goo blog サービス終了のお知らせ 

ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

自由

2025-07-21 09:33:14 | 日記・エッセイ・コラム
日本人はフリーダムと言う言葉を自由と訳した。
自由と謂う熟語はときに創られたか、
それとも元々あったのかは知らない。
でもその言葉を訳語としたのである。
私はフリーダムを知らない。
どういう意味であるのかを。
でも自由は分かる。
だからそれを通して知っているつもりだった。
でもちょっと違うような気がしてる。
まあ訳語とはそう謂うものではある。
微妙なところは違うものである。
最近はハッキリそう思っている。
フリーダムを知らないのにです。
しても自由とは分かり易い。
それは「じゆう」であるが、
それが「自由」であるから。
音と絵の両方があるからで、
その意味が取り易いのです。
それにしても、
フリーダムを自由と訳したのは慧眼である。
私はフリーダムは知らないと言ったが、
それはその歴史を知らないからである。
思うにその根本は違っていないと、
そこに至るまでの経緯が異なるが、
てかそれがその違いを生むことに。
ハイ!
・・・・・
フリーとは繋いでいるものから離れること。
その究極はすべてのものから離れることに。
そのとき繋いでいたものがすべて消えてしまう。
そしてそれだけが世界になるの世界。
してもこれは実際の物事の世界ではありえない。
そもすべての物事は繋がっている。
ゆえそれは幻想でしかない。
無いものを有るとする世界。
言葉はそれをも創るのです。
てかフリーを知らないのに何を言っている、
てか知らないから自由なのである。
自由と謂うがなら自由とは。
てか字義の通りで、おのれの由である。
他は知らず、私がそう思うということ。
私がそう思うからそれはそうなのです。
そういう世界である。
フリーとどこが違うのか?
てかフリーとはすべての繋がりを消すこと。
てか自由はすべての繋がりを認めるのです、
そしてその中で自分を見つけて自分を知る、
時と所の現実のなかで。
あるがままなるがままを良しとする心、
ときに心は自由になる。
現実は何も変わらなくとも心は自由になる。
ここまでならこれらは一見似て非なるもの。
でも究極は同じものだとも。
ということだが、
自分で言っておいて何だかよく分からない。
ゆえ違う角度から言い直す。
自由とは自分を認め自分を知ること。
例えば身体(これはもの)、
その構造とゆえの動かし方、
それを熟知しなお鍛えれば、
ときに身体の自由を得ると。
例えば心魂(これはこと)、
全身全霊で心魂の気を発し、
目の前の現実に対峙すれば、
ときに行動への心が定まる。
その在り方が自由そのもの。
てかここに言葉がある。
てか人間は言葉を持ってしまった。
てか言葉は素晴らしいもの、
てか言葉には凄い力がある。
てかゆえ言葉には罠がある。
言葉は心魂が全身全霊で発した気の波動、
その波動は必ず心魂に帰る、
ときにそれが心魂をも縛る、
それが自由を縛ってしまう、
ということがしばしば起る。
でも自由はそれをも心得る。
自由には解毒剤もあるのだ。
それは場の自分を見るから。
ところでフリーのこと。
フリーは縛りを断ち切るものです。
そして私が世界になって動かない。
帰ってきた言葉は実は私でもある。
ゆえそれは断ち切れないのである。
フリーはそこはフリーになれないのです。
なんたる皮肉。
これが今次世界に於ける阿鼻叫喚の因である。
てか大層な物言いではある。
でも何度でも言うが、
これは私の言葉遊び、
ご容赦を。
・・・・・
それにしても日本語は不思議な言語である。
欧米語シナ語あるいは朝鮮語などと違って。
それはすぐれて音霊であり、
同時に絵霊でもあるのです。
ゆえ漢字は日本の文字だと言うのです。
言葉という文字がそれを端的に示している。
言の葉は事の端でもあり、それは事の場にある。
絵や元の音が少し違っていても、
すべて同じ音(ことば)になる。
日本人はその「ことば」に生きている。
このことは日本語でないと分からない。
この「ことば」はまだ宗教や哲学が起こる前の言葉、
その「ことば」に生きている、のです。
てか日本人の信仰がここに始まるなら、
てか日本人が無宗教なのは当然のこと。
ところで、
フリーダムと自由は根本は同じだとも。
量子の世界へ行ったら、なおその奥に行ったら、
それはそうなのだろう、と。
量子論を知らないのにです。
てか言葉自体がそこにあるのかも。
私には私が思うように世界はある、
それは私の體の感覚が捉えたもの、
その目や耳などの器官とその感覚、
それは私がつくったものではない、
それは私を創ったものがつくった、
そのことを思うのです。
それを疑う必要はない、
あるがままなるがまま、
そこに私の自由がある。
それはそうなのですが、
ハテ?

