あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

十一月二十日事件の経過

2018年03月08日 13時23分14秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

《 十一月二十日事件の経過 》
磯部たち革新運動の青年将校には、
陸軍上層部の派閥抗争は無縁のものであり、関心もなかった。
それが否応なく その派閥争いのなかに
巻き込まれざるを得なくなったのが、「 十一月二十日事件 」 である。
この事件は陰険な謀略事件といわれているが、その因って来るところの根は深い。
橋本欣五郎らの桜会急進分子による三月事件、十月事件の二回の挫折でも彼らは国家改造を諦めたけではない。
特に三月事件の計画立案者といわれる永田鉄山は早くから重武装による高度国防国家の構想を樹て、
これを軍が主体となった統制経済によって支える国家改造を考えていた。
省部の中堅幕僚の殆んどはその信奉者となり、いわゆる統制派の幕僚を形成してきた。
ところがこれに反撥する革新派の隊附青年将校は上下一貫、左右一体を合言葉に、
軍隊が横断的に結束して国政を改革し、
特権階級を除去した一君万民の天皇政治の国家改造をやろうとしていた。
「 小官等は口を極めて十月事件首謀者の実行方法は国体反逆なりと非難し
且つ 其の行動は陰謀的にして 又 彼等の理想が軍部独裁主義なるを論議否認するを以て 」
・・・リンク→  粛軍に関する意見書 (4) 告訴理由2 
と、後日 村中が告訴状に認めているように、両者の間には氷炭相容れないものがあった。

     
永田鉄山少将                      片倉衷少佐            辻正信大尉           塚本誠憲兵少佐

「 永田鉄山は第三聯隊長時代は青年将校を愛し ( 安藤は特に愛された ) 、評判も良かった。
しかし、陸軍省の軍事課長となり 次いで軍務局長の要職に就くようになると、
その野望はだんだん大きくなり、
自分の力で陸軍を一本化し、その上で己が理想を実現しようとした。
青年将校にもはじめは懐柔策に出た。
「 私が満州にいる時、
 辻正信が出張の度に訪ねて来たり、武藤章が欧州へ行く途中 私を訪れた。
言うことは一つだ。永田鉄山の傘下に入れ、優遇するというのだ。
私は言下に断った。
それ以来 淫に陽に圧迫が加わってきた 」
と、これは菅波三郎の証言である。
これら革新派の青年将校の影響を強くうけるのが陸軍士官学校の生徒たちであった。
もともと陸士にはその忠君愛国から かもし出される一種独特の雰囲気があった。
一言でいえば
「 天皇の馬前に死ぬ 」 という 殉教的な精神である。
それがアジアの解放や国家革新という具体的な行動に結びつくと、熱烈に燃える。
五 ・一五事件の際、
菅波三郎や大蔵栄一の制止を振り切って参加した士官候補生の例でもわかるように、
彼らは一様に自決用の短刀をもって参加していた。
その精神的な伝統は消えるどころか、ますます燃えてきている。
学校当局も生徒たちが革新派の青年将校に近づくのを厳禁していたが、
正義感の強い士官候補生たちは、教官の目を盗んで日曜毎に訪問していた。


そこへ登場するのが辻正信である。
辻の人物については多くの証言があり、
智能は優れていたが、人格的には幾多の欠陥があったことが指摘されている。
辻は陸士三十六期の幼年学校から陸士、陸大 ( 四十三期、昭和六年卒 ) と
いずれも トップで稀有の秀才といわれた。
昭和七年二月、
上海事変に中隊長として出征、豪胆不適な戦いぶりで勇名を馳せた。
その辻が昭和九年八月、
参謀本部員から、自ら望んで陸士本科の第一中隊長として赴任してきた。
( 陸士内部の反対を押し切って 成ったといわれる )
士官候補生たちから熱狂的に歓迎され、崇敬の的となった。
辻の目的は士官候補生を隊附の青年将校から絶縁させることにあったといわれる。
後日、村中孝次の提出した告発状だけでは、一方的な判断だが推測は成り立つ。
当時、陸士本科には四十七期生と四十八期生がいた。
辻の中隊の四十八期生に佐藤勝郎という候補生がいた。
佐藤は大正三年、日独戦争の折戦死した陸軍少将佐藤嘉平次の遺児である。
母と姉との女ばかりの家庭で育っていた関係からか、辻中隊長には早くから心酔していたらしい。
陸軍士官学校幹事の談によれば、
 辻大尉は佐藤候補生の区隊長を佐藤宅に遣はし
其母及び姉に対し 佐藤をして青年将校の内情を探らしむることに関し同意を求めしが、
母及び姉 共に拒絶の意を述べ流涕するに至れり。
而して母は佐藤に対し 其の不可なる所以を懇ねんごろに論せしも、
辻中隊長を盲信せる佐藤は遂に母の言に承服せざりきと云ふ
・・・リンク→ 粛軍に関する意見書 (8) 前言3、告訴追加其二 
これは村中の告訴状にある譬話ひわだが、
後年の辻の言動と照らし合わせ見ると、事実であると思われる。
自分の信念のためなら他の犠牲にはいささかも顧みないという辻の酷薄な性格がよく現れている。
自分に心酔している士官候補生を操って、スパイとして利用し、
事が発覚して己れの不利となれば、敢て捨てて顧みない。

