この世界(場)は「ものごと」で出来ている。
「ものごと」は分けられない。
「もの」だけで「こと」が無ければ世界は消える。
このとき永遠と一瞬は同じに。
有と無が完全合体するのです。
さすれば場も消えてしまうと。
「こと」があって初めて世界が現われる。
そして「とき」も同時に現われる。
「こと」と「とき」は兄弟なのだ。
私は常々そう思っている。
ゆえ「ものごと」は分けられない、
本来一つのものであると。
それを世界(場)と言う。
でも人間は分けて考える。
それが言葉の本技だから。
ゆえいつも言っているのです、
それらは実ではなく脳の中の綾に過ぎないと。
だから慎重に扱わねばと。
ここに現下の問題のすべてがある。
だがこれを誰も言わない。
???
・・・・・
ヤマトには西の葛城に一言主が、
ヤマトには東の三輪に大物主が、
祀られている。
一言主は事代主と同じとも言われる。
物は有るもの、事は知るもの、の「ことしろ」である。
イエスは荒野で悪魔の試みを受けたとき、
応えて言われた、
人はパンだけで生きるのではない、
神の口から出る一つひとつの言葉による、
と。
一言主はときにそれを人に伝える、
又ときには人の願いを神に届ける。
物は有るもの、
物は有るものそこに有るもの、知るものではない。
知るとは言の技でそれを凡そ事代という。
「こと」は一つひとつで「もの」はすべてである。
ゆえ物の主には大を付ける、
そしてそれを大物主と言う。
しかして物と事はそも一体で「ものごと」という。
しても区切らなければ見えないのが事、
だから事(言)は一つひとつなのです。
しかして、
ヤマトからなお東に飛べばそこは伊勢、
神風の伊勢である。
そこには天照大神が祀られている。
天照とはその存在の有様でその実は光である。
それは神の最初の言葉で創られる。
すべてはここから始まる。
だから想うのです光は言葉と同期していると、
しても時がなければ事は区切れない、
ゆえ時とも同調していると。
その繋がりの中に、
場は在る。
・・・・・
更に東に飛べば、
そこには神風が祀られている。
神風とは私の言い方だが、
そこでは英霊と言われている。
所謂高名な神ではないが神は神である。
それぞれのときの命の想いが祀られている。
その想いは親兄弟妻子らの安寧であり為の国家安泰である。
それが靖国である。
その核は事績などではなくその想いにあり、
それを大和魂と言い或いは大和心とも言う。
しかして、
そこに祀られている思いは「平和」であり、
そこにお参りする思いも又「平和」である。
このこと疑いなし。
しても平和は如何になるのか。
為には色々方途があるだろう。
でも何がなくとも必要なもの、
それは覚悟である。
いざとなればとことん戦うという覚悟。
その上に種々の方策あり。
最も拙いのは逃げること。
逃げれば追われるばかり。
それは修羅を招く。
それを知ろう。
ともかくそこで祀られてるのは無名の人々の心。
無名とは言葉の綾で生きていたときの名はある。
それがそこに有る霊示簿に記されている。
ところで心は「こと」のこと、
名はまさに「こと」であると。
つまり「言」を祀っているのです。
あのヨハネは言った「言葉は神である」と、
その神(々)を祀っているのです。
そういうことです。
・・・・・
ここに神話がある。
神話とは始まりの物語りである。
言葉を持ち意識してこの世界を見たとき、
ときに神に出会う。
ときの物語である。
まだ嘘という言葉がないときの、
「まこと」の物語りである。
物語、この言葉に意味あり。
物は「もの」語は「こと」。
まさに「ものごと」のこと。
だから宗教哲学科学の基ともなるのです。
しても人の言葉は所詮は虚構である。
虚構は嘘ではない。
これは構えのこと。
神の言葉ではないということの表明。
ここから構えを取れば嘘となる。
これは人が人を騙すものに。
これが言葉を毒にする。
ちなみに虚構は素晴らしい。
面白い物語りとなり、ときに教訓ともなる。
小説漫画演劇映画アニメいろいろと。
既に言ったが日本は歌の国で歌う国、
同時に物語の国で語る国である。
現にJポップやアニソンが世界に浸透している、
現にアニメが世界を席巻している。
それに映画でも結構健闘している。
てか最近はハリウッドもタジタジのようだ。
しても日本の神話の一大特徴は、
神代から人代へ切れ目なく続いていること、
しかもそれは現代にもです。
そして今もその印しがある。
それは両陛下の存在である。
語り継がれてるだけでなく、
今も生きてそこに在られる。
・・・・・
思えば新約聖書は人の物語りである。
それが旧約聖書に呼応しているとは言え。
だから新約は聖書ではあっても神話ではない。
でも死してイエスは神となった。
ゆえ神話と言えなくもない。
だがである、
死して神となる、は神道の習い。
ならキリスト教はその内奥に神道がある。
これを信仰する者をクリスチャンと言う。
当然だがイエスはクリスチャンではない。
ではイエスは何者か、
それは神道の者だと、
私はこれを疑わない、
なんちゃって、てへ
「ものごと」は分けられない。
「もの」だけで「こと」が無ければ世界は消える。
このとき永遠と一瞬は同じに。
有と無が完全合体するのです。
さすれば場も消えてしまうと。
「こと」があって初めて世界が現われる。
そして「とき」も同時に現われる。
「こと」と「とき」は兄弟なのだ。
私は常々そう思っている。
ゆえ「ものごと」は分けられない、
本来一つのものであると。
それを世界(場)と言う。
でも人間は分けて考える。
それが言葉の本技だから。
ゆえいつも言っているのです、
それらは実ではなく脳の中の綾に過ぎないと。
だから慎重に扱わねばと。
ここに現下の問題のすべてがある。
だがこれを誰も言わない。
???
