日本人はフリーダムと言う言葉を自由と訳した。
自由と謂う熟語はときに創られたか、
それとも元々あったのかは知らない。
でもその言葉を訳語としたのである。
私はフリーダムを知らない。
どういう意味であるのかを。
でも自由は分かる。
だからそれを通して知っているつもりだった。
でもちょっと違うような気がしてる。
まあ訳語とはそう謂うものではある。
微妙なところは違うものである。
最近はハッキリそう思っている。
フリーダムを知らないのにです。
しても自由とは分かり易い。
それは「じゆう」であるが、
それが「自由」であるから。
音と絵の両方があるからで、
その意味が取り易いのです。
それにしても、
フリーダムを自由と訳したのは慧眼である。
私はフリーダムは知らないと言ったが、
それはその歴史を知らないからである。
思うにその根本は違っていないと、
そこに至るまでの経緯が異なるが、
てかそれがその違いを生むことに。
ハイ!
・・・・・
フリーとは繋いでいるものから離れること。
その究極はすべてのものから離れることに。
そのとき繋いでいたものがすべて消えてしまう。
そしてそれだけが世界になるの世界。
してもこれは実際の物事の世界ではありえない。
そもすべての物事は繋がっている。
ゆえそれは幻想でしかない。
無いものを有るとする世界。
言葉はそれをも創るのです。
てかフリーを知らないのに何を言っている、
てか知らないから自由なのである。
自由と謂うがなら自由とは。
てか字義の通りで、おのれの由である。
他は知らず、私がそう思うということ。
私がそう思うからそれはそうなのです。
そういう世界である。
フリーとどこが違うのか?
てかフリーとはすべての繋がりを消すこと。
てか自由はすべての繋がりを認めるのです、
そしてその中で自分を見つけて自分を知る、
時と所の現実のなかで。
あるがままなるがままを良しとする心、
ときに心は自由になる。
現実は何も変わらなくとも心は自由になる。
ここまでならこれらは一見似て非なるもの。
でも究極は同じものだとも。
ということだが、
自分で言っておいて何だかよく分からない。
ゆえ違う角度から言い直す。
自由とは自分を認め自分を知ること。
例えば身体(これはもの)、
その構造とゆえの動かし方、
それを熟知しなお鍛えれば、
ときに身体の自由を得ると。
例えば心魂(これはこと)、
全身全霊で心魂の気を発し、
目の前の現実に対峙すれば、
ときに行動への心が定まる。
その在り方が自由そのもの。
てかここに言葉がある。
てか人間は言葉を持ってしまった。
てか言葉は素晴らしいもの、
てか言葉には凄い力がある。
てかゆえ言葉には罠がある。
言葉は心魂が全身全霊で発した気の波動、
その波動は必ず心魂に帰る、
ときにそれが心魂をも縛る、
それが自由を縛ってしまう、
ということがしばしば起る。
でも自由はそれをも心得る。
自由には解毒剤もあるのだ。
それは場の自分を見るから。
ところでフリーのこと。
フリーは縛りを断ち切るものです。
そして私が世界になって動かない。
帰ってきた言葉は実は私でもある。
ゆえそれは断ち切れないのである。
フリーはそこはフリーになれないのです。
なんたる皮肉。
これが今次世界に於ける阿鼻叫喚の因である。
てか大層な物言いではある。
でも何度でも言うが、
これは私の言葉遊び、
ご容赦を。
・・・・・
それにしても日本語は不思議な言語である。
欧米語シナ語あるいは朝鮮語などと違って。
それはすぐれて音霊であり、
同時に絵霊でもあるのです。
ゆえ漢字は日本の文字だと言うのです。
言葉という文字がそれを端的に示している。
言の葉は事の端でもあり、それは事の場にある。
絵や元の音が少し違っていても、
すべて同じ音(ことば)になる。
日本人はその「ことば」に生きている。
このことは日本語でないと分からない。
この「ことば」はまだ宗教や哲学が起こる前の言葉、
その「ことば」に生きている、のです。
てか日本人の信仰がここに始まるなら、
てか日本人が無宗教なのは当然のこと。
ところで、
フリーダムと自由は根本は同じだとも。
量子の世界へ行ったら、なおその奥に行ったら、
それはそうなのだろう、と。
量子論を知らないのにです。
てか言葉自体がそこにあるのかも。
私には私が思うように世界はある、
それは私の體の感覚が捉えたもの、
その目や耳などの器官とその感覚、
それは私がつくったものではない、
それは私を創ったものがつくった、
そのことを思うのです。
それを疑う必要はない、
あるがままなるがまま、
そこに私の自由がある。
それはそうなのですが、
ハテ?
