以前から折に触れ言っている。
この世界は「もの」と「こと」で出来ていると。
これらは一体のもので実態は「ものごと」だと。
そこで思うことがある。
物だけで事がなければ、
物は色形運動振動波動もなくただあるだけ、
このとき永遠と一瞬は同じものしかもそこに違いはなくすべて同じ。
そしてゆえに部分と全体の区別もなし。
しかして最早「ある」ことも儘ならず。
てかそこに「こと」があれば、
そのとき物は色形を見せそれに運動振動波動も。
ときに「とき」が現れて、
それが違いを見せ始める。
時とはそう言うものです。
すべてはそこから始まる。
あらゆる違いがはじまる。
そこでまた思うのである。
この世界は始まりも終わりもない世界だと。
始まりがあるならその前にあったものは?。
終わりがあるならその後はどうなるのか?。
事はそも初めもなく終わりもなくあるもの。
でもこれではどうにも決まりがつきません。
そこで仮の始まりと終わりを想定する。
これが人の語りの始まりです。
その最初のものが神話である。
・・・・・
分けるが言葉の技である。
為には違いを知る必要が。
ヒトの目の前にある世界(宇宙)はひとつ。
そこには「ものごと」がある。
それを見るのである。
それは動きばかりでなく、前後での色や形の変化も。
てか見てるのは事である、物ではなく事なのである。
物だけで事がなければそれは見えない。
それは多分何もないのと同じ。
てか物がなければ事もないが。
その物事を初めは見えるがままに見ている。
ヒトはそれをイをシキして見るようになる。
これが言葉の始まりとはずっと言ってきた。
言葉はゆえに違いを知るもの、
てか違うと想えて初めてシキする、
ゆえに同じを知るは言葉の技ではない。
そも同じはないのである、同じようなものはあるが。
あるとすれば究極の粒子だろうか。
物と事が完膚なきまで溶け合った。
実として見ることはなく、虚として知るより他ない。
しかして思っている、
ヒトの「ことば」は事の端であり言の葉であり、
そしてそれは事の場とともにある。
だからそれを「ことば」と謂うが、
これ以上の相応しい言い方を私は知らない。
てかこれらは当方のいつもの言葉遊び。
その実態は親父ギャグと屁理屈である。
にしてもこれらのことは日本語でこそ。
ゆえこの日本語の中で生きる日本人は、
知らず知らずにその思いを身に付ける。
文化文明という言葉もこの延長にある。
文が化けるそれが又先への明りとなる。
だから言うです、
日本語は私の様に口に出して言う前に、
既にその言葉の内にそれを抱えている。
面しろくも畏ろしい、
そんな言語なのです。
・・・・・
人間はその言葉に力があるのを知った。
ゆえ場にある根源の力を想うとき、
その力をもまた言葉に擬えた。
ゆえそれを発するものにも名を付けた。
ここに神が登場する。
名とは思えば上位の者が付けて与えるもの。
人が神に名を与えるのは不遜。
これが宗教に妙な影を落とす。
てか神は音読みは「しん」ですがこれを「かみ」と読む。
かみとは上とか天ということかと。
それを漢字で神とあてた。
これは「示して申す」であり言葉という謂いに合致する。
てかこの辺りの字義と読みの整合性を考えれば、
どう考えても漢字は日本の文字としか思えない。
てかこのことはさて置き、
これらを踏まえ思うこと。
聖書もほぼ同じことを言っている。
・旧約聖書創世記・
初めに神は天と地を創造された、
次に光あれと言われたらそこに光があった、
そこから次々と物事が創られていく、
その言葉に依って、
・
日本語訳の神は一般名詞でありしかもその力を表象している。
・マタイの福音書・
イエスは悪魔の誘惑に答えて言った、
人はパンだけで生きるものではない、
神の口から出る一つひとつの言葉で生きる、
・
一つひとつとはすべての「こと」に繋がるそれぞれの現象のこと。
・ヨハネの福音書・
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった、
・
一つひとつの言葉は勿論だが、
そこに通底して潜む力こそが神であると。
・
日本語はその内に聖書の思想が厳としてある。
ゆえ日本人は聖書の民であると。
てかこれは前から言っているが、
それは旧約聖書創世記の極初め、
新約聖書はその全般に見られる、
てか拾い読みしかしていないが。
・・・・・
そこでまた思うのである。
日本人が聖書の民と雖も、
それは旧約聖書の極一部、
罪を背負っての楽園追放からは最早ほとんど関わりなし。
聖書はユダヤ人が伝えたもの。
そのユダヤ人と日本人は同祖と言う人がいる。
てか人類はそもすべてが同祖であろう。
それはさておき、
てか日猶が同祖としても、
それは大方聖書以前のことでそこからすぐに離れた。
しかも離れたのは日本人ではなくユダヤ人の方です。
日本人は未だ原聖書の世界に留まっている。
そう思うのです。
それにイエスの言葉はまさに言霊の思想であり、
ヨハネは「ゴッド・ヤウエ・アラー」ではなく、
たぶん「神」のことを言っている。
そもイエスはときのユダヤを糾弾していた、
そして原点である聖書のかえれと、
そして又ユダヤの崩壊を見通し弟子たちに、
そのときは東にむかえと。
ここで私は確信する。
人種は知らず、でもイエスもヨハネも日の本の人であろうと。
してもときに東へ行った人らは行方知れず、
西へ行った人はそこでキリスト教をつくる。
そして人々に罪を背負わせた。
まったく罪つくりな話である。