問う

2025-07-14 09:07:43 | 日記・エッセイ・コラム
生物は現実から生まれ現実に生きる。
現実とは現に在る実(ものごと)のこと。
時と所の現に在る実(ものごと)のこと。
初めに現実があり、そこに命が現れる。
この順序は鶏か卵かではない。
言わずもがな、てか念のため。
そしてその體が持つ全身(もの)全霊(こと)を駆使して生きる。
そしてその命はその種を生きその個を生きる。
その命にとって主体(私)はあっても、
私が在って世界があるのではない。
世界が在って私が在るのです。
私もその一部ではあるが。
それを想うのです。
当然てかそう思う。
・・・・・
生物は全身全霊で現実に向き合う。
そこで生きるからには現実をシキしている。
それは当然のこと。
でもイをシキしている訳ではない。
それを無意識というが、
これは無の意識でなく、これは無意の識である。
つまり意識が無いのではなく、
つまり意のない識なのである。
てかいつもの言葉遊び。
ヒトが言葉を持つ経緯はまったく分からないが、
言葉がどういうものかはある程度。
ヒトは言葉を持って人間になった。
それは現実をイをもってシキして生きるがゆえ。
これはこの地では人間だけである。
他の地にはいても不思議はないが。
てか言葉の初めはただの印である。
このことだけなら大したことではない。
でもこれはこれだけでは留まらないのです。
印がどんどん増えていくのである。
これには勿論限界がある。
しても入替は自由である。
それにこれが凄いことなのだが、
それら印は自ずと繋がることで、
その組み合わせがもう変幻自在、
それが際限なきアヤを生み出す。
これが文化文明を育てる。
してもこれは言葉が持つその質による。
言葉はその印を以って意思疎通を諮るもの、
為に言葉は先ずは問いそしてそれに答える。
これは言葉の基本的作法である。
ここに大きな力が生れる。
だからの表題の問うです。
てか意思疎通を諮るとはいえ、
これは一般的には他者との間のことである。
でも思えば分かるだろう、
その前には必ず自分に問うている、
それが無意識であっても。
一般的にはこれを自問自答という。
てかこれが「考える」ということ。
人間は考える葦である、とは何処かの誰かが言った。
考える猿と言ったほうが実相だが、
これでは興趣に欠けるか。
にしても思うのです、
人間は自分に問う生き物であると。
そしてこれが人間たるの決定的な力となる。
でもこれこそが私を突出させるのです。
他者との意思疎通の場合は概ねその場限り。
それがオトとしての言葉の真骨頂。
でも自問自答の場合は際限なく続けられる。
私と私のキャッチボールはね。
そこでまた浮かぶのです。
何処かで誰かが言った言、我思う故に我あり、です。
この言はズバリこのことを指しているのか。
私と私の問答の中で私が私を見てのつぶやきか。
そう言うことだと思うが、
その内どこかで会ったら聞いてみよう、
あのデカルトさんに。
てかもうちょっと先になるが。
・・・・・
ちなみにここで又想うのです、
標題の問うとは少し離れるが、
言葉にあるもうひとつの特徴、
それは現実の後追いであるということ。
音である言葉は波動でありその場限り。
その波動が脳に刻まれて初めて言葉になる、
その場限りのものが脳に留まるのです。
ときの今の心として、それが念である。
人は尚それを盤石にするため、
書き言葉(文字)をつくった。
そんなこんなで言葉は大きな力を持つ。
してもそれは使い方を違えれば災いをもたらす。
ゆえ言葉には陥穽があると言うのです。
だからである、
言葉のその質を知ろうと、
それを知らねばと。
言葉を以ってなお言葉に捉われず、
まことたる現実を捉える人の言葉、
虚構たる言葉のその構えを糺せば、
ときに言葉は「まこと」ととなる。
これが神の言葉ならば、それは無から有を創る。
人の言葉はそこまでは無理だろう。
ちなみに量子論はその辺りのことを言っているのか。
科学的には無作法で、
よく分かりませんが、
私はそう思うのです。

以下は蛇足。
物と事の究極の境いに至れば、
そこでは事は自由になるのか。
てか物は事の側面に縛られず、
てか事は物の側面に縛られず、
てか物事は完全に一体化して、
ときにまったきフリーになる。
多分その向こうに神様がいる。
てか私の體がそう言っている。
うん!

