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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

ものごと

2025-08-11 08:14:08 | 日記・エッセイ・コラム
以前から折に触れ言っている。
この世界は「もの」と「こと」で出来ていると。
これらは一体のもので実態は「ものごと」だと。
そこで思うことがある。
物だけで事がなければ、
物は色形運動振動波動もなくただあるだけ、
このとき永遠と一瞬は同じものしかもそこに違いはなくすべて同じ。
そしてゆえに部分と全体の区別もなし。
しかして最早「ある」ことも儘ならず。
てかそこに「こと」があれば、
そのとき物は色形を見せそれに運動振動波動も。
ときに「とき」が現れて、
それが違いを見せ始める。
時とはそう言うものです。
すべてはそこから始まる。
あらゆる違いがはじまる。
そこでまた思うのである。
この世界は始まりも終わりもない世界だと。
始まりがあるならその前にあったものは?。
終わりがあるならその後はどうなるのか?。
事はそも初めもなく終わりもなくあるもの。
でもこれではどうにも決まりがつきません。
そこで仮の始まりと終わりを想定する。
これが人の語りの始まりです。
その最初のものが神話である。
・・・・・
分けるが言葉の技である。
為には違いを知る必要が。
ヒトの目の前にある世界(宇宙)はひとつ。
そこには「ものごと」がある。
それを見るのである。
それは動きばかりでなく、前後での色や形の変化も。
てか見てるのは事である、物ではなく事なのである。
物だけで事がなければそれは見えない。
それは多分何もないのと同じ。
てか物がなければ事もないが。
その物事を初めは見えるがままに見ている。
ヒトはそれをイをシキして見るようになる。
これが言葉の始まりとはずっと言ってきた。
言葉はゆえに違いを知るもの、
てか違うと想えて初めてシキする、
ゆえに同じを知るは言葉の技ではない。
そも同じはないのである、同じようなものはあるが。
あるとすれば究極の粒子だろうか。
物と事が完膚なきまで溶け合った。
実として見ることはなく、虚として知るより他ない。
しかして思っている、
ヒトの「ことば」は事の端であり言の葉であり、
そしてそれは事の場とともにある。
だからそれを「ことば」と謂うが、
これ以上の相応しい言い方を私は知らない。
てかこれらは当方のいつもの言葉遊び。
その実態は親父ギャグと屁理屈である。
にしてもこれらのことは日本語でこそ。
ゆえこの日本語の中で生きる日本人は、
知らず知らずにその思いを身に付ける。
文化文明という言葉もこの延長にある。
文が化けるそれが又先への明りとなる。
だから言うです、
日本語は私の様に口に出して言う前に、
既にその言葉の内にそれを抱えている。
面しろくも畏ろしい、
そんな言語なのです。
・・・・・
人間はその言葉に力があるのを知った。
ゆえ場にある根源の力を想うとき、
その力をもまた言葉に擬えた。
ゆえそれを発するものにも名を付けた。
ここに神が登場する。
名とは思えば上位の者が付けて与えるもの。
人が神に名を与えるのは不遜。
これが宗教に妙な影を落とす。
てか神は音読みは「しん」ですがこれを「かみ」と読む。
かみとは上とか天ということかと。
それを漢字で神とあてた。
これは「示して申す」であり言葉という謂いに合致する。
てかこの辺りの字義と読みの整合性を考えれば、
どう考えても漢字は日本の文字としか思えない。
てかこのことはさて置き、
これらを踏まえ思うこと。
聖書もほぼ同じことを言っている。
・旧約聖書創世記・
初めに神は天と地を創造された、
次に光あれと言われたらそこに光があった、
そこから次々と物事が創られていく、
その言葉に依って、

日本語訳の神は一般名詞でありしかもその力を表象している。
・マタイの福音書・
イエスは悪魔の誘惑に答えて言った、
人はパンだけで生きるものではない、
神の口から出る一つひとつの言葉で生きる、

一つひとつとはすべての「こと」に繋がるそれぞれの現象のこと。
・ヨハネの福音書・
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった、

