。
てかその前の大元のプロパガンダこれはいけない。
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素、
さらに最近は多様性とカ持続性とか、
ここには嘘と狂気がてんこ盛り。
分別もクソもない。
嗚呼!