社会の治安が悪化したのは、必ずしも不法移民が増えただけではない。つまり各国政府が自国の安全を守るために行動してないだけなのだ。米国で万引きし放題になったのは、当初は貧困な違法入国してきた移民だった。次に米国内の低所得層で社会に不満を持っているアフリカ系米国人たち。そして、今は米国内で経済的に苦しくはないが、高額な携帯電話とか簡単に買えない世代の白人たちがやっているのだ。まさに、犯罪は進化するというのを現実で見せてくれている。英国やフランスも同じで、当初は違法入国移民たちによる暴動が常になり、次は低所得層による不満が暴動になっている。それぞれのグループは宗教的な集まりだったり、文化が同じ移民同士だったりして、それぞれの国の人へ暴力を使いたい放題なのだ。ところが、偉い人たちは何の被害にも遭わないので、人種差別とか言われたり面倒なので、そのまま放置しているようにも見える。世界は二極化分断されていくのだろうか。
イスラムフォビアとは、イスラム教徒はすべて出ていけ、嫌いだ、殺傷してもよい、みたいな反応をする人たちのことだ。恐怖があるから、こういった対応になる。イスラム教徒といっても、きちんと高等教育を受けている人と、読み書きも怪しい教育レベルの人ではまったく違うのだ。何故なら世界で自分たちが孤立し、争いになっても勝てないのは理解しているのが教育を受けた人たち。だから、共存共生を模索してきている。なんちゃら原理主義でも同じで、教育を受けてなく現実の世界を知らない人たちは、自分たちの文化で世界を統一するのだ、となりやすいのだ。これは宗教だけではなく、思想も同じ。世界人口81億人を統一するなんて、そうそう簡単ではない。まずはそれぞれの国が軍備と核兵器まで持っているのだ。そうそう簡単に自分の向かう方向を曲げる訳にいかないだろう。実は話し合いとは、まさに外交そのもので、貿易を含めた実利を武器に交渉することだ。戦争だって、はじめはこういった交渉を継続し、そのうち、我慢できなくなって武力でドンパチ始めるか、かつて日本がやったように突然、相手側に武力で進撃するか。まあ、国際法を含めた取り決めはあっても、それを守らないとしても、戦争で勝てば罰則もなにもないのだ。勝てば官軍。日本はこれから学んだから、戦争放棄を選択した。まずは復興し、天皇を守るためだったという説が自分がもっとも納得できる。つまり、天皇という存在が日本文化そのものという意味からなんだろう。しかし、この皇族たちはまったく日本国への貢献をしてないのだ。学者云々というが、日本史や神道の研究の学者がいないのだ。不思議だ。まあ、英国はアーサー王が始祖らしいが、王族の系列は英国やアイルランドどころじゃない。みんなありがたがっているのだが、現実はこんなものだ。日本の天皇といえば、たとえば、和歌や短歌の名人でもないし、楽器の西洋楽器を演奏するだけで日本古来の楽器は演奏できないのだ。これで日本国の象徴と言われると「エセモノ」と言いたくなる。世界の歴史を見ても、自国を愛し、自国の歴史や文化を学ぶことが皇帝学の一部と言われていたのだが。日本は身分制度がなくなり、それでも元華族とか皇族とか、まるで動物の血統自慢と同じなのだ。こういった一族に使われる税金は膨大な額だ。警備費だけでも相当な額になる。そろそろ日本もきちんとした民主主義による共和制国になってもいいだろう。 別に皇族がいなくなっても神道や神社が終わるわけではない、何故なら皇族の誰一人として神道だと明言している人はいないのだから。これは過去からの経験で神道は誤解を招くとでも考えているのだろう。それにしても他宗教の大学で学ぶというのも、宗教学でも専攻しない限り、ありえないのだ。
ぜい、次世代の政治家は、民主主義による共和制を目指す人物が出て来てほしいものだ。日本が目指す未来とは、民主主義による共和制による社会。政治の仕組みとしては大統領制になったところで、あまり変わらないだろう。なにせ、今でも誰が与党党首がいいのか、と人気投票みたいなメディアからの記事ばかりなのだから。政策について、専門家による検証を記事にすらできないメディアは終わっているのだ。アイドルなどの人気投票と変わらない。これが現代日本の選挙なのだ。まあ、米国の大統領選も似たようなモノで、政策を検証し、論評するメディアはなく、自分たちに都合が良い人なら、何がなんでも褒めちぎり、敵側の脚を徹底的に引っ張る。どうすればいいのだろうか。