一つひとつの言葉は勿論だが、
そこに通底して潜む力こそが神であると。

日本語はその内に聖書の思想が厳としてある。
ゆえ日本人は聖書の民であると。
てかこれは前から言っているが、
それは旧約聖書創世記の極初め、
新約聖書はその全般に見られる、
てか拾い読みしかしていないが。
・・・・・
そこでまた思うのである。
日本人が聖書の民と雖も、
それは旧約聖書の極一部、
罪を背負っての楽園追放からは最早ほとんど関わりなし。
聖書はユダヤ人が伝えたもの。
そのユダヤ人と日本人は同祖と言う人がいる。
てか人類はそもすべてが同祖であろう。
それはさておき、
てか日猶が同祖としても、
それは大方聖書以前のことでそこからすぐに離れた。
しかも離れたのは日本人ではなくユダヤ人の方です。
日本人は未だ原聖書の世界に留まっている。
そう思うのです。
それにイエスの言葉はまさに言霊の思想であり、
ヨハネは「ゴッド・ヤウエ・アラー」ではなく、
たぶん「神」のことを言っている。
そもイエスはときのユダヤを糾弾していた、
そして原点である聖書のかえれと、
そして又ユダヤの崩壊を見通し弟子たちに、
そのときは東にむかえと。
ここで私は確信する。
人種は知らず、でもイエスもヨハネも日の本の人であろうと。
してもときに東へ行った人らは行方知れず、
西へ行った人はそこでキリスト教をつくる。
そして人々に罪を背負わせた。
まったく罪つくりな話である。
てか、

違いを知る

2025-08-04 08:24:30 | 日記・エッセイ・コラム
違いを知る、
これは言葉の始まりであり、本義でもある。
世界は宇宙はすべての「ものごと」が繋がっている。
私はそう思っている。
そこでである、
私は私の細胞の連合体である。
命の初めと言われる細胞のその連合体、
それが60兆個もあると言われている。
そこでの一つひとつの細胞は概ね同じもの。
でもどこにあるかでその役割は違うのです。
同じと言えば同じ、違うと言えば違う、そのように。
でも細胞は多分みんな私だとしている。
そこで他の人の細胞を考える。
その細胞と私の細胞は、細胞としては変らない。
ならそれも私なのか?、そんなアホな。
てかその細胞の元である有機化合物ならどうか。
てかその化合物の元の分子原子ならどうか。
分ければ分けるほど違いが消えてゆく。
でも分けるとは逆方向に向かうと、
つまり大きく見ていくならば、
例えばヒトという種なら、
その点から見ると私と彼方は同じヒト、
てかときに私と彼方は同じものなのだ。
さらにその先に向うと同じ動物に、
さらにその先に向うと同じ生物と、
そして超最後は宇宙と一体化する。
そう言うことだから、
人の言葉に於いては「同じ」と「違う」は言葉の綾、
見る位置見る方向が違うだけ。
ときに起点になるのはいつも「私」である。
しても言葉の本義は「違いを知る」ことに。
それは分けて分けて分け入るもの。
ゆえそれを分別とも言う。
それは「同じ」を知ることではありません。
同じはそも存在自体の本義か、
究極に至ればそれは一となる。
にしても言葉の本義は違いを知ること、
イをもってシキしその違いを知ること、
それを覚える。
それがヒトに力を与える。
それは人にとっては吉にも凶にもなる、
それをずっと言っている。
てかその力はいつも中立、
吉凶はすべて自分の都合、
そこにはいつも私がいる。
故日本は私の突出を嫌う。
故日本は無私の心を求む、
明るく歪みなき鏡のごとき心、
