The Last ward from Southen Cross to my future

目の前にある林檎は本当に林檎なんだろうか。その林檎は腐っているから林檎だって気づかないだけかもしれない。

日本政府は限度ある表現の自由を実現するための制御スキルも必要だろう

2015-01-24 11:49:21 | Weblog
拉致された人の母親が会見したのはいい。しかし、あの内容では浅間山山荘事件以上の悪影響となる可能性が高い。おまけに拉致された人がどういった背景だったのかなど暴露された。もし、日本国籍でないのなら、日本政府は何もできないのだが、そういった確認はしているのだろうか。日本国籍を持たない人の場合、出身国がどうするのか、それが重要だ。いい加減、朝鮮半島出身者は自分たちのアイデンティティーを誰もにわかるように公表した方がいい。日本国籍を保持する意味もないのだから、素直に自分たちの国と国籍に自信を持てばいいのに、何故、偽装するのか。日本国内で日本国籍でないとわかると差別される、という主張もおかしな話だ。そもそも差別されるような社会的背景が何故生まれたのか、そこを論じない限り、解決する糸口は見いだせない。竹島での民間人漁師虐殺と拿捕、国内での暴動による一般民間人への殺傷事件。これを無視し続け、差別だとかのみ主張するのは、朝鮮半島出身者だけだ。ほかのアジア出身者が国民的に嫌悪されるまでならないのは、こういった理由からだ。

日本人であっても、恥とか、他人への迷惑を嫌う、日本文化を理解できない場合は、日本社会から排除されていく。これが社会的制裁だ。これは差別ではなく、地域社会の治安維持のためには当然の権利だ。例えば、重犯罪者でも刑に服して、社会復帰時に新たな人生を送るという覚悟があるのなら、当初は地域が厳しい対応をしても暮らしやすい時期が必ずやってくる。民族だとか、宗教だとかの差別は、そういった一定の集団が日本社会に与えた影響がどうだったのかを知った上で、対応するしかない。だから、今回、国内でのイスラム教徒たちは自分たちの立場を明確にするために意見を公表した。Show the flag.今後はこういった一定の集団に対して、表明するのが当然となってくるだろう。これは日本の政治家や政党、有識者も同じ。自由だとか民主主義といっても、志が違えば、いっしょに生活していくのは難しい。これを無視して、手を取り合っていける、というのがそもそも無理がある。異文化、異民族だとしても、ともに生活するための共通認識が確立できなければ共存共栄など無理なのだ。
これが現実だ。この現実を認識した上で、どうやって共存共栄するのかを模索しない限り、解決できない。

テロ撲滅するためには、テロの目的が何かをメディアや有識者はもっと語る必要がある。日本は学生運動組織、新興宗教を被った組織というテロ組織がある。過去ではなく、まだ存続している点に注意頂きたい。日本の法律ではこういった組織を撲滅させることができない。ここに自由を掲げるためのジレンマが存在する。しかし、フランスを見てわかるように、テロという定義が明確になっているから、テロ側の意見、立場を表明した場合、即刻逮捕できる。実はこれがすごく重要な対処方法だ。自由は誰もが勝手にできる訳ではない、という表明にもなる。ある一定の共通認識の下で集まった人たちが構成する社会では、その社会を壊すための暴力による行動を許さない。選挙なりの平和的手段で既存の社会を変える。これが民主主義だ。こういった明確な認識が日本社会には存在してないようだ。だから、テロ組織を擁護するような意見を堂々と公的メディアで表明する政治家や有識者がいても、対抗する意見すらでてこない。呆れているからというのが本音だろうが。おまけに外国記者向けの場で、原発反対を表明する母親の記者会見など、いかに日本社会が秩序なく無法なのかを世界に広めているのが嘆かわしい。別に親だから息子の命が大切とも言えない。それほど、日本社会では親による子供の虐待、殺人という事件が多い。もう一つ驚いたのは、自分の息子を甘やかして育てたのか、社会のルールすら無視した状況という現実を、これまた母親が無視しているのに驚くばかりだ。こういった親が育てた子供が多いとなれば、日本の未来は暗いのかもしれない。法律を犯してまで自分の子供を守るという親であれば、さっさと現地に向かっていって身代わりになる、という行動なら理解もできるのだが。世界ではこの母親は息子を愛して、すべては日本政府が招いた結果という主張というような報道がなされている。これに対して、日本政府は違うという声明すら出せない。まさにこれこそテロ行為ではないのか。