宗教のもとい

2025-07-07 09:30:37 | 日記・エッセイ・コラム
人間は神に出会っている。
種としても、個としても。
それはその種の登場直後、
それはその個の誕生直後。
ときにヒトは人類になり人間になった。
それは言葉を持つ直前直後の狭間にて。
その短くもあり長くもあるそのときに。
そもヒトは神の事の場に現れたイのチ。
他のイのチと共にまんまにそこに在る。
でもなにゆえか神に出会ってしまった。
これがヒトに言葉を持たせた。
てかでもこれ鶏か卵かの話し。
正にミステリーの最たるもの。
そもイのチはその時と所に生きる。
ゆえ時と所の場の空気を一身に浴びる。
生きるとはその空気を全身全霊で捉えるもの。
生きるとはその空気を體と魂とで捉えること。
それを言葉を持った人間は空気を読むと言う。
言葉は詠むもの歌うもの語るもの。
ここに人間の所以がある。
表向きは人間の所以は言葉である。
しても本当の所以は言葉ではない。
言葉はその結果なのです。
その所以は體と魂の振るえにある。
それが言葉を創るのです。
存在の基底にあるエネルギーによって。
これは存在の如何に関わらずあるもの。
それを気という。
・・・・・
言葉は人間の人間たる所以だが、
それは表向きであるとも言った。
ゆえにか言葉には大きな陥穽が潜む。
ひとつ、それは我を突出させる。
ひとつ、それは現実の後を追うだけ。
場の空気を読むのは命の倣いである。
そもそれは全身全霊で行うもの。
ときに人間はそれを脳に任せる。
てか言葉に頼り言葉で問うのだ。
ときに問う自分が前面且全面に出る。
ゆえ我が突出するのです。
てか言葉が後追いなのは自明のこと。
結果として脳に貼り付けられるゆえ。
これらが陥穽となる。
てか言葉は本来波動(オト)である。
これは事実上同時でその場限り。
ときの言葉は後追いではないと。
でもそれは脳に刻まれるのです。
そこから本当の後追いが始まる。
てか後追いが悪い訳ではありません。
てかそれが人類の文化文明を育てる。
要は使いようなのである。
人の事の場は神の事の場の影を捉えるが、
しても何処まで行っても影は影、
ゆえに不安と困惑がはなれない。
これは鎮めねばならない。
ための方途が必要になる。
そのひとつが祈りである。
そのひとつが悟りである。
でも本命は祈りであろう。
悟りは難しいのです。
問題はイをシキしたことから始まったのです。
祈りは人の事の場を神の事の場に重ねるもの、
言葉を神の事の場に奉じて委ねる所作である。
これは囚われの心を開放するもの。
悟りはそこが難しい。
悟ろうとすればするほどシキが離れない。
ゆえこれは専ら體に問うものかと。
それを修行と言っている。
ときに生死の狭間を彷徨うほどの荒行に。
てか特に修業でなくともあり得るか。
生死の境を見たならばね。
ときに執着が薄まって悟りが開くか。
てかそこまでしなくとも出来るかも。
それは虫(無私)の心で生きればね。
坦々とムシの心でね。
お坊さんはこれも修業らしい。
日々の生活の習いを坦々とこなすことが。
にしても言うは易し行なうは難し。
まあ凡人には難しい。
てか祈りの方がいい。
折に触れそこかしこで祈るのがいい。
てか日々を祈りの中ですごすなら、それが一番か。
大きな声では言えないが、
日本文明にはてか日本語には、
このエッセンスが詰まっています、
言語そのものがそも宗教書の如くある。
これはここだけの話、
てか話はあのねのね。
・・・・・
私は宗教には毒がある、とずっと言ってきた。
でもこれはむしろ言葉にある陥穽のこと、
宗教は教であるからこれを回避できない。
思えば祈りや悟りは言葉以前に戻ること。
ゆえそこには陥穽はない。
でもこれを人間は言葉にする。
祈りや悟りを高めようとして。
思えばこれが矛盾なのである、
これが人間には避けられない。
でもこれだけなら問題はない。
これを時と所に留めればだが。
てか絶対化するのが危険なのです。
しても所謂宗教はこれを免れない。
それは教だから宗の教だから。
ということだが、
なかでも一神教が危うい。(原理主義に陥りやすい)
神を捨てた一神教も同じ。(これをリベラルと謂う)
てか神を捨ててるからなおのこと危うい。
神を忘れた宗教も危うい。(これを中華思想と謂う)
てかこれは神を捨てた一神教と同じようだが、
まあ同じですが、
そこにイのシキすらなく、
箸にも棒にも掛からない、
最悪のものです。
という訳で宗教は取扱注意である。
してもこれは実は言葉だからだが。
てかここに言葉を盾に鉾にしないものがある。
在るがまま成るがままを良しとしての生き方。
それがここにある。
ずっとここにある。
それを知ろう。
うん、