佐藤もスパイ行為が生涯の負い目になり、自責の念がはなれなかったようだ。
事件後佐藤は他の四名と共に退校処分となり、満州国軍に入り将校となったが負傷し、
帰国して東北帝大に入り、卒業後北支に渡り、敗戦のため帰国、昭和三十年死亡した。
「 終戦後、某食品会社にいた佐藤氏に逢った時、
その話をしてみたが、彼は言葉を濁して深くは答えなかった 」
佐藤もまた辻正信の謀略の犠牲者であったと感ぜざるを得ない。

この事件を取り調べた第一師団軍法会議の検察官島田朋三郎の意見書によれば、
同期生の第二中隊の候補生武藤与一が、村中や磯部の家に出入りし、
革新運動の同志を獲得しようと奔走しているのを憂慮した佐藤が、
十月二十四日、中隊長の辻正信に
「 中隊長たる資格を離れ先輩として教を乞ふ旨 」
を前おきして、
士官候補生の中には青年将校と結んで軍隊や戦車を出動させて、
五 ・一五事件のような不穏の動きがある、
彼らをなんとかその渦中から救い出したい、どうしたらよいか、
と 相談した。
辻は
「 事態重大にして到底尋常一般の方法を以てしては其の友を救ふことは能はず、
・・・中略・・・
万一の場合は共に斃るるの覚悟を以て身命を賭し、自ら其の渦中の中に投ずべき旨 」
指示した。
その前日 (十月二十三日 )、陸士予科の区隊長 歩兵中尉片岡太郎 ( 四十一期 ) は、
高知県出身者の日曜下宿土陽会で、武藤与一他三名の質問に答え、
歩一、歩三それぞれに千葉の戦車隊が参加し、政府高官や重臣を襲撃すると話し、
同志将校として大蔵、安藤、村中の各大尉、磯部主計、栗原中尉の名をあげている。
しかし、その期日は答えていない。
これを伝え聞いた佐藤は武藤と同志のように装い、磯部や村中、大蔵に近づくが一蹴される。
一計を案じた佐藤は十一月十一日、村中の家を訪れ、
青年将校が起たねば候補生だけでも起つ、
五 ・一五事件の時のように青年将校は候補生を見捨てるのか、
と 叫んで袂を別って帰ろうとした。
正直な村中はこの演技にまんまと引っかかった。
・・・リンク→ 十一月二十日事件をデッチあげたは誰か 

佐藤の口からその日のうちに辻の耳に入った。
ちょうどその日 同期の東京憲兵隊の憲兵大尉 塚本が訪ねてきた。
辻は候補生とのやりとりを語り、
「 佐藤の報告によると、村中、磯部らは、北、西田とのつながりがあり、
歩三、歩一、その他の急進将校の間には 何か計画があるように思はれるのだが、確たる証拠がない。
確証をつかんで、断固処分しなければ、この種の風潮は拒絶できない 」
と、語っている、
確証を掴んだら革新派の青年将校を一網打尽にする考えであった。
だから辻は十一日に佐藤の情報を聞いても、校長にも生徒隊長にも報告していない。
かえって参謀本部の片倉衷少佐にだけは話してあるから、塚本に一度会ってくれと言っている。
塚本は 「 話は想像の域を出ていないので、そう急ぐことはあるまい 」 と 放っておいた。
十一月十九日になって片倉を訪ねた。
片倉の口から
「 いま省部では 軍務局長永田鉄山少将、軍事調査部長山下奉文少将、
 参謀本部第二部長磯谷廉介少将 の 三人で対策を協議している 」
と 聞く、驚いて憲兵司令部に帰り、司令官の田代皖一郎中将に報告した。
夜九時すぎである。