言葉を持つ前のあの心である。
まあそんなことです。
・・・・・
言葉は違いを知るものですが、
それは脳に大いに依っている。
これは言わずもがな。
でも脳が言葉を作ったのではない。
結果から見ればそういうことだが、
要は最後の取り纏めをしてるだけ。
源の情報は體の細胞から寄せられるのです。
脳が現実から直接情報を得てる訳ではない。
しかしてその機能を発揮しているだけ。
これも言わずもがな。
てか脳が言葉をつくっているは一面の事実、
でもその大元は體にあるってこと。
であるが人間は変に勘違いする生き物、
てか脳を取り出してそれを生かし続ければ、
永遠の命が得られると考える人がいる。
それも知の最先端で。
知とはそんな厄介なものです。
脳だけを生かしてもそれは脳であったものでしかない。
なのになぜかそれほどの勘違いを。
話が換わるが、てか変わらないが、
今映画館では人が一杯である。
そこではアニメ「鬼滅の刃」が上映されている。
同じ館内で複数上映されているのに皆満員状態。
ビックリの人気である。
それがどうしたですが、
そこで思うのはあの炭治郎の言葉です。
鬼との必死の戦いのなかでのあの言葉、
考えろ考えろ、考えろ考えろ、そして終に、
考えるな感じろ…、と。
考えるとはまさに言葉の技、
これに固執するとその内なる無限ループから出られなくなる。
これが私の言う閉じ込め状態、
ここから解放せねばならない。
それはそも言葉を生んだその大元、
體が得た実の情報が集約されるその一瞬の閃き、
それを直感と謂う。
それに戻るのです。
でもである、
重要なのはそれが考えに考えた後でのこと、
その直感である。
考え抜いた後の直感こそです。
これが心魂を開放するのです。
ときに終に炭治郎は鬼を倒す。
ゆえ上でこれは話が変わっていないと。
にしても、
最近私はテレビ番組のアニメもよく見るように、
これも同じこと。
それらのアニメは須らく日本人の心を表現している。
それはもう漏れなくである、大なり小なりだが。
てかそれらはリベラルにおかされていない。
そこが素晴らしい。
ゆえにかときに海外からの攻撃が。
それでも動じない、まったく。
そこがまた素晴らしい。
それにおもしろい。
うん!
・・・・・
世界は今、日本のエンタメが席巻している。
てか私はそう思っている。
なにしろ日本は歌う国・語る国・舞う国である。
言葉は現実(神の事の場)に感応した心魂の振るえ。
ときに事の場と一体になり、歌い語り舞う。
ときにそこは共振共鳴の場となる。
そこにあるのは「まこと」である。
ゆえに言葉は霊を帯びて吹き渡る。
そんな言葉を大切にする国である。
ゆえに言葉を私しすることがなく、
ゆえに言葉はみなに開かれている。
ときの言葉はイのリに満ちており、
ときにそれはイのリを捧げるもの。
祈りの言葉その願いは人それぞれ、
只「まこと」があればそれでいい。
後はすべてあるがままなるがまま。
それに比べて今のハリウッドは行き詰っている。
現実(神の事の場)を見失い、
人の事の場に作った概念に閉じこもり、
その内なる無限ループから出られない。
これでは鬼にやられるばかり。
てか今のままでは無理だろう。
方途はひとつ、
體を以って事の場に向き合い、
しかして遠い記憶を取り戻す、
楽園にいたまさにあのときの。
ときにそこはときの事の場に。
てか今の状況に鑑みれば、
そんな気は更々なさそう。
なんとももどかしい限り。
うう~ん、

