The Last ward from Southen Cross to my future

目の前にある林檎は本当に林檎なんだろうか。その林檎は腐っているから林檎だって気づかないだけかもしれない。

日本の自由はどこにあるのか

2015-01-12 07:46:37 | Weblog
ある方向へ読者を誘導するためのねつ造記事を正義というメディアには、言論の自由はない。今回のフランスで起きた風刺記事の発行者への武器による虐殺は、テロだ。風刺記事はねつ造ではなく、三大宗教、政治、思想家すべてを風刺の対象としているが、ねつ造はない。日本の原子炉事故の風刺でさせ、刺激的で日本人からしたら相当腸が煮えくり返る。しかし、武器で殺傷したいと思っても実行はしない。せいぜい公式に抗議をするだけで、抗議デモすら起こらない不思議な国、日本。韓国の大統領に関して、韓国発行の記事を題材にしたという理由で名誉棄損だとかで逮捕された日本の新聞記者もいる。武器で殺さない変わりに裁判で処罰するつもりらしい。

言論の自由は民主主義土台だ。芸術作品をはじめ、サブカルチャーにおける児童ポルノという規制も言論の自由の範囲らしい。しかし、経済が苦しい国では、いまだ児童が売春をしている。これをなくすためには経済が誰もが生活できるだけの労働による賃金を手にしなければ不可能だろう。宗教への批判も、日本なら差し詰め天皇陛下が卑下されたら日本国民が怒る、ということだろう。政治的批判も含まれる。むしろ、何故、風刺で批判されなければいけないのか。風刺の対象になるだけ話題性があるから題材になる。原子炉事故は世界中の注目の的だった。素人対応で、米国ですらハラハラして、国務長官がすっ飛んできたぐらいだ。幸い、直接の被害者としての死亡者はいない。影響については、人間以外も含めてゼロとも言いがたいが、必ずしもマイナスという訳でもない。

それでも自分は言論、表現の自由を守るという立場に立つ。政府だろうが、学問だろうか、批判することができない社会は危険だからだ。行儀がよい、とは、言うべきときには言うことだ。そのためには主権を持つ国民が賢くならなければいけない。自国の防衛に必要な同盟を維持するために集団的自衛権を確保し、専守防衛を確実に実行するために憲法を改善する。仮想敵国相当の国へ国家機密規模の情報を垂れ流さないように制限する法律ですら、反対する日本国民は自分以外の他人の生命や財産など考えていないに等しい。未だに憲法9条があれば戦争しない、という幽霊や宇宙人はいると証拠もないのに信じてる人と同じだ。イワシの頭を神として信じるなら害もないが、国防で根拠もなく憲法さえあれば戦争しない、という発想は愚かを越えて、精神的にまともでない人たち、と感じる。

さて、自由を手にするためには、自由を阻害する勢力と戦わなければいけない。内乱、または外国と殺し合いをしても自由を守る。殺し合いをしないで、自由を捨てる、という選択もある。物理的に生きていけるのなら、自由などいらない、ということだろうか。テロは、単に殺すだけが目的ではない。恐怖を与え、ゆうことを聞かせるのが目的だ。単に復習というのなら、空から爆弾を投下したり、ミサイルを撃てばよい。これはある国が攻撃してくるのも同じ。こうなると犠牲者は必ず出るから、事前に防ぐための情報収集が必要だ。もちろん、こういった情報が漏れるのは担当側へのリスクが高まるだけではなく、防ぐ策すら漏れてしまえば犠牲者は出る。機密保持がいかに重要かよくわかるはずだ。悪用すればなんでも機密にしてしまうこともできる。だからそれをやれないように策を講じる。自由だからテロや敵国に情報が洩れ、犠牲者が出る、または増えるのは当然だから、機密保持はいけない、と抗議するのだろうか。

