ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

洗脳

2016-11-29 10:17:30 | 日記・エッセイ・コラム
教育と洗脳は似ている。
紙一重である。
だが、まったくの別物であり、
両極端にあるものなのだ。
洗脳を避けるための方途こそ大事であり、
それを為すのが教育である。
にも拘らず現今は、
教育という名の洗脳が横行している。
残念なことだ。
・・・・・
教育も洗脳もその基は言葉である。
それは伝える者の思いによって決まるものだ。
生まれた直ぐの子供には言葉は教えられない。
言葉はその初めは誰も教えることができないのである。
子供自身が内発的につかみ取るものである、
全身全霊、知恵熱を発して。
そしてある程度つかみ取る力ができたら、
その時初めて教えられるようになる。
なら最初につかみ取るとはどういうことなのだろう。
皆経験してることだが、誰も覚えていない。
不可思議なことである。
・・・・・
それでも言えることがある。
一つ、子供はそれをつかみ取る力を内在して生まれてくること。
二つ、生まれたときの環境に大いに影響されるということ。
実際にあった話であるが、狼に育てられた子供がいたという。
その子は結局人間にはなれなかった。
狼的な表現はできても、人間らしい振る舞いを終にできなかったのである。
時期を逸したのか、言葉をつかみ取る力ができなかったのだ。
子供は生まれた時のその現実に決定的に影響される。
すべては現実によるのである。
人間なら人として生まれてきたという現実、
魂の音(声=言葉)の中に在るという現実、
魂の音が場の事象に感応してるという現実、
等々。
・・・・・
教育と洗脳の分かれ目とは?
思うに、
言葉を現実に即したものとして教えるのが教育であり、
言葉を絶対化し現実を置き去りにするのが洗脳である、
と。
現実とは物だけではない。
事もある。
事とは時の経過であり、魂の軌跡(思い)である。
これが難しいのだ。
事に対する人の思いは皆それぞれであり、
同じ事でも違うのである。
だがそれを認めず一つの思いを絶対化する。
絶対化は他の否定につながる。
結局、現実を否定してしまう。
ということだが、
このことが分からない人がいる。
このことを分かろうとしない人がいる。
しかして、世界は洗脳に満ちる。
気を付けねば。

人間宣言という嘘

2016-11-21 12:42:41 | 日記・エッセイ・コラム
昭和天皇は終戦の詔の後、
翌年の正月にも詔を発せられている。
俗に人間宣言と言われるものである。
文章を見れば人間宣言と言われるようなものはどこにもない。
未曽有の事態の中でひたすら国民を思い、
その再起・奮起を願っているのである。
ただ、ある種の誤解については触れている。
以下、
天皇と国民の紐帯は天皇が御神であること、
日本人が他民族より優秀な民族であること、
それを許に世界を支配しようとしてること、
というのは架空の観念であると。
にもかかわらず、
戦後マスコミはこれを人間宣言と言っている。
奇妙なことである。
・・・・・
天皇は祈り主・祀り主である。
その初めより、そして今も。
神は神自身を祈り祀ることはない。
祈り祀るのは人であるからこそだ。
天皇は初めから人間なのである。
人間宣言とは笑止。
人が自分のことを人だと言って何の意味がある。
とんだお笑い種だ。
戦前の日本人も当然分かっていた。
当たり前田だの…である。
ちなみに天皇は陛下という。
陛とは階段である。
天(神の世界)に昇る階段である。
その階段の下で神に祈るのである。
階段の下で神に祈り続けるのである。
だから陛下という。
神に最も近い所に居るのが天皇なのだ。
しかも、その祈りは半端でない。
そんな天皇は庶民から見れば、正に神のごとしである。
だから、人で在りながら神なのである。
それを現人神という。
天皇は戦前も今も現人神なのだ。
・・・・・
だが、その詔を人間宣言と言っている。
戦後マスコミは連合国の言いなりでその手先でしかなかった。
それを隠してひたすら善意の顔をしてきた。
ここにきてメッキが剥げかけている。
というか剥げている。
ついでに言えば、
日本人は如何に勇敢に戦ったか、
それもただ自分達の為だけではなく、
虐げられている人々の為にも、
ということを隠してきた。
反対に、してもいない残虐性を喧伝する。
公共放送のNHKにおいてさえである。
もちろん、マスコミにいるすべての人々がそうなのではない。
一部には違いないのだ。
それは戦後日本に埋め込まれた地雷である。
そろそろ除去しよう。
踏まないよう細心の注意を払って除去しよう。
ともかく、嘘は止めよう。