  
田代皖一郎中将  持永浅治大佐   橋本寅之助中将

持永浅治東京憲兵隊長は 「 こんなことはいつもの事です 」
と、あまり問題視していなかったが、田代司令官は橋本陸軍次官に相談に出かけた。

その夜更け、事件のもみ消しを恐れた辻は塚本と片倉を誘い、
寝静まった次官の私邸に塀を乗り越えて入り、
穏便に事を済まそうとしている橋本次官にハッパをかけて帰った。
もうすっかり夜が明けていたという。

その日、陸軍首脳部の会議の結果、
村中、磯部、片岡の三将校と士官候補生五名 ( 四十七期三名、四十八期二名 )
が逮捕、投獄された、
これが十一月二十日事件とよばれる事件の経過である。

 
村中孝次大尉     磯部浅一 一等主計  片岡太郎中尉
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第一師団軍法会議で厳重な取り調べをおこなっても、反乱罪を立証するものはでてこない。
村中らは血気にはやる士官候補生をなだめるために、
架空の計画を話したまでで あくまで暴発を阻止する方便であったとして譲らない。
軍法会議の記録にはでていないが、
革新派の青年将校の間に、不穏な空気が漲みなぎっていた事はたしかである。
その頃、千葉の陸軍歩兵学校
青森の第五聯隊から派遣されていた歩兵中尉末松太平がいた。
「 歩兵学校は革新運動拡大のためには、うってつけの場所だった 」
と、急進的な青年将校がその周りに集まっていた。
当然 「 やる 」、「 いつやるか 」 といった不穏な会話が熱っぽく語られていたであろう。
「 毎土曜から日曜にかけて東京に出た。いつも何人かが千葉駅に落ち合って同行した 」
と 述べているように、その行動は派手だから、当然憲兵にマークされていたであろう。
それがきまったように、これも要注意将校の戸山学校教官大蔵栄一大尉の家に行く、
憲兵や特高が神経を尖らしたのも無理はない。
その矢先、憲兵を刺激する青年将校の会合が新宿の宝亭で行われ、
地方から来た青年将校が 「 東京は何をぐずぐずしているか、早く蹶起せよ 」
などと論じたてた。
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・・・挿入・・・
歩兵砲学生は十一月十五日が終業式である。
その日がせまってもいたのである。
いよいよ鶴見中尉らの歩兵砲学生が千葉を去る時期が迫っていたころだった。
東京から歩兵砲学生の送別会を開きたいから 新宿の宝亭 に集まるようにといってきた。
当日宝亭の大広間に集まったのは相当の人数だった。
正面の席には早淵中佐、満井中佐らの先輩格も坐っていた。
歩兵学校グループはこの送別会にでることに、あまり気乗りしていなかった。
いまさら宴会でもあるまいといった気持だった。
偶然丸亀から小川中尉、江藤少尉、金沢から市川少尉が上京していて、これに出席していた。
酒がほどよくまわったところで市川少尉が立ちあがって、
東京は何をぐずぐずしているか、早く蹶起せよ、
と元気のいいところをみせた。
それに呼応するかのように、満井中佐が、東京の若い将校は意気地がない。
僕がなん度蹶起する準備をしたか知れないのに、誰もついてこない、
とこれまた市川少尉に輪をかけたような元気のいいところをみせた。
これには、なに口先きだけだよと、聞こえよがしに半畳をいれるものがいた。
歩兵学校グループは一ヵ所にかたまって、ただ黙々と酒を飲み料理をつついていた。
そこだけが真空をつくっていた。
座が乱れたところで、私は真空のなかから満井中佐の前に出向いて、
さっきいったことは本気ですかと聞いた。
満井中佐は本気であることを強調し、力説しはじめた。
みなまで聞かず、其れが本気なら、そのうちお訪ねして、ゆっくりうけたまわります、
といって私は満井中佐の力説から退避した。
二三日して私は約束どおり満井中佐を自宅に訪ねた。
満井中佐は、滔々と革新を急がねばならない理由をのべたてたあと、
「実行計画なんて簡単なものだ。二時間もあれば十文だ。
起とうと思えば今日いますぐでも起てるのだが、誰も協力するものがいない。」
といった。
「何人ぐらい協力者がいりますか。」
「なあに、何人もいらないよ。」
「では すぐやりませんか。協力者はいますよ。
私の手もとに三十人ばかり、五 ・一五の二の舞でもいいからやろうといってきかない将校がいます。
千葉の歩兵学校ですから、急がないと、もうすぐ主力が帰ってしまいます。」
半分本気で半分はったりだった。
・・・リンク→ 村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」 ・・・末松太平