空気を読む

2025-06-30 08:39:38 | 日記・エッセイ・コラム
空気を読むって言葉がある。
これは日本人がよく言われることである。
それは言葉を使うことなく、無言の内に意思疎通を計る。
それを謂うらしい。
ゆえ海外からは曖昧でよく分からないと。
日本人でもそう言って揶揄する人がいる。
でも思うに、
しなくても済ますことが出来るなら、
する必要がないのは当り前、
それは当然のこと。
してもこの言葉は実に奥がふかい。
これは文化文明の根幹にかかわる。
それになによりこれは言葉である、
人間が人間である由の言葉である。
これは英語ではどう表現するのだろう。
いつものことだが私はそれを知らない。
でも思うのです、
これは実に当を得た表現であると。
その相手を空気と言うこと、
その動きを読むと言うこと、
基より日本語は妙であるが、
この言葉も正にそうである。
まことに、
まことに。
・・・・・
妙のひとつ、空気。
これはその場の空気のこと、酸素や窒素等の気体のこと。
また気とは存在の基底に潜むエネルギーのこととされる。
それは所謂空気だけでなく、
その場に存在するすべての物事の気も含まれる。
ところで物事は神の言葉によって現れる、
これは聖書(創世記)によれば、
それに物事は煎じ詰めれば運動振動波動に帰る、
これは私が勝ってに言っている、
また人の言葉は空気の波動によって伝わる、
とかなんとかと勝手に放題。
妙のひとつ、読む。
だからです、
見るでもなく知るでもなく「読む」である。
それは言葉であるから。
それはその基である神の言葉を読むのです。
だからの「空気を読む」である。
そしてそれが人の言葉にもなる。
ここに妙がある。
得も言われぬ妙がある。

尚ちょっと考えれば分かること。
空気を読むとはすべての生き物がしていること。
これは自ずとそうしているもの。
それは神の創った設計図(DNA)による。
これを私は神の手の中でまんまに生きると。
でも動物の哺乳類には少し外れるところが
それはまあ文化とも言える。
それは遊びの中で学ぶもの。
ヒトもそこまでは他の哺乳類とかわらない。
だから空気を読むのは当然。
ところがその中で人は言葉を持ったのです。
してもこれはDNAの意図ではなかったと。
すべからく後天的なものと。
ここでもやはり遊びの中での学びが必要且重要。
ときに人に育てられなければそれはダメなのだ。
今の学問的知見は知らないがそう言うことかと。
以前言った狼少年の例がそれである。
そこでであるが、
人も空気を読むがそれがときに全身全霊で徹底的に。
60兆個も有ると謂われる細胞のすべてを動員して。
ときに人は言葉を得たのである。
ここに一番のミステリーがある。
これが徹底的に分からないのだ。
まあ言葉ではどうとでも言える。
おもうに言葉は言葉を語らない。
考えても無駄でしょう。
だから私は言うのです、
ときに人は神に出会っていると。
往古の人もそれを想う。
そして語られたものそれが神話。
それが人間の始まりである。
・・・・・
ヒトは動物である。
ヒトは類としては哺乳類である。
特徴、自ら動くものである。
特徴、ゆえ意を持っている。
動く向きは自分で決めるのです。
為に場の空気を読む必要がある。
されど我もまた場の空気の一つ。
我を持ってるがそれを場から切り離さず、
これを当り前のように振る舞う。
でもヒトは意識を持ってしまう。
てかそのイをシキしたのである。
ときに我が表に出てきて露わに。
ここから人間の歴史がはじまる。
言葉は一度持てばもう離れない。
言葉と生きて行くしかないのだ。
でもであるこれは覚えておこう。
我は人間である前に動物である。
何より場に生きているのである。
神の事の場にである。
ゆえ空気は必然的に読んでいる。
でもそこに人の事の場を重ねる。
そして見えなくする。
日本は世界から見れば異質だと。
一寸昔はその様に言われていた。
でももうお分りでしょう。
日本が異質なのではない。
世界が異質なのであると。
それが今正に顕著に現れている。
それを知ろう。
さすれば、
そのとき未来は開かれる。
うん!