SNSもあるが、どうも感情であれこれ文句をつけて脚を引っ張るだけで政策への反論にしても、きっちりできるレベルでもない。まあ、経済なんて検証するにしても、成功した経験がない日本としては難しいのだろう。昼も夜もただ働いて、モノを作って売って戦後の日本経済を上り上げた世代はもういないのだ。なにせ金より自由な時間がほしいという世代だ。日本国がなくなっても、どこかに逃げればいい、と軽く考えているのだろう。まず、日本国が破綻すれば、ビザすら取れないから他国が入国すら許可しなくなる。実際に若い女子が買収容疑で入国時に厳しい取り調べをされるのは米国だけではなくオーストラリアでも同じだ。ワーホリビザでさえ、買収容疑は無くなってないので、近所から人の出入りが激しいだけで警察に連絡が来るらしい。日本は貧しくなっているというのではなく、日本社会がどんどん壊れていっているというのが、正しいと思う。高級服や高級自動車を持ってなくても、日常生活で余暇には小さい旅行ができるレベルの世代はまだまだ多いのだ。一億総貧困ってのはありえない。贅沢ができないではなく、贅沢より日々楽しく生活できる友や華族がいればいいのだ。だが、戦後、ずっと信じて来た政府はダメで、自国民を犠牲にしてまで、それも違法入国者、経済自立できない外国人を増やしている。反面、まじめに年金を納め、引退しても生活できないで働けるまで働けと言われる日本国民。どうしてこれで国を信頼なんてできようか。愛国心なんてまったくない。愛に見返りはない、とどこかの宗教みたいな説明されても納得はできないな。愛よりもまずは信頼関係が維持できるかどうか。これが維持できなくなると、一般的な世界では革命がはじまるのだ。日本は歴史的に革命で時の政府を転覆した成功例はない。いい政治だったからではない。ある意味、生まれた時から身分や経済で差別される社会がずっと継続しているのだ。実際にはジャパンドリームと呼ばれる成功者の話はある。だが、これも昔だけで、昨今はほとんどない。これは日本以外でも同じで、みんな家族や友人たちと日々楽しく過ごして余生を終えるのが望みになってきているのだ。だから国を守るとかで自らの命を失いたくない若者も増えている。だって、戦争して勝っても、またどこかから武力攻撃されれば戦争は未来永劫に続くからだ。
他国から武力で攻撃されないだけの防御力とは、強い軍備と経済が武器になるのだ。エネルギー問題もメタンハイドレートがああるし、水素もある。これらをどう開発できるかに未来はかかっている。ところが日本政府はこういった開発も真剣に考えてない。EV自動車より水素とのハイブリッド車でいいのだ。電車とかも水素による発電だって、開発費用なんてすごく安いのだ。原発よりもコストがかからないようにするためには、まずは事故発生して回復するための時間を含めた対費用効果から水素による発電を比較すればいい。できれば双方開発すれば宇宙時代に核エネルギーを熱エネルギーとして利用できるからだ。どうでもよい研究している大学などに資金を支援せずに、こういった実益につながる研究にはできるだけ予算を割いてでも支援するべきだ。問題は他国からのスパイとなる外国人学生はオフリミットで開発することと、関係する学生なども含めてすべてスパイ罪による処罰の対象とする。極刑もしっかり定めるぐらいにしないと、技術は簡単に盗まれる。
水素発電:https://eleminist.com/article/3508
一酸化炭素から水素:https://engineer.fabcross.jp/archeive/220512_purifies-hydrogen.html
大気中のCO2を資源に変えられるってホント:https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00242.html
