あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

大臣告示 「 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 」

2020年06月12日 17時53分40秒 | 説得と鎭壓


陸軍大臣告示
二月二十六日午後三時三十分
東京警備司令部
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達セラレアリ
二、諸子ノ行動ハ國體顯現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、國體ノ眞姿顯現(弊風ヲ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事參議モ一致シテ右ノ趣旨ニ依リ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之レ以上ハ一ニ大御心ニ俟ツ


原文を箇条書きに改められて告示されたもの
宮中にあった香椎東京警備司令官から電話をもって示達され、
午後三時三十分、
東京警備司令部からガリ版刷りとなって各部隊に配布された
特に陸相官邸にあった蹶起将校に対しては、
山下奉文少将が派遣され、口頭で通達された
このとき、この告示文のうち、
第二項の「 諸子ノ行動 」 の字句が 「 諸子ノ眞意 」 となっていた
原文を見れば眞意である
どうして「 告示 」として示達される過程で変わったかは、今日まで判明していない
「 獄中遺書 」項中の磯部浅一、
安藤輝三が、これにふれて書いている
リンク→第十七 「 吾々の行動を認めるか 否か 」 
リンク→あを雲の涯 (五) 安藤輝三 

「 陸軍大臣告示 」 の原文となった
軍事參議官の申合せ
事件勃発直後、宮中に集合した軍事参議官が、
事件の進展を食い止めるため

青年将校を慰撫しようとして、
合議して作成したもの

原文と
「告示 」 と なった発表文の二種類があるが、

いずれも青年将校の行動を認めた形であったので、
この発表が、
後の蹶起部隊の戒厳軍隊
への編入

奉勅命令下達の際の混乱とからみ合い、
事件の解決を一層複雑にした


 軍事參議官の申合書
 午後零時半於宮中
諸子蹶起ノ趣旨ハ
天聽ニ達シ 諸子ノ眞意ハ國体ノ眞
姿顯現ノ至情ハ之ヲ認ム眞姿顯
現ニ就テハ我等恐懼ニ堪ヘザルモノ
アリ參議官一同ハ國体顯現ノ上ニ
一層匪躬ノ誠ヲ効ス其以上ハ一ニ
大御心ヲ体スベキモノナリ
以上ハ宮中ニ於テ軍事參議官一同相会
シ陸軍長老ノ意見トシテ確立シタ
ルモノニシテ閣僚モ亦一致協力益々
國体ノ眞姿顕現ニ努力スベ
ク申合ハサレタリ

 この申合書の存在は戦後まで知られていなかった。
 偶々、昭和三十四年荒木貞夫元大将宅に掲示されたもの

「 陸軍大臣告示 」
の できたいきさつ
元陸軍大将、
軍事参議 荒木貞夫(談)
「 陸軍大臣告示 」 の 原案ができた経緯は次のようなものだとおぼえている。
当日の朝、事件勃発を知らされた私は、午前十一時頃、急遽、宮中に参内した。
御記帳をすませて、そこの者に、
荒木が来たと伝えてくれというと、
川島陸相が出てきて、
「 いま皆さんを集めるために電話をかけたところです。 このままお集りを願う 」 
と いうので、東溜の間に行った。
しばらくすると、
眞崎甚三郎大将をはじめ他の軍事参議官が集合してきた。
大体十二時頃であつたと思う。
さて、ここで相談したことは、
ともかく これ以上、一発でも弾丸を撃たせてはならぬ。
これには皆 同調した。
そこで、青年将校を何とかして納得させねばならない。
彼らの蹶起趣意書は、
この朝、陸軍大臣が手に入れて
すでに陛下に申し上げておるらしい。
それなら
それで青年将校達の意思は上聞に達しているのだから、
彼らは満足すべきではないか。
これ以上、現在のように兵力を擁して陸軍の中枢部を占拠していることが、
大義に反するということがわかれば、
もともと君国のために憂えた心から でたことなのだからやめるだろう。
大体こんなことを われわれが相談した結果、
軍事参議官たちで何とか言ってやろうじゃないか、
ということに意見が一致した。
とにかく、事件直後のごたごたしている時なので、文句を錬って名分を作る暇はない。
そこで、大体以上のような意見にもとづいて案分を作ることとし、
山下奉文少将、村上啓作大佐等、同席していた幕僚に命じた。
彼らが別室で書いてきた案分を、大体これでよかろうというので読み上げると、
阿部信行大将が考えていた。
何を言ったか覚えておらぬが
そこで植田謙吉大将が鉛筆を出して、訂正も何もない、ちょこちょこ書いた。
これを山下少将に
「 軍事参議官は全部こういうことだから、兵隊をすぐ返すように-------
お前、これをすぐ青年将校の方へ持っていってくれ 」
と 言った。
しかしその時、
これは筋が違う、権限がない軍事参議官がやってはおかしいではないか、
と いう意見が出た。
もっともな正論なので、
同席の川島陸軍大臣の賛同を得て、
「 陸軍大臣告示 」 で やろうということになった。
そこで原案を、告示のかたちに直して作りあげたものだろう。
文章を直すか 直さぬかは私の知る範囲とならなかった。
だから、告示がどういう手順で誰がどのようにしたか私は知らない。
この後、香椎中将が誰かに電話をかけていた。
この原案が書かれたのは零時半であった。
二・二六事件 獄中手記遺書 河野司編より

こうして成文化された 『 陸軍大臣告示 』 は、
ただちに山下少将によって陸相官邸にあった蹶起将校に口頭で読みあげられた。
これを聞いた青年将校たちは、我事成れり の感激に涙を流したというのも当然のことである。
しかもこの告示文はただちにガリ版刷りとなって各部隊に頒布されたのである。
ところが、この感激の告示がわずか半日たらずでいっさいの公式文書から姿を消すのである。
この重大な決定が生んだ矛盾撞着の抜差しならない問題の事後処理のため、
事件終結後、軍当局としては、すでに各部隊に配布した告示通達文書の回収に躍起となって奔命している。
軍当局としては、抹殺することが最上の方法であったろう。
地方部隊に対して、その回収を命ずるとともに、在京部隊に対しては、
告示の周知された範囲、状況を調査させている。
河野司  天皇と二・二六事件


堀丈夫 ( 第一師團長中將 ) 憲兵聴取書
今にして思へば
大臣告示の如きものは師團長の処に止め置きし方良かりし様に思ふ、
然し 當時の爲 僞らざる師團長の感じとしては
頻々として入來する情報に依り
軍事參議官 其の他上層部の人々が非常に努力し居らるゝ事を聞きたれば
或は 彼等の希望し居るが如き事が出來するにあらざるか
と 云ふ雰囲氣を感じ居たり