あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 小藤大佐ハ爾後占據部隊ノ將校以下を指揮スルニ及バズ 」

2020年06月23日 04時13分56秒 | 説得と鎭壓


抗議の拠点幸楽
ここ、赤坂の料亭幸楽に陣どった安藤中隊は闘志もっとも旺盛だった。
幸楽には続々同志将校があつまって強硬派の牙城となった。
近く戦闘が予想せられる幸楽はあたかも決戦場のような様相を呈していた。
事件以来部外にあって愛国団体を動員するはずの 澁川善助は前日から安藤部隊にもぐり込んでいた。
そこへ歩三の新井中尉が来て安藤に撤退をすすめた。
香田がいかって、
「 奉勅命令がどうしたというんだ! そんなものはにせものだ、くだらんことをいうな ! 」
と 叱りつけた。

澁川は
「 幕僚が悪いんだ、彼らをやっつけてしまわねばダメだ 」
と 怒号する。

そんな空気のところへ野中大尉が入ってきた。
野中はさきに部隊を代表して軍事参議官の最後の回答を求めに行ってきたのである。
野中は人々の興奮を尻目に、至極おちついていた。
「 一切を委せて帰ることにした 」
「 委せてかえる----それはどうしてですか 」
澁川が鋭く詰めよった。
兵隊がかわいそうだから 」 と 野中の声は低かった。
澁川はなおも二言三言くってかかっていたが、
「 何もかも幕僚が悪いのだ! 幕僚ファッショをやっつけてしまわねばダメだ 」
と再び怒号した。
この十数人の集まった幸楽の応接間は激怒と悲憤のうずまきだった。
村中はちょうどここに居合せて、じっとこの様子を見ていた。
彼はこうなりゃ決裂だ、
戦争だ戦争だと叫びながら部屋を飛び出して陸将官邸にかえった。
そして磯部に、
「 磯部やろう、安藤も坂井も絶対に退かんといっている。安藤部隊の気勢はあがっている、団結は固い。
 幸楽附近は敵の攻撃をうけそうな気配だ、もう、こうなったら後へは引けん、やろう 」
磯部は二つ返事で賛成した。そして首相官邸に走った。
こでは栗原も幸楽からかえっていて、お互いにやりましょうと闘志をはっきりした。
磯部はもう討死の覚悟だった。
田中部隊それに栗原から一小隊をかりてみずから閑院宮邸附近に進出して、この台地の一角をおさえた。
夜にな入ると、磯部は常盤、鈴木両部隊とともに陸相官邸を守った。
坂井と清原の部隊が陸軍省と参謀本部附近、
栗原、中橋が首相官邸、安藤が幸楽、丹生が山王ホテル、
野中と村中は予備隊として新議事堂にそれぞれ位置してすっかり戦闘態勢を整えた。

この日の夕方頃には幸楽、
山王下附近には物見高い群衆も集まって雑とうをきわめていた。
栗原中尉が乗用車の上から大声で市民に演説していた。
「 諸君、私たちは わが国の現状を見るにしのびず 止むなくたち上ったのであります。
この非常時局に
元老、重臣、官僚、政党、財閥等の いわゆる特権階級が私利私慾をほしいままにし、
国政をみだり国威を失墜している。
われわれは
真に一君万民たるべき皇国本然の姿を顕現せんがために
特権階級の打倒に立ったのであります。
諸君、わが国の軍隊は天皇陛下の軍隊であり、同時に国民の軍隊であります。
私たちは国防の第一線に立って笑って死にたいのであります。
それには何よりも後顧の憂いをとり除かなくてはなりません。
それがどうでしょう、農村漁村はいまや窮乏のどん底にあります。
こんなことでは兵隊たちは安心して死んでいかれません。
われわれは立ち上がりました。
今こそわれわれは昭和維新を実現しなければなりません。
われわれはこれがための挺身隊であります 」

