憂鬱感が出てますね。
この憂鬱感、酷かったころに比べれば全然軽いが、この気持ちを背負って生活していたと考えると、それは無理だと改めて感じる。
脳内分泌が深く関わるものだが、憂鬱感が強いときは、まさしく、何かが不足している感覚が強い。
それがノルアドネナリンなどが不足するそれこそが、燃料切れと同じことか、うまく言えないが、勢いが無い。
燃料たっぷりなら、一騎に行けるけど、無いために、目的に到着できない。こんな形容が正しいか。
健常ならば、そんなこと気にしないのが、鬱であるために、それが弊害になる。
お金が無いとしよう。借り入れや見込みを考えればどうにかなる状態で、健常ならば、それを待てば回避できるなどの考えができるが、鬱だと、目先の金欠にとらわれ、解決策が見いだせない。
もっと言えば図々しく生きられない、繊細になるということかな?
自分がそうだった。確かに心正しく考えれば、許されない生き方、事業もまともなんかでない。
成功者に憧れるも、成功者の生き方が心に映らない。
周り観ると、成功者は、かなり図々しくやる人もいて、それだからこそ、成功するなんて思うことがある。
自分の場合、些細ではないが、どうにかなることに挫折し、そのために先に進めない。それが蓄積し、たどり着いたのが鬱だったみたいな・・・
ここ2年くらいの自分を見ると、大胆になれることが多く、その大胆が、当時にあれば、落ち込み方も違っていたかな?
そして、精神障害になるには、必ずそういう環境や条件下にあるということ。「なるべく」してなるものだ。
今回、梅雨から何回も中古マンションを、とある女性に案内していたが、媒体からのでも私を通す話で、体調悪いのにもどうにかやっていたが、一昨日、問い合わせたところで契約したとか。それも直接私言わない。
流れるのは日常だし、それは構わないんだが、今までの労力はなんだったの?
一騎に疲れました。
まあ、今時珍しいレベルの「世間知らず」で、かなり翻弄されていた。今の私ならば、あの苦痛から解放と思えるけど、これ、調子悪の時は本当に鬱再燃するわ。
客だから、それくらいのことはするが、車迎えも、私が開けなきゃ乗らない。降りるのも、私が開けなきゃ降りない。
仮に降りても、ドアは閉めない。
内見も、あらゆるスイッチを入れて戻さない、窓を閉めるのはこっちの仕事だが、閉めるけど、閉めるのもちゃんとできない。
それと、自己中なので、会話が成り立たない。説明がきちんと伝わらない。
この物件も、私が動けるのに、勢いで行って申し込んだようだが、先着がいるんで、注意を促そうとしても、話をへし折るから聞き入れない。
紹介してくれた人がいるんだが、その人に話したら、同様なことは感じていたようだ。
お嬢様だったんだろうね。60年住んでるのに、土地勘が無くて。独身のようだが、異性に限らず、あの会話内容だと、人は敬遠するかも。
今回の申し込みも、先着いる場合のことを理解していないと思うんだよね。
それはもう私の責任ではないが、そういうことが怖いから私に依頼していたんだろうにね。
久々に見る、非常識な人でした。そう思えば、自分を責めなくてもいいかな?
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