てか、
この世界は「もの」と「こと」で出来ていると。
これらは一体のもので実態は「ものごと」だと。
そこで思うことがある。
物だけで事がなければ、
物は色形運動振動波動もなくただあるだけ、
このとき永遠と一瞬は同じものしかもそこに違いはなくすべて同じ。
そしてゆえに部分と全体の区別もなし。
しかして最早「ある」ことも儘ならず。
てかそこに「こと」があれば、
そのとき物は色形を見せそれに運動振動波動も。
ときに「とき」が現れて、
それが違いを見せ始める。
時とはそう言うものです。
すべてはそこから始まる。
あらゆる違いがはじまる。
そこでまた思うのである。
この世界は始まりも終わりもない世界だと。
始まりがあるならその前にあったものは?。
終わりがあるならその後はどうなるのか?。
事はそも初めもなく終わりもなくあるもの。
でもこれではどうにも決まりがつきません。
そこで仮の始まりと終わりを想定する。
これが人の語りの始まりです。
その最初のものが神話である。
・・・・・
分けるが言葉の技である。
為には違いを知る必要が。
ヒトの目の前にある世界(宇宙)はひとつ。
そこには「ものごと」がある。
それを見るのである。
それは動きばかりでなく、前後での色や形の変化も。
てか見てるのは事である、物ではなく事なのである。
物だけで事がなければそれは見えない。
それは多分何もないのと同じ。
てか物がなければ事もないが。
その物事を初めは見えるがままに見ている。
ヒトはそれをイをシキして見るようになる。
これが言葉の始まりとはずっと言ってきた。
言葉はゆえに違いを知るもの、
てか違うと想えて初めてシキする、
ゆえに同じを知るは言葉の技ではない。
そも同じはないのである、同じようなものはあるが。
あるとすれば究極の粒子だろうか。
物と事が完膚なきまで溶け合った。
実として見ることはなく、虚として知るより他ない。
しかして思っている、
ヒトの「ことば」は事の端であり言の葉であり、
そしてそれは事の場とともにある。
だからそれを「ことば」と謂うが、
これ以上の相応しい言い方を私は知らない。
てかこれらは当方のいつもの言葉遊び。
その実態は親父ギャグと屁理屈である。
にしてもこれらのことは日本語でこそ。
ゆえこの日本語の中で生きる日本人は、
知らず知らずにその思いを身に付ける。
文化文明という言葉もこの延長にある。
文が化けるそれが又先への明りとなる。
だから言うです、
日本語は私の様に口に出して言う前に、
既にその言葉の内にそれを抱えている。
面しろくも畏ろしい、
そんな言語なのです。
・・・・・
人間はその言葉に力があるのを知った。
ゆえ場にある根源の力を想うとき、
その力をもまた言葉に擬えた。
ゆえそれを発するものにも名を付けた。
ここに神が登場する。
名とは思えば上位の者が付けて与えるもの。
人が神に名を与えるのは不遜。
これが宗教に妙な影を落とす。
てか神は音読みは「しん」ですがこれを「かみ」と読む。
かみとは上とか天ということかと。
それを漢字で神とあてた。
これは「示して申す」であり言葉という謂いに合致する。
てかこの辺りの字義と読みの整合性を考えれば、
どう考えても漢字は日本の文字としか思えない。
てかこのことはさて置き、
これらを踏まえ思うこと。
聖書もほぼ同じことを言っている。
・旧約聖書創世記・
初めに神は天と地を創造された、
次に光あれと言われたらそこに光があった、
そこから次々と物事が創られていく、
その言葉に依って、
・
日本語訳の神は一般名詞でありしかもその力を表象している。
・マタイの福音書・
イエスは悪魔の誘惑に答えて言った、
人はパンだけで生きるものではない、
神の口から出る一つひとつの言葉で生きる、
・
一つひとつとはすべての「こと」に繋がるそれぞれの現象のこと。
・ヨハネの福音書・
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった、
・
一つひとつの言葉は勿論だが、
そこに通底して潜む力こそが神であると。
・
日本語はその内に聖書の思想が厳としてある。
ゆえ日本人は聖書の民であると。
てかこれは前から言っているが、
それは旧約聖書創世記の極初め、
新約聖書はその全般に見られる、
てか拾い読みしかしていないが。
・・・・・
そこでまた思うのである。
日本人が聖書の民と雖も、
それは旧約聖書の極一部、
罪を背負っての楽園追放からは最早ほとんど関わりなし。
聖書はユダヤ人が伝えたもの。
そのユダヤ人と日本人は同祖と言う人がいる。
てか人類はそもすべてが同祖であろう。
それはさておき、
てか日猶が同祖としても、
それは大方聖書以前のことでそこからすぐに離れた。
しかも離れたのは日本人ではなくユダヤ人の方です。
日本人は未だ原聖書の世界に留まっている。
そう思うのです。
それにイエスの言葉はまさに言霊の思想であり、
ヨハネは「ゴッド・ヤウエ・アラー」ではなく、
たぶん「神」のことを言っている。
そもイエスはときのユダヤを糾弾していた、
そして原点である聖書のかえれと、
そして又ユダヤの崩壊を見通し弟子たちに、
そのときは東にむかえと。
ここで私は確信する。
人種は知らず、でもイエスもヨハネも日の本の人であろうと。
してもときに東へ行った人らは行方知れず、
西へ行った人はそこでキリスト教をつくる。
そして人々に罪を背負わせた。
まったく罪つくりな話である。
てか、