群集は拍手を送る。
麻布三聯隊万歳、大日本帝国万歳のどよめきが群衆の中に湧き上がっていた。
こうして、彼らはこの一戦に討死を期して敵の攻撃を待った。
だが、この間、なお説得がつづけられていた。
一触即発の険悪な情勢の中に、冬の夜は更けていった。

鎮圧の態勢なる
二十八日の夕方になると三宅坂台上一帯は立退きを始めていた。
赤坂見附、半蔵門、警視庁等各方面には、戦車を先頭に鎮圧軍隊はその包囲網を縮小して、
交通通信はすべて断たれ、騒擾部隊は外部との連絡は完全に不可能となった。
二十八日午前五時奉勅命令の下達をうけた戒厳司令官は、
なお兵力使用に躊躇していたが、統帥部の反対にあって、ついに討伐にふみきった。
だが、第一師団の討伐準備遅延が禍して その日の攻撃開始は二十九日払暁に待たなくてはならなかった。
この夕六時、陸軍大臣は在京師団長に対し左の通達を行った
「 今次三宅坂占拠部隊幹部、行動の動機は国体の真姿顕現を目的とする昭和維新の断行にありと思考するも、
 その行動は軍紀を紊り国法を侵犯せるものたるは論議の余地なし。
当局は輦轂の下同胞相撃つの不祥事をなるべく避け、
なしうれば流血の惨を見ずして事件を解決せんとし、万般の措置を講じたるも、
未だその目的を達せず、痛く宸襟を悩し奉りたるは恐悚恐懼の至りに堪えず。
本職の責任極めて重且つ大なるを痛感しあり。
陛下は遂に戒厳司令官に対し最後の措置を勅命され、
戒厳司令官はこの勅命に反するものに対しては、たとえ流血の惨を見るも断乎たる処置をとるに決心せり。
事ここに至る、順逆おのずから明らかなり。
各師団長はこの際一刻も猶予することなく、
所要の者に対し要すれば適時断乎たる処置を講じ 後害を胎さざるに違算なきを期せられたし 」
この通達は
始めてこの事件に対する陸軍の意思を部内に示したもので、
特に、その末尾にある 「 所要の者に対し要すれば適時断乎たる処置を講じ 」
とあるのは、いわゆる散在する地方青年将校の蠢動に対する弾圧を意味するものであり、
こうした通達をうけては、もはや第一師団も部下の情誼とか
お互いの撃ち合いとかを理由に討伐を回避することを許されなかった。
夜十時戒厳司令官は戒作命第十四号をもって討伐命令を下達した。
その要旨。
一、反亂部隊ハ遂ニ大命ニ服セズ、ヨッテ斷乎武力ヲ以テ當面ノ治安ヲ恢復セントス
二、第一師團ハ明二十九日午前五時マデニ
   概ネ現在ノ戰ヲ堅固ニ守備シ随時攻撃ヲ開始シ得ルノ準備ヲ整エ戰闘地域内ノ敵ヲ掃蕩スベシ
三、近衛師團ハ明二十九日午前五時マデニ
   概ネ現在ノ戰ヲ守備シ随時攻撃ヲ開始シ得ルの準備ヲ整エ戰闘地域内ノ敵ヲ掃蕩スベシ、
   又師團ハ主トシテ禁闕守衛ニ任ズルノ外、
   依然戒嚴司令部附近ノ警備ヲ續行シ且特ニ桜田門附近ヲ確保スベシ
四、攻撃開始ノ時機ハ別令ス
五、第十四師團ハ二十九日午前五時マデニ靖國神社附近ニ至り待機シアルベシ
この戒嚴命令に基づいて、第一師団では、佐倉部隊主力に砲兵工兵を加えて左翼に、
そして第二旅団長工藤義雄少将を長とする佐倉の一個大隊、歩兵学校教導聯隊、
工兵第十四大隊の一部をもって中央に配し、攻撃態勢を整えた。
夜十時、第一師団長は反乱部隊長小藤大佐の指揮を解いた。
事態の悪化によって小藤大佐は師団長にその任務遂行の不可能を訴えこの解任になった。
「 小藤大佐ハ爾後占據部隊ノ將校以下ヲ指揮スルニ及バズ 」
だが、この命令は反乱部隊には下達されることはなかった。
戒厳部隊に編入され麹町地区警備隊としてこれが警備に任ずるように命令されていた反乱部隊には、
その戒厳部隊から除外されることもなく、また警備の任務も解かれることはなかった。
そして彼らは、その同じ戒厳部隊から包囲され攻撃されたのであった。
ここに重大な指揮の混乱がある。