宗教

2025-07-28 09:14:51 | 日記・エッセイ・コラム
欧米人は無宗教というのが分からないらしい。
そんな人はいないと思っているようで。
てか宗教は皆持っているものと。
最近はでもないようだが。
てかそこにそも勘違いがあった。
彼らは無宗教=無神論と捉えている節がある。
てか無宗教と無神論は別物なのにです。
でもそうは考えてないようです。
そも宗教とは教(言葉)を宗(尊ぶ)とするもの。
彼らはその教を神の言葉とする。
でも現にあるのは人の言葉です。
元は神の言葉としても現にあるのは人の言葉です。
それを思うのです。
てか私は神の言葉を聞いたことがない。
それがあるとすれば、
(てかそれはある)
それは現に現れた実にこそある。
人がイをシキして現実を見た時、
最初にそれ(神≒言葉)を見る。
ときにあるのは無条件の信仰か、
現実に潜む大いなるその力への。
その力を聖書は(神の)言葉としたのです。
この譬えはいろんな意味で素晴らしい。
それが日本語の「ことば」なら尚。
そのことがよく分かるのです。
であるがそこでである。
宗教の基としての神の言葉だが、
なのに神を捨てる或いは神を忘れるのです、
てかもう一つ、閉じ込めると謂うのもある。
ときに宗教が変質する。
宗の教が神の言葉から人の言葉にかわるのです。
そしてゆえその言葉が暴走する。
このこと現下の世界が示す通り。
・・・・・
そこで勝手ながらに思うのです、
宗教は神への信仰から始まると。
しても人はその神に名を付ける。
ここから実際の宗教が始まるが、
同時にこれが混迷の種にもなる。
宗教はこの因果から出られない。
それはそも言葉の因果なのだが。
思うに「かみ」はすべてである。
なのにそれに名を付ける。
ときにそれは全てではなくなる。
ここに矛盾がある。
そこは一神教も二神教も多神教も同じ。
多神教は多いというだけでなく無数と言うなら、
それはすべてに繋がらるからまだしも。
なら神道はどうか。
これは宗教だとは思っていない。
でも宗教とするならどうだろう。
一般的には多神教と言われてる。
これに異論はない。
でもその多神が有限なら一神二神とかわらない。
てかその多神は無限です。
ゆえ神道を宗教とすれば、
それは多神教ではなく全神教とでも言うべきか。
てかこの言は馴染みがないから多神教でもいいかと。
ということです。
現実の神道はそのようにあるし。
それを想う。
全神教である神道はゆえ一々の言葉には捉われない。
てか言葉に捉われることを嫌う。
だからか教義がない。
だから宗教ではない。
それは生き方の総体である文化と言ってもいい。
てかそれも一寸違う。
てかそれ以前のこと、
それは在り方の根本とでも。
ゆえ人を差別しない、
どころかすべての生き物と対等に在ろうとする。
世に自由平等友愛ってのがある。
これはあくまで人の間でのこと。
てか欧米人には友の間でのこと。
でも神道ではすべてに通じると。
てか自由とは既に言ったとおり。
てか平等はてかてかそのまんま。
友愛とは繋がっているとの認識。
ゆえ日本ではそれを博愛とする。
その心で生きるのが神道である。
そういうものだと思っています。
補足、平等について。
平等とは究極の存在の在り方である。
でも現実は無限の違いでなっている。
そこに「同じ」はないのである。
と思うのだが、
今物理学の最先端では語られている。
もし究極の粒子があるとすれば、
その粒子は完全にフリーかつ自由なもの。
その粒子は皆同じであり、そこから何にでもなれる、
そういう存在であるとか。
存在するものを「もの」と「こと」に分けるが、
それすら最早分けられないもの。
イメージとしては光がその様である。
物理学に無知な私が勝手なことを言ってるようだが、
言いたいことは一つ、
平等とは「同じ」ということではない、ということ。
究極を想定して想像はできても、
決してそれは現実にはならない、
それは現実の奥から出て来ない。
・・・・・
標題に戻る。
ヒトは現実から今そこにある気を受け取る。
それを全細胞の気を結集して対応する。
その気の総体のことを心魂という。
つまり心魂にうつすのである。
しかしてそれに応えて口から声として出す。
その過程で脳に「念(今の心)」がつくられる。
この念(波動)は自己の中で何度も何度も反復する。
それがときに私を表舞台に出す。
思うに最初に出す声は受け取った気(波動)へのまこと。
ときの声はまことにまことで返すもの。
ときの心魂を鏡に譬えれば、
歪みの無いフラットなもの。
これがあの祀られている鑑、
明鏡止水あかるくもフラットに写すあの鑑です。
天照大神が天下る孫の瓊瓊杵尊に与えたもので、
この鏡を我を見るように拝めと。
この我とは天照大神であるが同時に私でもある。
ときのその心魂には「まこと」がうつるのです。
その鑑(心魂)を祀って拝めと。
てか勝手ながら私はそう思っている。
てかここでも日本語の素晴らしさが。
うつす、とはオトであるが、
それは写すとも映すとも移すとも書けるのです。
音は音として絵は絵としてそのイのシキをする。
いつものことだが、それを又思うのです。
てかこの項の初めのつづき、、
最初にイをシキして現実を見たときの心、
ときの心で応答すれば、それはまこととまことの応酬となる。
だからです、
その心で木や花に向えば、木や花とも会話ができる。
そこにある自然のすべてと会話ができる。
でも神の事の場を見失えば、
人の言葉に絡めとられれば、
そこは陰影もイロも消えた無機質な世界となる。
今そんな世界になろうとしてる。
宗教を信仰を守る盾とするなら、
宗教が本来の盾に戻るなら、
世界はまた開かれる。
それも新たな世界が。
うん!