民間企業を含めて、働く人材がやる業務内容を見直しし、できるだけ労働人材を減らす。スキルがいらないような業務はAIに取り換えればいいのだ。それこそ電話対応など、コールセンター式受付し、緊急内容が以外はメールで送ってもらえばいい。F2Fなんて予約が必要でいいのだ。それよりも日々やるべき業務をこなすのを優先する。まあ、そのためのカスタマーサービス部門なのだから。グローバル化すればするだけ、オンラインでのミーティングや面談が増えてくるだろう。そうなれば、日常的な通勤や通学が不要になってくる。なにせ通勤時間だけで疲れ切るのが日本の会社なのだ。製造業などのように人と関わって業務を進める職種以外は、オンライン業務で良い。成果によって賃金は決めればいいのだから、年齢制限はない。学歴も同じで、知識や必要なら入社試験で選別すればいい。雇用契約は3年ごとに更新制でよい。地域ごとに学校があるように、子どもを預かる公共場所を設置する。利用できるのは地方税の納税者、かつ日本人のみとする。何故なら少子対策としての子ども預かり所だからだ。可能なら子ども預かり施設も24時間対応にしたい。保護者の職業が何であっても対応できることこそ、重要なポイントだからだ。こども庁の予算が防衛費なみってのがおかしいだけだ。まずは外国人の子どもはすべて保護者負担。あくまで日本国民の少子化対策としての施設なので、宗教的制限には対応してない。アレルギーなども医師の診断書に従うレベルで良い。それ以外の疾病については、看護士が必要ならこういった施設の利用ではなく、特別こども預かり所を公立病院などに設置して預かればいい。かかる費用については、小学校の給食費と同等の給食費にケア分で計算する。小学生から中学生までを対象とする。保護者がシングル親であっても利用できることがポイントだ。外国人の場合、雇用側が用意した施設を利用してもらえばいい。自営業などは民間のこども預かり所を利用してもらう。ただし、日本国内なので、日本語以外を要望するのなら、出身国の大使館などに相談して自国の文化でこどもをあずかる施設を作ってもらえばいい。
一番のポイントは、ここは日本。まずは日本国民が利用する前提で考えて実行する。それが成功すれば、外国人だって真似して自分たちの学校やこういった預かり施設を作るだろうから、日本国がそこまで関与しないでもいいと考えて実行するべき。これは老人介護施設も同じで、もっと公共施設を増やして、部屋も寝るだけならカプセルホテル並みのサイズでいい。公共の場があるのだから、寝るだけならそれで十分なのだ。自宅での介護を減らす理由は孤独死を減らすためだ。もし、自宅というのであれば、毎日定期的にテレビ電話のようにデバイスで会話して状態を確認するなどで、孤独死を減らす。介護士の訪問もいいが、中には知らない他人が毎日入れ替わりくるのを嫌がるお年寄りがいることも知ってほしいのだ。だから担当制がいいと提案した理由でもある。また、未だに利用者さんから盗難するなどの犯罪があるのも事実だ。担当制かつ監視カメラ設置、高額な貴重品は親族や個人用金庫に預けてもらう。自宅介護より集団介護施設の方が人と接する機会か増えるので、ボケも進まないという研究もあるのだ。あと動物もいっしょに生活するのであれば、集団生活の方が良い。まあ、日本政府をはじめ、政治家はみな自国民の安全など考えてないから、自分たちで守るしかないのだろう。そうすると自宅で老人が一人で住むリスクは盗んでください、と言っているようなものだ。
老後の生活が暗くてつらいのなら、若者だって未来が暗いと感じるだろう。子どもとお年寄りがたくさんの笑顔を見せている社会なのかどうか。贅沢な生活ではなく、安心して安全な地域社会こそ、誰でも望んではいるはず。ところが文化や習慣が違う人との共存となると、なかなか衝突しないで日々暮らすのは難しいのだ。特に歳をとるとだ。新しいことに馴染むのが難しいからだ。中には好奇心や冒険心を持っているお年寄りは、新しい出会いや機会を楽しんでいる。こういった点でも日本社会はどんどん変わらざる得ないだろう。世界では若者とお年寄りが共存共生するコミュニティーを実験的にやっている。そう、孤独死しないためだけではなく、孤独になると痴呆症が進むからだ。つまり、お年寄り自身がちゃんと社会に参加して日々生活できることと、若者も家族とは別な新しい人間関係によって孤独に悩むよりも、自分たちゃんと社会に必要な人材だという認識することで自殺率もほぼなくなる。ここに文化が違うお年寄りや若者も含まれるのだが、基本的なコミュニケーションはその国の文化というルールがあるので、言語や宗教的な相違による問題は少ない。例えば、LGBT問題なども、宗教的に認めないお年寄りのコミュニティーにはLGBTの若者はいないのだ。これを差別云々ではなく、価値観や習慣の違いを変化させるためには、とても時間がかかる上に、お年寄りだとなかなか受け入れてくれない現状もある。だから双方で不快な気持ちにならないためだ。共存はできるが、距離を置ける共生として受け入れるという感じなので、普通の生活そのものなのだ。つまり介護士として触れる場合のみLGBTを考慮するのだ。反対に、LGBTのお年寄りたちは、介護士がLGBTなのを歓迎している。動物好きや嫌いな人のコミュニティーとか、それぞれ日々の生活習慣によってコミュニティーの形成が変わっているような社会だ。そりゃ生理的な不快感はいくら論理的に理解していても、なくならない、という発想なのだ。ゆえに言語が違いコミュニケーションが円滑にできないという不快感があれば、言語が共通でない人との生活をしないで住む環境を望むのだ。差別と騒ぐ前に、生理的な不快感が与える衝撃がどのようなものかよく考えてほしい。特に政治家たちにだ。支持者の声なんてよりも、まずは生理的な不快感を社会に感じているかどうか。これを社会でどう対処するのか。一つにはお互いにリスペクトできる関係こそが、社会を不快感なく運営できる、と言われている。夫婦、家族、地域全体に言えることだそうだ。確かに自分が快適と感じるのは、お互いにリスペクトできる人ばかりだ。自分が不快なら「なんかこの匂いが苦手なので」と口に出して言うと、窓を開けようとか、場所を移動しようとか提案すればいい。これを体臭がダメといって相手に出ていけ的な意見を言うのは、お互いにリスペクトしてないのだ。ここでお互いにリスペクトを持ちながら会話することで、どちらかが出ていくことになったとしても、そこに遺恨はほぼないはずだからだ。これがお互いにリスペクトできない共通の場であれば、口に出して話すと相手の争いになるから、自分が出ていくか、相手を追い出すかしか選択ができなくなる。法律とかルールがあるのは、お互いに不快にならないで共存するためなのだ。ゆえに法律に従わない人、日本人でも外国人でも、小さい地域社会からすれば異分子としか感じないため、「出ていけ」となる。これを差別という大雑把な価値観で圧政するから、ますます両者の関係は悪化し、距離も近づくことさえできなくなるのだ。感情ではなく、あくまでルールなのだ。ここが理解できない政治家や有識者はどうして世界が武力まで使って争うのか、根本的な問題を解くことはできないだろう。つまりルールが感情を生み出しているのだ。ならばルールをなくせばいいというのが、短絡的思考者で、これが一般的に左翼と言われる人たちだ。ルールを守るということで、安定を維持するのが右翼なのだ。極端に言えば、法律をなくせば犯罪者がいなくなる、という理論だ。そりゃそうだ。しかし、そこには無法地帯でまさに映画や小説に漫画によるダークな社会が想像できるだろう。そんなのは嫌だ。だからみんな、もっと遊びたい、もっと楽しないと思っても今を頑張って生きているわけだ。
宗教が生きる指針となってる場合、この指針を変えることは、死そのものなのだ。まずはこういった点を理解してほしい。何故、宗教や思想の自由が保障されるのかだ。お互いにリスペクトを持ち、共存共生するためにはお互いが歩み寄ることしか手段はない。例えば、武力で争ったとしても、感情の問題は何世代も継承されている事実もある。別に住む場所にこだわらないのならそれで終わるだけの話なのだが、その場所に資源があったり、宗教的な価値があると何世代も争い、どちらかが殲滅するまで継承されないとならないのだろう。殲滅といっても、世界中に散らばっている場合は不可能だよなぁ。それまでも殲滅するって、まるでナチスが行った行動そのものだ。関係ない自分たちからすれば、こういった見方しかできないし、公共の場で静かに安全に過ごせない状況の原因は双方にあるとなれば、双方への嫌悪感となるだけなのだ。文化、習慣の違いをどう乗り越えて共存できるかと言えば、お互いにリスペクトできない関係なら、棲み分けするしか手段はないのだ。ゆえに戦争でどちらかが負けて出ていくしかないのだ。それとも負けた側が勝ち側に一方的に従うしかない。ところがこれが負けた側がずっと復讐の機会を待っている状態になると、戦争は終わってないのだ。さて、地域社会の責任者たちはどのような覚悟を持ってこういった問題を解決するのか、すごく興味があるのだ。もし、国を構成する国民に犠牲を強いるのであれば、革命で変えていきているのが歴史的事実。この革命すらできないとなれば、民主主義なら主権の国民は自らの代表を選んで解決されるまで忍耐でしかないのか。我慢したとしても、結果が国民が望むようになるのかどうか。短絡的思考者なら政治のリーダを暗殺して、自分たちに都合が良いリーダを置こうと考える。まあ、これもある意味、パラダイムシフト、革命なのだ。