たまたま 四国から小川三郎大尉、江藤五郎中尉、金沢から市川芳男少尉も上京していたので、
これを機会に大演習の慰労の意味をかねて、新宿宝亭で一夕の宴を催すことになった。
それは、十一月十七日ごろであったと記憶している。
この席には千葉の歩兵学校の学生も参加することになって、総勢三十数名にふくれ上がった。
先輩では早淵四郎中佐、富永良男中佐、満井佐吉中佐などが顔を出した。
宴会のはじまるまえであった。
数か所のグループに分かれて雑談にふけっていたとき、
「 われわれの頭上に岡田啓介輩ばらの書が掲げてあるとはけしからん 」
栗原中尉が、欄間を見上げてどなった。
見ると なるほど、四字の草書に啓介と署名入りの横顔が、金箔の表装で掲げてあった。
「 うまい字だよ 」
と、いうものもあった。
「 いや、けしからん 」
栗原中尉は、騎虎の勢い、立ち上がったかと思うと、額を欄間から引きずり下して廊下にほうりだした。
女中が周章あわてて、大事なものを破られては大変と、廊下に持ち去って注進に及んだ。
これはあとからわかったことであるが、女中が注進に及んだ時、
たまたまそこに憲兵が居合わせていて、いち早くこの慰労宴のことが誇大に報告された。
・・・リンク→  栗原中尉と十一月二十日事件 ・・・
大蔵栄一
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これも当然憲兵の耳に入っていたであろう。
「 あの時期、四、五人の青年将校が暗殺をやるなら別だが、
軍隊を率いて起つなどとは空想に等しいことであった。
僕をはじめ 村中も磯部も部下の兵をもっていない。
多少軍事常識のある者なら、
村中が語った蹶起計画がいかに噴飯ものかがすぐわかる。
しかし、これが彼らの思う壺だったかも知れない
いくつかの要因が憲兵の手で総合されて、
すわ蹶起と思ったか、
或はこれを突破口にして革新派を一掃しようと企てたのだろう。
塚本の本にある 永田軍務局長らが密儀をこらした
というのも、この点からは肯ける。
ついで 荒木、真崎 二将軍の外、皇道派の将星に累を及ぼそうと企てたものと思う 」
と、大蔵は生前、語っている。
「 黒幕は永田鉄山だ 」
と、当時はみなそう思ったと大蔵は語っているが、
八ヶ月後に永田を斬殺する相澤三郎中佐も、
その頃から 「 永田斬るべし 」 と思い定めていた。

昭和九年の年末から十年の正月にかけて、
和歌山の第六十一聯隊の歩兵大尉大岸頼好が相沢三郎や末松太平と共に
仙台に旅行するさまが 『 私の昭和史 』 に語られている。 
・・・リンク→ 「 永田鉄山のことですか 」 
大岸の目的は仙台の第二師団長 秦真次中将を訪問して、
秦中将を介して親友の第一師団長柳川平助中将を動かし、
村中らを救うことであった。
相澤の同行は仙台にある家、屋敷を整理することであったが、
三十一日の夜、相澤は大岸に
「 こんど上京を機に永田鉄山を斬ろうと思うがどうか 」
と 相談している。
しかし、この時は大岸に止められていったんは思いとどまっている。

陰謀の元凶は永田軍務局長であることは誰の目にも明らかであった。
辻正信は後年いろいろと弁解しているが、
佐藤をスパイに使ったことは、軍法会議でも認めているし、佐藤も肯定している。
辻は誰に命令されたかは言っていないが、
辻の人脈を辿って行けば、
永田鉄山であることは当時の常識であった
と大蔵は証言している。

憲兵の塚本誠も軍法会議に呼ばれて取り調べをうけた。
要点は十一月十九、二十日両日の行動であった。
「 憲兵部内の極少数の特定者だけしか知らない 」
塚本の行動を村中や磯部が知っていたのに驚いた、
と 彼は著書の中で述べている。
「 この少数特定人の誰かが、被拘禁者と直接、間接不可分の関係にあるように思えた 」
と 想像している。
「 それは恐らく憲兵隊長の持永浅治少将か、
 その息のかかった目黒茂臣憲兵大尉ではなかろうか。
牛込分隊長の森木五郎少佐も吾々に好意的であったから、
憲兵から好意的に情報を洩らされたものであろう 」・・大蔵栄一
当の目黒茂臣はこう述べている。
「 十一月二十日事件事件は 憲兵隊の、こうした計画および動きはないとの報告により、
憲兵隊の手を離れて軍法会議により直接調査されることになった。
このことはすなわち陸軍省が憲兵隊の報告は信用できない、ということであり、
逆に憲兵隊に不満を抱かせ、内部亀裂を生じさせる。
・・・中略・・・
私は十一月二十日事件は全くのでっちあげ事件であり、この策源地は辻正信中隊長であります
と、永田鉄山は単に事務的な指示をしたにすぎず、辻正信の陰謀であったことを証言している。