自由と謂う熟語はときに創られたか、
それとも元々あったのかは知らない。
でもその言葉を訳語としたのである。
私はフリーダムを知らない。
どういう意味であるのかを。
でも自由は分かる。
だからそれを通して知っているつもりだった。
でもちょっと違うような気がしてる。
まあ訳語とはそう謂うものではある。
微妙なところは違うものである。
最近はハッキリそう思っている。
フリーダムを知らないのにです。
しても自由とは分かり易い。
それは「じゆう」であるが、
それが「自由」であるから。
音と絵の両方があるからで、
その意味が取り易いのです。
それにしても、
フリーダムを自由と訳したのは慧眼である。
私はフリーダムは知らないと言ったが、
それはその歴史を知らないからである。
思うにその根本は違っていないと、
そこに至るまでの経緯が異なるが、
てかそれがその違いを生むことに。
ハイ!
・・・・・
フリーとは繋いでいるものから離れること。
その究極はすべてのものから離れることに。
そのとき繋いでいたものがすべて消えてしまう。
そしてそれだけが世界になるの世界。
してもこれは実際の物事の世界ではありえない。
そもすべての物事は繋がっている。
ゆえそれは幻想でしかない。
無いものを有るとする世界。
言葉はそれをも創るのです。
てかフリーを知らないのに何を言っている、
てか知らないから自由なのである。
自由と謂うがなら自由とは。
てか字義の通りで、おのれの由である。
他は知らず、私がそう思うということ。
私がそう思うからそれはそうなのです。
そういう世界である。
フリーとどこが違うのか?
てかフリーとはすべての繋がりを消すこと。
てか自由はすべての繋がりを認めるのです、
そしてその中で自分を見つけて自分を知る、
時と所の現実のなかで。
あるがままなるがままを良しとする心、
ときに心は自由になる。
現実は何も変わらなくとも心は自由になる。
ここまでならこれらは一見似て非なるもの。
でも究極は同じものだとも。
ということだが、
自分で言っておいて何だかよく分からない。
ゆえ違う角度から言い直す。
自由とは自分を認め自分を知ること。
例えば身体(これはもの)、
その構造とゆえの動かし方、
それを熟知しなお鍛えれば、
ときに身体の自由を得ると。
例えば心魂(これはこと)、
全身全霊で心魂の気を発し、
目の前の現実に対峙すれば、
ときに行動への心が定まる。
その在り方が自由そのもの。
てかここに言葉がある。
てか人間は言葉を持ってしまった。
てか言葉は素晴らしいもの、
てか言葉には凄い力がある。
てかゆえ言葉には罠がある。
言葉は心魂が全身全霊で発した気の波動、
その波動は必ず心魂に帰る、
ときにそれが心魂をも縛る、
それが自由を縛ってしまう、
ということがしばしば起る。
でも自由はそれをも心得る。
自由には解毒剤もあるのだ。
それは場の自分を見るから。
ところでフリーのこと。
フリーは縛りを断ち切るものです。
そして私が世界になって動かない。
帰ってきた言葉は実は私でもある。
ゆえそれは断ち切れないのである。
フリーはそこはフリーになれないのです。
なんたる皮肉。
これが今次世界に於ける阿鼻叫喚の因である。
てか大層な物言いではある。
でも何度でも言うが、
これは私の言葉遊び、
ご容赦を。
・・・・・
それにしても日本語は不思議な言語である。
欧米語シナ語あるいは朝鮮語などと違って。
それはすぐれて音霊であり、
同時に絵霊でもあるのです。
ゆえ漢字は日本の文字だと言うのです。
言葉という文字がそれを端的に示している。
言の葉は事の端でもあり、それは事の場にある。
絵や元の音が少し違っていても、
すべて同じ音(ことば)になる。
日本人はその「ことば」に生きている。
このことは日本語でないと分からない。
この「ことば」はまだ宗教や哲学が起こる前の言葉、
その「ことば」に生きている、のです。
てか日本人の信仰がここに始まるなら、
てか日本人が無宗教なのは当然のこと。
ところで、
フリーダムと自由は根本は同じだとも。
量子の世界へ行ったら、なおその奥に行ったら、
それはそうなのだろう、と。
量子論を知らないのにです。
てか言葉自体がそこにあるのかも。
私には私が思うように世界はある、
それは私の體の感覚が捉えたもの、
その目や耳などの器官とその感覚、
それは私がつくったものではない、
それは私を創ったものがつくった、
そのことを思うのです。
それを疑う必要はない、
あるがままなるがまま、
そこに私の自由がある。
それはそうなのですが、
ハテ?