魔女を狩ったはなし

2025-06-23 08:35:47 | 日記・エッセイ・コラム
マリーは本当はどんな人だったのだろう。
てかマリーアントワネットのことである。
本人は勿論その生い立ちなども知らない。
ときにギロチンに架けられたということしか。
それでも一つだけ知っていることがある。
それはあの有名な話である。
民衆が飢えで苦しんでるときに言ったという、
パンがなければケーキを食えばいいのにとか。
これは本当か?体のいい作り話ではないのか。
只の世間知らずのお嬢様のようだが。
てか本当は心優しいお姫様だったか。
事実は分からない、でも事実はいつも複雑で怪奇。
それを語るには文学的素養が必要になる。
知っておこう、
論理はそこにある多くの模様を消してしまう、
てかそういう作業のことである。
科学の様に現実での検証が必要ならそれは素晴らしい。
でなければそれはいつもプロパガンダになる。
これがときに人を暴走させる。
マリーもその被害者か。
それにもう一人、ジャンヌダルクがいる。
彼女のこともほとんど知らない。
でも有名だから少しは。
彼女は民衆の為に先頭に立って戦い終に勝利を得る。
ゆえに民衆の英雄になった。
なのにその顛末は知らないが処刑された、
それも火炙りの刑で、まさに魔女として。
そして私は思う、
リベラルの始まりはこの魔女狩りからか、
そしてこれが更なる荒廃を招くことにも、
てかとかてか、
・・・・・
上のことに限らず、
ヨーロッパ中世は魔女狩りが横行していたようだ。
そも宗教争いが頻発し、ときに戦争になることも。
ゆえにそれを理不尽と思う心も乏しかったか。
てか旧大陸はいつからか奪い合いの連鎖が起きており、
そこでの帝国は皆奴隷社会となった。
ときのヨーロッパの社会状況は知らない。
少なくともその名残・残滓はあったろう。
思うにこれは今のヨーロッパも同じかも。
未だに歴とした階級社会なのだから。
しても中世から近代になって所謂魔女狩りは見なくなった。
思えばそれは理不尽なことだと。
今や多くの人がそう思っている。
てか振り返ればである。
でも今を生きる人は往々にして今が見えない。
これが問題なのである。
今自分が魔女狩りをしていても、
それがそうだと分からない。
ネットにもその兆候がある。
てか魔女狩りで中世が終わったとすれば、
近代はそれを克服したのか。
私はまったく変わってないと思っている。
目に見える形ではなくなったが。
形をかえた魔女狩りは今もまだ。
てか近代になっても行なわれていたもの、
あの奴隷狩りこれは魔女狩りに匹敵する。
名称と中身に違いはあるが実態は同じだろう。
これも今はなくなっている。
ではすべてなくなったのか。
てか先に言ったが未だなくなっていない。
ネットにもその兆候があると…。
メディアはそれどころではない。
てかその向きが変わっただけと。
それは直接から間接にです。
それは「武」の力から「知」の力に。
つまり武器が言葉になったのである。
と言っても、
武の力はその裏に言葉あり、
知の力はその裏に武力あり、
そこは物事と同じでそも一体のもの、
表と裏が入れ替わっただけ。
でもです、
むしろより陰湿で厄介になった。
これが今の世界であり、
ゆえ嘘と狂気に満ちている、
とずっと言っているのです。
・・・・・
人の事の場をつくる人の言葉は、
神の事の場の理をとらえるもの、
それが人の言葉に力をあたえる。
鍵は神の事の場の理(ことわり)にある。
言葉がそれをすっ飛ばして一人歩きするなら、
それはもう本来の言葉とは言えない。
それをプロパガンダという。
してもプロパガンダにも一理はある。
それが現実を捉えている限りである。
でも絶対的に注意が必要なのだ。
なぜならそれは初めに結論ありきで、
往々にして現実を無視して暴走する。
それをさせずに、
それが人々の一瞬の気を捉えて高めるものなら、
それはそれで面白い。
これはプロパガンダとは言わず、
キャッチコピーとでも言うのか。
最後に諄い様だがもう一度てか何度でも、
それは、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
一つひとつは只の言葉でありそこに問題はない。
でも初めに結論ありきで暴走すれば是非もなし。
それは大嘘のプロパガンダに堕する。
てかいつもの堂々巡りで、
脳が沸々騰々、
ハイ!