・・・・・
ヤマトには西の葛城に一言主が、
ヤマトには東の三輪に大物主が、
祀られている。
一言主は事代主と同じとも言われる。
物は有るもの、事は知るもの、の「ことしろ」である。
イエスは荒野で悪魔の試みを受けたとき、
応えて言われた、
人はパンだけで生きるのではない、
神の口から出る一つひとつの言葉による、
と。
一言主はときにそれを人に伝える、
又ときには人の願いを神に届ける。
物は有るもの、
物は有るものそこに有るもの、知るものではない。
知るとは言の技でそれを凡そ事代という。
「こと」は一つひとつで「もの」はすべてである。
ゆえ物の主には大を付ける、
そしてそれを大物主と言う。
しかして物と事はそも一体で「ものごと」という。
しても区切らなければ見えないのが事、
だから事(言)は一つひとつなのです。
しかして、
ヤマトからなお東に飛べばそこは伊勢、
神風の伊勢である。
そこには天照大神が祀られている。
天照とはその存在の有様でその実は光である。
それは神の最初の言葉で創られる。
すべてはここから始まる。
だから想うのです光は言葉と同期していると、
しても時がなければ事は区切れない、
ゆえ時とも同調していると。
その繋がりの中に、
場は在る。
・・・・・
更に東に飛べば、
そこには神風が祀られている。
神風とは私の言い方だが、
そこでは英霊と言われている。
所謂高名な神ではないが神は神である。
それぞれのときの命の想いが祀られている。
その想いは親兄弟妻子らの安寧であり為の国家安泰である。
それが靖国である。
その核は事績などではなくその想いにあり、
それを大和魂と言い或いは大和心とも言う。
しかして、
そこに祀られている思いは「平和」であり、
そこにお参りする思いも又「平和」である。
このこと疑いなし。
しても平和は如何になるのか。
為には色々方途があるだろう。
でも何がなくとも必要なもの、
それは覚悟である。
いざとなればとことん戦うという覚悟。
その上に種々の方策あり。
最も拙いのは逃げること。
逃げれば追われるばかり。
それは修羅を招く。
それを知ろう。
ともかくそこで祀られてるのは無名の人々の心。
無名とは言葉の綾で生きていたときの名はある。
それがそこに有る霊示簿に記されている。
ところで心は「こと」のこと、
名はまさに「こと」であると。
つまり「言」を祀っているのです。
あのヨハネは言った「言葉は神である」と、
その神(々)を祀っているのです。
そういうことです。
・・・・・
ここに神話がある。
神話とは始まりの物語りである。
言葉を持ち意識してこの世界を見たとき、
ときに神に出会う。
ときの物語である。
まだ嘘という言葉がないときの、
「まこと」の物語りである。
物語、この言葉に意味あり。
物は「もの」語は「こと」。
まさに「ものごと」のこと。
だから宗教哲学科学の基ともなるのです。
しても人の言葉は所詮は虚構である。
虚構は嘘ではない。
これは構えのこと。
神の言葉ではないということの表明。
ここから構えを取れば嘘となる。
これは人が人を騙すものに。
これが言葉を毒にする。
ちなみに虚構は素晴らしい。
面白い物語りとなり、ときに教訓ともなる。
小説漫画演劇映画アニメいろいろと。
既に言ったが日本は歌の国で歌う国、
同時に物語の国で語る国である。
現にJポップやアニソンが世界に浸透している、
現にアニメが世界を席巻している。
それに映画でも結構健闘している。
てか最近はハリウッドもタジタジのようだ。
しても日本の神話の一大特徴は、
神代から人代へ切れ目なく続いていること、
しかもそれは現代にもです。
そして今もその印しがある。
それは両陛下の存在である。
語り継がれてるだけでなく、
今も生きてそこに在られる。
・・・・・
思えば新約聖書は人の物語りである。
それが旧約聖書に呼応しているとは言え。
だから新約は聖書ではあっても神話ではない。
でも死してイエスは神となった。
ゆえ神話と言えなくもない。
だがである、
死して神となる、は神道の習い。
ならキリスト教はその内奥に神道がある。
これを信仰する者をクリスチャンと言う。
当然だがイエスはクリスチャンではない。
ではイエスは何者か、
それは神道の者だと、
私はこれを疑わない、
なんちゃって、てへ