抗議の行進には、欧州以外に南米のブラジル、トルコ、バングラディッシュなど40か国以上の国のトップが参加した。残念ながら日本は参加してなかったようだ。新聞、雑誌などの協会からも誰も参加しなかったようだ。ヘイトスピーチに反対している組織や集団からも参加してなかったようだ。日本の自由はどこにあるのか?たぶん、誰も日本社会から言論の自由がなくなるとは考えてないのだろう。否、日本人側の自由ではなく特手国人の自由がなくならない、ということだ。ここ日本には人道的だとか、人権という思想もない。言論の自由を失えば、人権を侵されても声を出せなし、人道的破壊を伝えることもできない。ただ体制に流されていくだけだ。

革命による自由を手にするために同国人の血を大量に流した歴史のl国。日本は未だ日本人の自由を守るために戦うという人はいない。せいぜい、個人や社レベルで名誉棄損で提訴するだけだ。自らの記事が正しいと主張した元新聞記者が名誉棄損で訴訟している。個人の名誉のためであって、日本社会の名誉棄損はどうでもよいらしい。日本人の名誉も、あなたは間違っているという指摘する言論の自由もない。だから確固たる証拠を提示しあい、結論を出すのはいいことだが、傷は相当深くつくだろう。名誉は社会の自由より大切なのか。言論の自由は制限されるべきなのか。課題は山積みだ。

日本は方向転換を迫られているのかもしれない。報道に対して、誤報、ねつ造に対して厳しい処罰(発行停止など)をする。反面、表現を自由は年齢などでフィルタリングするとしても、発行停止というような制限はできるだけしない。反社会的な内容はいつの時代も存在するので、地下で広まる方が危険でもある。むしろ、多種多様な意見で議論ができる社会にするのが先決だろう。有識者だけではなく一般人の声も聞き、議論は公開されるのが好ましい。もちろん、証拠を提示してだ。

自分の名誉は家族のことより大切という自己中心的な記者が、本当に平等な目で物事を見て記事をかけるのだろうか、と自分には疑問がある。大半は宗教、思想を持ち、その上で自らのポリシーを明確に表わして記事を書く。ノンフィクションライターですら、誇張はしても証拠はある。証拠もポリシーもないのなら、フィクションであって、事実を伝える報道の記事とは言い難い。世界中の新聞が訂正記事を載せなくなったのは、いつからだろうか。事前に内容をチェックしているからなのか、抗議がないのか。それとも報道とは、事実を伝えるだけではなく、何らかの主張を訴えるために存在している、と言いたいのだろうか。もし、そうならばそんな報道の存在はいらない。風刺に徹した姿勢はある意味、好感が持てるのはこうゆう意味だ。
日本にも間接的内容で表現する手法もある。内容によっては誰かが傷つくかどうかは、訴訟で判断するしかない。しかし、過去の栽培で名誉棄損で名誉を回復した人であっても、わざわざ訴訟した人と日本社会は「少々面倒な人」という印象を一般人は持つ。離婚で裁判するのでさえ、「面倒な人」と思われるだけだ。これはどう法律を作ろうが、変わるには時間がかかる。もちろん、再度、名誉を傷つけられたら裁判するしかないだろうが、繰り返すたびに社会から疎外されていくのも事実。社会になじめない人という典型的なタイプかもしれない。こういった社会になじめない大人が増えてきたのかもしれない。だから体制が悪い、政府が悪い、会社が悪いと誰かのせいにしないと自分の存在がなくなるのだろう。

証拠を持って議論ができなければ、そこに存在する事象を事実と認めさせるのは難しいだろう。まして、何十年も前の話となれば、人間の記憶は記憶を書き換える(ねつ造する)。一番よい解決方法は、この話題には触れないことだ。教科書の記述云々も近隣諸国から内政干渉されないように抗議するぐらいは、日本政府としてやって頂きたいものだ。ほかにも日本の政治や法律など、外国から口を出されるたびに、内政干渉と言って頂きたい。抗議するぐらいなら、こういった日本への内政干渉も抗議したい。

日本国内でも過去の過激派組織が生き残っているのだから、公安警察もしっかり働いてもらいたい。もちろん、法整備もしっかりやって、内部侵略を阻止できるような体制にしないと、戦争より恐ろしい結果になる。しっかりやってください。


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