いよいよ部隊が攻撃態勢を整えて同士打ちをするということになると、
蹶起部隊を出している歩一も歩三もあわて出した。
なんとかしてその犠牲と惨害を避けねばならない。
歩三では部隊長以下反乱軍の説得に本気にとりかかることになった。
部隊長が先頭に立ち佐官級の将校や古参大尉らが
それぞれ上官と部下との系列をたどって戦線をかけ廻った。
ついこの十二月まで部隊長だった参謀本部課長の井出宣時大佐もその責任を痛感してか、
安藤中隊や野中中隊を訪ねて説得に積極的だった。
歩一では小藤大佐が反乱部隊を指揮していたので、
聯隊付中佐が主として対策を練っていたが、
栗原や丹生に対する怒りよりも、山口大尉に対して憤慨するものが多かった。
山口が週番司令としてやすやすと部隊を出動せしめたのだ。
あいつこそ聯隊の歴史を汚した元兇だと、
山口がかえれば、たたき殺してやるといきまいていた。
小藤大佐に対しても反感をもっていた。
聯隊長があまり若い者をあまやかすからこういうことになるのだとつぶやく将校もいた。
しかし、彼らを連れ戻すことにはあまり熱心でなかった。
小藤大佐は二十八日夜、その指揮権を解かれてから みずから第一線の兵隊たちを説得して歩いていた。

第一線で最も強硬なのは安藤大尉だと信ぜられていた。
従って、安藤の占拠していた幸楽にはひっきりなしに説得使がやってきた。
その日の正午頃には
軍事課長村中大佐が安藤大尉に維新の大詔なるものを示して撤退をすすめている。
村上大佐は皇道派に好意をもつ幕僚として彼らには考えられていた。
事実、二十六日以来の村上大佐の行動には反乱軍支援のうたがわしいものがあった。
宮中での参議官会同の席につながり大臣告示の立案にも関与していたし、
もともと、大臣の政治幕僚としてこの事態を契機として維新に進むべきだとし
「 蹶起部隊を叛徒と認めてはならない 」 との意見を大臣に具申したとも伝えられていた。
だが、この機になって維新の大詔はどうしたことだろう。
彼は二十六日正午頃、宮中より陸軍省の移転先だった憲兵司令部に戻り、
軍事課員河村参郎少佐と岩畔豪雄少佐に、維新大詔の原案の起草を命じている。
正午頃といえば、まだ参議官たちの説得案もできていない時であるから、
おそらく幕僚として大臣に献策するつもりの一案であったであろう。
ところが、午後三時頃村上大佐は再び軍事課に現われ、
未完成のその草案をひったくるようにして持ち去った。
もはや宮中の情勢はそうしたものの不必要を知ったのであろう。
そして彼はその秘案を懐中にしまい込んでいた。
これを安藤の説得に、
「 もう、こんなものができかけているのだから、君等もすぐいうことを聞いて引きあげよ 」
と この草稿の一部をのぞかせたのであろう。罪なことである。
これがのちに問題になり裁判では彼らはこれを持ち出して争った。
だが村上はこれを全く否認して、
「 維新大詔案は自分は知らない。
 自分の知っているのは、軍人が政治運動に関係するのがよくないから、
大詔を仰ぎたいと思っていたので、それらのことを間違えたのだろう 」
と 証言したという。

大谷敬二郎  二・二六事件  から