自由

2025-07-21 09:33:14 | 日記・エッセイ・コラム
日本人はフリーダムと言う言葉を自由と訳した。
自由と謂う熟語はときに創られたか、
それとも元々あったのかは知らない。
でもその言葉を訳語としたのである。
私はフリーダムを知らない。
どういう意味であるのかを。
でも自由は分かる。
だからそれを通して知っているつもりだった。
でもちょっと違うような気がしてる。
まあ訳語とはそう謂うものではある。
微妙なところは違うものである。
最近はハッキリそう思っている。
フリーダムを知らないのにです。
しても自由とは分かり易い。
それは「じゆう」であるが、
それが「自由」であるから。
音と絵の両方があるからで、
その意味が取り易いのです。
それにしても、
フリーダムを自由と訳したのは慧眼である。
私はフリーダムは知らないと言ったが、
それはその歴史を知らないからである。
思うにその根本は違っていないと、
そこに至るまでの経緯が異なるが、
てかそれがその違いを生むことに。
ハイ!
・・・・・
フリーとは繋いでいるものから離れること。
その究極はすべてのものから離れることに。
そのとき繋いでいたものがすべて消えてしまう。
そしてそれだけが世界になるの世界。
してもこれは実際の物事の世界ではありえない。
そもすべての物事は繋がっている。
ゆえそれは幻想でしかない。
無いものを有るとする世界。
言葉はそれをも創るのです。
てかフリーを知らないのに何を言っている、
てか知らないから自由なのである。
自由と謂うがなら自由とは。
てか字義の通りで、おのれの由である。
他は知らず、私がそう思うということ。
私がそう思うからそれはそうなのです。
そういう世界である。
フリーとどこが違うのか?
てかフリーとはすべての繋がりを消すこと。
てか自由はすべての繋がりを認めるのです、
そしてその中で自分を見つけて自分を知る、
時と所の現実のなかで。
あるがままなるがままを良しとする心、
ときに心は自由になる。
現実は何も変わらなくとも心は自由になる。
ここまでならこれらは一見似て非なるもの。
でも究極は同じものだとも。
ということだが、
自分で言っておいて何だかよく分からない。
ゆえ違う角度から言い直す。
自由とは自分を認め自分を知ること。
例えば身体(これはもの)、
その構造とゆえの動かし方、
それを熟知しなお鍛えれば、
ときに身体の自由を得ると。
例えば心魂(これはこと)、
全身全霊で心魂の気を発し、
目の前の現実に対峙すれば、
ときに行動への心が定まる。
その在り方が自由そのもの。
てかここに言葉がある。
てか人間は言葉を持ってしまった。
てか言葉は素晴らしいもの、
てか言葉には凄い力がある。
てかゆえ言葉には罠がある。
言葉は心魂が全身全霊で発した気の波動、
その波動は必ず心魂に帰る、
ときにそれが心魂をも縛る、
それが自由を縛ってしまう、
ということがしばしば起る。
でも自由はそれをも心得る。
自由には解毒剤もあるのだ。
それは場の自分を見るから。
ところでフリーのこと。
フリーは縛りを断ち切るものです。
そして私が世界になって動かない。
帰ってきた言葉は実は私でもある。
ゆえそれは断ち切れないのである。
フリーはそこはフリーになれないのです。
なんたる皮肉。
これが今次世界に於ける阿鼻叫喚の因である。
てか大層な物言いではある。
でも何度でも言うが、
これは私の言葉遊び、
ご容赦を。
・・・・・
それにしても日本語は不思議な言語である。
欧米語シナ語あるいは朝鮮語などと違って。
それはすぐれて音霊であり、
同時に絵霊でもあるのです。
ゆえ漢字は日本の文字だと言うのです。
言葉という文字がそれを端的に示している。
言の葉は事の端でもあり、それは事の場にある。
絵や元の音が少し違っていても、
すべて同じ音(ことば)になる。
日本人はその「ことば」に生きている。
このことは日本語でないと分からない。
この「ことば」はまだ宗教や哲学が起こる前の言葉、
その「ことば」に生きている、のです。
てか日本人の信仰がここに始まるなら、
てか日本人が無宗教なのは当然のこと。
ところで、
フリーダムと自由は根本は同じだとも。
量子の世界へ行ったら、なおその奥に行ったら、
それはそうなのだろう、と。
量子論を知らないのにです。
てか言葉自体がそこにあるのかも。
私には私が思うように世界はある、
それは私の體の感覚が捉えたもの、
その目や耳などの器官とその感覚、
それは私がつくったものではない、
それは私を創ったものがつくった、
そのことを思うのです。
それを疑う必要はない、
あるがままなるがまま、
そこに私の自由がある。
それはそうなのですが、
ハテ?