剥げてしまったメッキ

2016-11-16 14:38:30 | 日記・エッセイ・コラム
メッキが剥げてきたと思っていたが、
どうも完全に剥げてしまったようだ。
お粗末なことである。
ちょっと前からリベラルを自称する人が、
減ってきてはいたのだが。
・・・・・
トランプ候補が大統領に当選した。
これはあくまで民主主義の選挙で選ばれたのだ。
ルールに則ったものである。
結果に対して不愉快な人もいるだろう。
そのことを表明するのはいい。
だが正式に大統領に就任する前から、
否定して反対するのは駄目でしょう。
それは民主主義に反する。
あまつさえ暴力的なデモまでして反対するのは。
それが今のアメリカの現実なのか。
例によって、マスメディアがそれを大々的に報道する。
本当は極一部のことかも知れない。
実際はどうなのか、
よく分からないが。
・・・・・
にしても、リベラルはいつも暴力的である。
なぜなら、自分は正しく絶対正義だと思っているから。
だから嫌なら何を否定しても正義なのだ。
正義だから暴力に訴えても勿論正義なのだ。
そういう考えである。
ロシアの共産主義革命がそれであり、
シナ毛沢東の文化大革命も、
カンボジアのポルポト革命もそれである。
なべて大量虐殺を伴う。
偽造・捏造でない正真正銘の大虐殺である。
これがリベラルの本質である。
その連中が今の日本では平和・平和と連呼する。
胡散臭い限りである。
・・・・・
リベラルは左派と謂われる。
その本旨は「人間すべて同じでなければならない」ということだ。
だから目指すところは共産主義革命である。
そうならざるを得ないのだ。
日本では未だ共産主義革命は成っていない。
これからも成らないだろう。
似たものを指向した事例はある。
戦前の2・26事件である。
軍の青年将校が世直しを訴えてクーデターを起こした。
天皇制社会主義を目指したとも言われる。
ちょっとした共産主義革命である。
いいところまで行ったが、結局失敗した。
天皇が激怒したのである、あの昭和天皇が。
それで一件落着である。
ここで分かることがある。
共産主義は一般的に左派と言われるが、
2・26事件は明らかに右派の業である。
だが、その内実はリベラルだ。
つまり、リベラルには右と左が有るということだ。
右も左もリベラルなら真ん中は?
それは保守である。
保守だけが真ん中なのである。
・・・・・
私はいつも言っている。
現実は現実であり、この世界のすべてだ。
良くも悪くもである。
だからともかく現実はすべて認める。
その上でどうするか、である。
それが保守である。
リベラルは理想を語る。
理想は頭の中の幻想でしかない。
それは未来を照らす灯りとするなら、良しである。
そこまでは良い。
だが理想に反するからといって、現実を否定しても意味がない。
現実は現実なのである。
無理に変えようとすれば、暴力に訴えることになる。
平和の為には戦争も辞さないのだ。
それがリベラルの悪弊である。
いい加減に気が付けよ、
と言いたくなる。