そろそろ左右というイデオロギーでカテゴライズするのはやめたい。なにせ、日本の左翼はフランス左翼と比較すると、いかに自国を必要としてないのかよくわかる。だから自国民がどうであってもそれを守るつもりもない。日本の右翼も同じで、国体保持とかすらもなく、ひたすら自国を卑下しているだけだ。ある意味、日本ではイデオロギーが消失したと言っていいのだろう。それほど、日本国内は内部から崩壊はじめている、とも言える。

独裁、恐怖がつく政治を否定してもよい。しかり管理が甘い社会となれば、テロ組織などがたくさん育ってしまう。自由を守るためには、自分が何なのか、自由と勝手きまま、の何が違うのか、こういった思考を義務教育レベルから学ぶしかない。金太郎アメのような価値観の押し付け教育はやめないと、ますます日本はダメになる。
異文化、異民族が共存するためには、こういった共通項となる自由という定義が必須だ。日本国憲法に書かれている日本国民という定義をもう一度、読んでもらいたい。日本は島国という特殊な環境もあって、差別が少ない国だ。見た目の違い、言語の違いがあっても、抹殺するのではなく受け入れる選択をしてきた。もちろん、抹殺するような事件もあった。移民という概念が生まれる以前から、日本は他国の民族との摩擦があり、それに対して対応してきた。宗教も、時の権力者によっては仏教、神道、キリスト教などが迫害されてきた。外国人いうだけで殺されたりもした。こうやって学んだ今、たぶん世界でも入国制限の国が少ない国になっているはずだ。もちろん、犯罪者(麻薬など)には制限がある。しかし、日本への反日行為や政治運動をやっている外国人でさえ、入国できるような国という状況を、近隣諸国は少し評価してくれてもいいのではないだろうか。本人が暗殺される危機があるのに、こういった人や団体を入国させる政府というのもおかしな話なのだが。

宗教や特定思想の人だろうが、日本国内で既存の日本人と共存共栄しようとするのなら、日本人は両手をあげて歓迎する。ここに差別はない。だから地域社会でも言語が通じなくても、なんとか支援しようと努力をする。これは来日した外国人側も地域になじもうと努力するから効果が倍増する。日本にいるイスラム教徒たちが出した声明は心強い。そもそもキリスト教もイスラム教も原点は同じで、イスラム教徒だってキリスト教の聖書を読む。十戒が違う訳じゃない。食べるものの制限だとか、お祈りの時間だとか、確かに日本社会になじまない習慣もある。しかし、こういった違うをどう吸収していけるのか、地域、一般的な日本社会が考えることに意味がある。双方の歩み寄りの第一歩は、ともに違いを認識し、どう解決していけるのか、考えることから始まる。過去の歴史だとか、何も役に立たない。違うことは明確なのだから、それを共存するためにはどう乗り越えるのか、こういった発想がない限り、共存はできない。朝鮮半島出身者は、歩み寄ることではなく、自分たちの権利ばかりを押し付けた結果が、日本国民から嫌悪される理由だと気づかないのか、無視しているのなら、やはり日本から自国へ帰って頂きたい。日本はどの民族、宗教、思想であってもともに共存共栄を目指す人であれば、歓迎する。そういった国民性だからだ。

また、憲法9条があるから平和という訳じゃない。むしろ、日本の憲法9条が不完全で日本を守れないから安保で存在する米軍には感謝の意をもっと表してもよい。
金を払うから当然という日本人がいる。金のために人命をかけていいのか、と問いたい。安保という条約があるにせよ、土台にある思想が日本を守っているという認識がないと安保の意味がない。憲法9条がなくても、現代ではそうそう簡単に相手国への武力攻撃ができる訳もない。そもそも憲法9条がなくても武力攻撃するのに相手に通告しないで攻撃するのがルール違反だったのだが。まあ、奇襲攻撃が成果を出すのは、現代で難しいだろう。なにせどこからも監視されているのだから。いっそ、国連軍が世界を監視でもすればいい、と冗談で言ってみたくもなる。もちろん、そんなことをすればSF映画や小説のように世界を武力で制する組織が生まれるのだから、受け入れるこことはできない。