問う

2025-07-14 09:07:43 | 日記・エッセイ・コラム
生物は現実から生まれ現実に生きる。
現実とは現に在る実(ものごと)のこと。
時と所の現に在る実(ものごと)のこと。
初めに現実があり、そこに命が現れる。
この順序は鶏か卵かではない。
言わずもがな、てか念のため。
そしてその體が持つ全身(もの)全霊(こと)を駆使して生きる。
そしてその命はその種を生きその個を生きる。
その命にとって主体(私)はあっても、
私が在って世界があるのではない。
世界が在って私が在るのです。
私もその一部ではあるが。
それを想うのです。
当然てかそう思う。
・・・・・
生物は全身全霊で現実に向き合う。
そこで生きるからには現実をシキしている。
それは当然のこと。
でもイをシキしている訳ではない。
それを無意識というが、
これは無の意識でなく、これは無意の識である。
つまり意識が無いのではなく、
つまり意のない識なのである。
てかいつもの言葉遊び。
ヒトが言葉を持つ経緯はまったく分からないが、
言葉がどういうものかはある程度。
ヒトは言葉を持って人間になった。
それは現実をイをもってシキして生きるがゆえ。
これはこの地では人間だけである。
他の地にはいても不思議はないが。
てか言葉の初めはただの印である。
このことだけなら大したことではない。
でもこれはこれだけでは留まらないのです。
印がどんどん増えていくのである。
これには勿論限界がある。
しても入替は自由である。
それにこれが凄いことなのだが、
それら印は自ずと繋がることで、
その組み合わせがもう変幻自在、
それが際限なきアヤを生み出す。
これが文化文明を育てる。
してもこれは言葉が持つその質による。
言葉はその印を以って意思疎通を諮るもの、
為に言葉は先ずは問いそしてそれに答える。
これは言葉の基本的作法である。
ここに大きな力が生れる。
だからの表題の問うです。
てか意思疎通を諮るとはいえ、
これは一般的には他者との間のことである。
でも思えば分かるだろう、
その前には必ず自分に問うている、
それが無意識であっても。
一般的にはこれを自問自答という。
てかこれが「考える」ということ。
人間は考える葦である、とは何処かの誰かが言った。
考える猿と言ったほうが実相だが、
これでは興趣に欠けるか。
にしても思うのです、
人間は自分に問う生き物であると。
そしてこれが人間たるの決定的な力となる。
でもこれこそが私を突出させるのです。
他者との意思疎通の場合は概ねその場限り。
それがオトとしての言葉の真骨頂。
でも自問自答の場合は際限なく続けられる。
私と私のキャッチボールはね。
そこでまた浮かぶのです。
何処かで誰かが言った言、我思う故に我あり、です。
この言はズバリこのことを指しているのか。
私と私の問答の中で私が私を見てのつぶやきか。
そう言うことだと思うが、
その内どこかで会ったら聞いてみよう、
あのデカルトさんに。
てかもうちょっと先になるが。
・・・・・
ちなみにここで又想うのです、
標題の問うとは少し離れるが、
言葉にあるもうひとつの特徴、
それは現実の後追いであるということ。
音である言葉は波動でありその場限り。
その波動が脳に刻まれて初めて言葉になる、
その場限りのものが脳に留まるのです。
ときの今の心として、それが念である。
人は尚それを盤石にするため、
書き言葉(文字)をつくった。
そんなこんなで言葉は大きな力を持つ。
してもそれは使い方を違えれば災いをもたらす。
ゆえ言葉には陥穽があると言うのです。
だからである、
言葉のその質を知ろうと、
それを知らねばと。
言葉を以ってなお言葉に捉われず、
まことたる現実を捉える人の言葉、
虚構たる言葉のその構えを糺せば、
ときに言葉は「まこと」ととなる。
これが神の言葉ならば、それは無から有を創る。
人の言葉はそこまでは無理だろう。
ちなみに量子論はその辺りのことを言っているのか。
科学的には無作法で、
よく分かりませんが、
私はそう思うのです。

以下は蛇足。
物と事の究極の境いに至れば、
そこでは事は自由になるのか。
てか物は事の側面に縛られず、
てか事は物の側面に縛られず、
てか物事は完全に一体化して、
ときにまったきフリーになる。
多分その向こうに神様がいる。
てか私の體がそう言っている。
うん!