剥げてきたメッキ

2016-11-11 16:02:39 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ候補が勝った。
可能性はあると思っていたが、本当に勝ってしまった。
他国のことながら、今回は凄く関心があった。
終始トランプを応援していたのだ。
それはヒラリーが嫌いということもあるが、
何よりリベラルが嫌いなのだ。
トランプは過激な発言をするが、
正直と言えば正直である。
そこが良い。
・・・・・
世界は明らかに変わってきている。
「きれいごと」を言う者を信用しなくなっている。
欧州でもそうである。
イギリスのEU離脱もそれであり、
EU内での反移民もそれである。
「きれいごと」で世の中がきれいになるなら、
これほど素晴らしいことはない。
でも実際は逆で、どんどん悪くなっている。
世界はそれに気づき始めた。
もう、この流れは止められないだろう。
・・・・・
リベラルが嘘なのは何度も言っている。
言葉は現実から離れれば嘘になる。
そういうものなのだ。
それが分かっていながら、現実離れした言辞を弄する。
リベラルのそういう性癖にはウンザリである。
トランプは正直だと言ったが、
正直とは現実を直視するということだ。
現実から目を逸らさないのだ。
現実を見て、その現実に添った言葉を発っする。
それが大事なのである。
さあ始めよう。
皆で、正直を。
・・・・・
「きれいごと」を言って、富を掠め取っている者がいる。
俗にいうところの1%の人達である。
その中の更に1%が結局はほとんどの富を掠め取っている。
99%は生きるのがやっとである。
ちょっと言い過ぎだが、それが今日の世界である。
嘘の一つ、金融が富の源泉である。
世間のすべての人が金融に走れば皆金持ちになるのか。
それでは食料は誰が作るのか。
それでは衣料は誰が作るのか。
嘘の一つ、会社は株主のものである。
それでは役職員は何なのか。
役職員は株主のものなのか。
それでは奴隷と変わらない。
他にもあろうが、こんな嘘が堂々とまかり通っている。
既に気付いてる人もいるだろう。
それがいよいよ煮詰まってきた。
・・・・・
平和主義というのも嘘である。
平和は言葉の中にあっても意味がない。
現実に無ければ意味がない。
平和主義というが、
私は戦争主義という人を知らない。
未だ見たことがない。
それはつまり皆平和主義ということだ。
それで何故戦争が起こる。
平和主義というは平和とは関係ない。
平和主義という言葉があるだけだ。
実に嘘くさいのである。
平和主義者ほど本当の平和を考えない。
ただ平和という言葉が好きなだけだ。
まことに偽善者である。
・・・・・
平和主義だけではない。
人権という言葉も同じだ。
理由はどうあれ「あなたは人権違反者だ」と言われれば、
言われた者の人権は完全に無くなる。
言った者が最大の人権違反者になってるのにである。
今行われている言葉狩りはその一つである。
恐ろしいことだ。
これは正に魔女狩りである。
リベラルの世界はそういう世界である。
魔女狩りする者たちの世界である。
桑原、
桑原。




柱を立てる

2016-11-07 09:58:21 | 日記・エッセイ・コラム
人には誕生日がある。
父母が在るから生まれるのであり、
そして誕生し誕生日がある。
その時から慈しみの中で育ち、
育ちの中で教えや指導もある。
その上で立つのである。
一人の人間として。
人は一人で生まれてくるのではない。
人は一人で生きているのではない。
人は人とともに生きている。
人はすべての「もの」とともに生きている。
それが現実である。
・・・・・
人以外の生物も同じである。
そしてその生物の現実を生きる。
その生物の現実を。
ただ無心に生きる。
それを素直と謂う。
言葉を持たないものは、
命としての私はあっても、思いを持つ我は無い。
禅問答のようではあるが、
だから素直に生きられる。
人は面倒だ。
言葉があるから。
命としての私とともに、思いを持つ我が有る。
すなわち、
素直という言葉を持ったときから、
素直を意識させられ、
意識すればするほど分からなくなる。
これが人間だ。
・・・・・
だから柱を立てなければならない。
よりどころとなる柱を。
すべからく現実を認め、
善きにつけ悪しきにつけ現実に寄り添い、
その現実とともに生きる、
その精神の柱を。
柱は人それぞれ自由に立てればよい。
立てた柱を信じて仰ぎ見る。
そして思いを念じる。
信仰と祈りである。
信仰と祈りがあれば命(我)が鎮められ、
迷いがなくなる。
謙虚になり覚悟ができるのである。
謙虚という言葉は素晴らしい。
素直も素晴らしいのだが、これは難しいのである。
謙虚は意識しても立てられる。
というより、意識して立てるものである。
そしてそれは祈りとともにある。
・・・・・
日本は祈りの国である。
祈り主・祝い主・祭り主のおられる国である。
天皇がおられるのである。
国の真中・中心・中央に。
それも遥か遠く2676年も前から。
庶民もお参りに行くが、
結構気まぐれである。
それでもいいのである。
いつも天皇の祈りの中にあるから。
ご存知にように、
この祈りというものを見失ったのが、
シナ・朝鮮である。
父母が不明で、あやふやな誕生日しかなく、
つまり偽りの建国神話の中で、
祈りが無いから柱も立てられず、
政権維持に汲々としている。
それが彼らの現状である。
注意して見ていよう。
とばっちりを受けないように。
・・・・・
なおなお、
八百万の神様がおられる日本では、
柱とは、
神様の数え方である。