日本は過去に武力による侵略を選択し、その犠牲者も多く出した。この点を反省してない、という近隣諸国にはどうすれば反省していると理解してもらえるのか、という対話も戦後継続してきた結果が村山談話、河野談話だ。これを否定しない日本にこれ以上の反省を要求というのなら、日本はそういった国との交流には制限するのも筋かもしれない。過去を反省しない極悪な国との交流は、相手国にとってもデメリットなのだから、民間交流を含めて数を減らすという発想も必要だ。これは嫌味ではなく、親日家を法的に処罰するような法律がある国と民間で友好を継続する、となれば、相手国にも犠牲者が出るのだから、本来は相手国の国民を考慮すれば交流は制限されるのが筋という意味だ。これをビジネスという目的で無理に交流をするから、間にいる双方の国民が犠牲になる。解決するのは時間しかない。

日本にとっても、問題がある国以外の外国人労働者、学生を増やしていけばよい。もちろん、文化も従来の近隣諸国中心から、未知の文化が流れ込むことで、新しい文化が誕生していくことに期待をしたい。ビジネスもだ。過去だとか、歴史だとかにこだわる限り、未来へ目を向けることは難しいだろう。日本は敗戦してよかった。過去にこだわる必要もない。たぶん、緩やかに過去からの習慣は変化していき、やがては新しい習慣が主流になる。こうやって人間は新しい文化を形成してきたから、地球上で生き残った。もう一つ重要なのは、自由だ。思想や思考の自由。民族なんて、単なる物理的な違うだけで、人間という本質を形成する部分は共通だ。環境によって人間が進化しただけで、人間を形成する遺伝子は同じ。種の保存のために性が存在するだけだ。神が作ったと信じている人もいる。それを否定する必要が出てくる場合は、そこでどうするのか考えていけばよい。つまり宗教、思想なんて、不可欠な訳じゃない。人はパンのみで生きず。しかし、パンがなければ生命は維持できない。パンがなくても米、肉、果物があれば生命は維持できる。おなじく特定の宗教、思想ではなく、全部合わせても、まったくなくても、生きていける。ただ、人間同士が手を取り合って形成する社会がなければ、生命を維持するのがかなり難しくなる。それでも手を取り合いたくない人たちがいる事実も無視はできない。

国の治安が安定しているからこそ、国の意味がある。貧困の定義も誰もが食事ができ、雨風防げる家があり、寒さをしのぐ服があるのなら、貧困とは定義できない。
物質的な価値観からの変化。たぶん、これも影響して世界は変わろうとしているのかもしれない。家族、隣人、友人の必然性。こういった関係が新しい地域社会を形成していくのだろう。実は日本の漫画や小説には、言語が違う異民族による未来の社会という舞台がたくさん出てくる。そして、宗教もだ。宗教には異文化だとか、言語の違いを吸収して、まとめる力がある。日本だって、神道に興味がなくても正月には初詣に行く。たまに宗教上の理由で断る人もいるが、大半は行事として受け止める。だが、願い、おみくじは、人間を超えた何かに願う、そこからの助言を求める、という行為であり、立派な宗教だろう。多くの人がこういった無意識上での行為は、社会において影響がないとは言えない。誰もが平和を望む。平和を維持するするためにはどうするのか、という発想がなければ、いくら憲法があっても平和を維持できない。それでも剣を取って戦うことは否定できない。なぜなら、みずからの命を守るのは最終的には自分自身だ。そういった状況にならないために、いろいろな策もある。そういった社会のルールを無視している人への救済を訴える人がいないのは当然の結果だろう。これを村社会というのなら、それでもよい。こういった長い時間をかけた経験が作ったシステムだ。悪い面もあるが、集団で安全を維持するシステムとしては、現段階では最良の策だろう。カルネアデスの舟板。リーダが担う責任の重さを、今、すごく感じる。国民から避難を受けたとしても決断せざる得ない状況もある。リーダが孤独というのはこうゆうことだ。しかし、孤独にさせてはいけない。
民主主義の主権は国民だ。だから国民も共に責任を担う覚悟がないと、無責任だ。

日本の社会は無責任な政治家、有識者をどう社会的制裁を加えるのか。表現の自由、意見の自由があるとしても、多くの人に影響する事柄については、ある程度の処罰を定めていかないと、治安維持ができなくなる。特に有事となれば、確実に社会は混乱する。そのための法律や対処も決めるきっかけになるといいと自分は考える。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする