今からでも遅くない
野中大尉は村中とともに新議事堂前に部隊の集結を待っていた。
そこへ、栗原中尉が急ぎ足でツカツカとやって来た。
ちょっと遅れて坂井中尉も来た。
栗原は決然と、
兵をかえしましょう。
これ以上の抵抗は無駄です。兵を殺してはなりません
そうです、兵を返しましょう
坂井も同調した。
これで大勢はきまった。
奉勅命令が出たことがはっきりした以上、これに従わなければならない。
これは彼らの信念だった。
栗原も坂井も急いで部隊の位置にかえって行った。
だが、一方、首相官邸に一人とり残された磯部は、
あたりの騒音を身にうけながら、なお考えこんでいた。
彼はどうしても降伏する気になれないのだ。
部隊将校が勇気を振って一戦する決心をとってくれないのが、残念でならない、
なんとか、この転機を策する工夫はないものかと、じっと考え込んでいた。
空には飛行機がブンブン飛んでビラをまいている。
下士官はそれを拾って、手から手に、口から耳へと伝えて行く。
この兵隊たちの様子をじっと見ていた磯部は
「もう、これで駄目かな」
と 思ったが、
強気一徹の彼は、なおも、
もう一度、部隊の勇気を鼓舞してみようと首相官邸を出て行った。
・
磯部が官邸を出た、ちょうどそのあとに攻囲部隊が戦車を先頭に押しよせてきた。
首相官邸には栗原もほかの将校もいなかった。
下士官が指揮をとって応戦準備をととのえ、
門内一歩も討伐隊を入れまいと邸内要所に機関銃を据え、
まさに撃ち合いをはじめようとしていた。
このとき、新議事堂から帰ってきた栗原は、
「射ってはならんぞ!」
と はげしく叱りつけて事なきを得た。
まさに流血の危機であった。
・
磯部は同志将校の一戦を念じながら 重い足を運んで文相官邸まで引き返してきた。
だが、そこで彼の見たものはなんだったか。
官邸前にはすでに戦車が進入して攻撃部隊の兵隊で一杯だった。
しかも、常盤、鈴木の部隊は全く戦意を失って、ただ呆然としているではないか。
磯部はこの情勢の急変に唖然とした。
彼が首相官邸に行っている間に、歩三の大隊長が戦車の進出とともに説得に来た。
常盤も鈴木も上官の前には言葉はなかったのだ。
磯部はこの時の状況を、こう遺書している。
「 余が栗原と連絡中に歩三の大隊長が常盤、鈴木少尉および下士官兵を説得にきた。
この説得使と前後して戦車が進出する。
だから、まるで戦争にならない。
なんといっても自己の聯隊の大隊長だ。
その大隊長が常盤、鈴木少尉、下士官兵に十二分の同情を表わしつつ説得するのだ、
斬り合い射ち合いが始まる道理がない 」 (「行動記」)
その頃、
ラジオはアナウンサーの情感をこめた声で、なお、しきりに呼びかけていた。
勅命が發せられたのである。
すでに天皇陛下のご命令が發せられたのである。
お前たちは上官の命令を正しいものと信じて絶對服從をして、
誠心誠意活動してきたのだろうが、
すでに天皇陛下のご命令によって
お前たちは 皆原隊に復歸せよと仰せられたのである。
この上、お前たちがあくまでも抵抗したならばそれは勅命に反抗することになり、
逆賊とならなければならない。
正しいことをしていると信じていたのに、それが間違っておったと知ったならば、
いたずらにいままでの行きがかりや 義理上から
いつまでも反抗的態度をとって天皇陛下に叛き奉り、
逆賊として汚名を永久にうけるようなことがあってはならない。
今からでも決して遅くないから、
直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復歸するようにせよ、
そうしたら今までの罪も許されるのである。
お前たちの父兄はもちろんのこと、國民全體もそれを心から祈っているのである。
速やかに現在の位置を棄てて歸って來い。
戒嚴司令官 香椎中将
このアナウンサーの声涙ともに下る
「兵に告ぐ」 の 切々たる言葉は、
さすがに若い兵隊たちの肺腑をつくものがあった。
磯部は
「 これではもう駄目かな 」
と 観念しながら、
道をかえてドイツ大使館前に出た。
そこでは坂井中尉が憤然とした面持ちで、
「 なにも言ってくださるな、わたしは下士官兵をかえします 」
と 吐き出すようにいった。
そして迎えにきている大隊長や新井中尉と感激的な握手をかわしている。
磯部はよろめく足どりで溜池の方へ向かった。
大谷敬二郎 二・二六事件 から