当時投獄された三人のために全国の同志から激励の手紙や援助金が寄せられ、
一歩もひくなと励まされたと大蔵は追想している。
結局、翌十年三月四日、釈放され、
三月二十日、証拠不十分で不起訴になったが、そのままでは済まなかった。
リンク→ 法務官 島田朋三郎 「 不起訴処分の命令相成然と思料す 」
四月一日、村中ら三名は定職という重い行政処分をうけた。
これは六ヶ月間、大過がなければ復職できるが、必ず復職できるという保証はない。
一ヶ年以内に復職できない場合は 自然に免官になるという厳しい処分であった。
士官候補生は全員退校、
辻正信は三十日の重謹慎処分に付され、ついで水戸の歩兵第二聯隊に左遷された。
塚本はそれより前の三月十五日、大阪憲兵隊に転勤を命ぜられ、
やがて上海憲兵隊に派遣されて内地から去った。

二月七日、村中は三名を代表して
片倉衷とつじ辻正信を第一師団軍法会議に誣告罪で告訴した。
恐らく獄中で同情した憲兵の口から、片倉や辻の陰謀を聞いたものであろう。
・・・リンク ↓
・ 粛軍に関する意見書 (3) 告訴理由1 
・ 粛軍に関する意見書 (4) 告訴理由2 
・ 粛軍に関する意見書 (5) 告訴理由3 

しかし、軍当局は彼の告訴を黙殺した。

「 このころ村中は、もう不合理な企てはしないといって
 『 妻帯はしない、陸大には入らぬ 』 という、
かつての盟約に背いて妻帯もし、陸大にも入っていた。
私のところへも手紙をよこし、
『 もうこれからは上司を信頼し軍務に忠実に服します・・・・』
と いっていた。 ・・・リンク→  荒木貞夫が観た十一月二十日事件
と、荒木があとで述懐しているように、当時の村中は不穏な計画などなかった。
磯部は威勢のよい急進論をぶってはいたが、実兵を握っていない彼にできることは、
せいぜい血盟団のような一人一殺の暗殺であるが、
彼が同志に先んじてやれば、
同志は一網打尽でそれこそ幕僚たちの思う壺にはまることだ。
磯部はそれがいかに愚劣なことかは知っていた。
四月二日、こんどは磯部が、片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。
・・・リンク→ 粛軍に関する意見書 (9) 告訴状 及 陳述要旨  
ついで 四月二十四日、村中の名前で二月に提出した告訴の追加を提出した。
・・・リンク→ 粛軍に関する意見書 (8) 前言3、告訴追加其二 
これは西田が執筆して、大蔵栄一が清書した長文のものである。
「 今回の誣告事件は 私的策謀と公的権力乱用との結託した所の彼等の陰謀の一つの現われであります 」
と、先づ辻等の陰謀の本質を衝き、
統制派、清軍派の人脈から、中央の幕僚たちによる三月事件、十月事件、神兵隊事件への関連性、
隊付青年将校への圧迫を述べ、片倉、辻、塚本の三名の背後関係に言及し、
誣告の全容を余すところなく暴露したものである。
しかし、陸軍当局は受理したのみでいっさい黙殺して、何の反応も示さない。
業をにやした村中は、
五月十一日、陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに、
上申書を提出し、・・・リンク→  粛軍に関する意見書 (2) 上申書 
磯部は第一師団軍法会議に出頭し、
五月八日と十三日の二回に亘って告訴理由を説明したが、当局は何らの処置もとらなかった。

ここで村中と磯部は最後の肚をきめた。
幕僚たちの旧悪をあばき、その非違を糾弾しようと暴露戦術にでた。
もちろん免官は覚悟の上である。
昨年十一月二十日、逮捕されたのは三名であったが、
磯部は後輩の片岡は俺たちと行動を共にするなと、誣告の告発には加わらさなかった。
『 風雪三十年 』 には荒木の回顧談で
「 片岡、お前はお母さんがいる。親子二人だから、どいてくれ、俺たち二人でやる 」
と、片岡に参加させなかったとある。
彼ら二人が犠牲になる覚悟でいたのである。
七月十一日
「 
粛軍に関する意見書 

を 陸軍の三長官及び軍事参議官全員にナンバーをつけて、
初めは十三部だけ郵送した。
・・・以降、 正面衝突 ・ 村中孝次の決意 に続く

須山幸雄著
二・二六事件青春群像  から


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