あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

末松太平大尉の四日間 1

2019年11月05日 16時04分19秒 | 赤子の微衷 4 後事を托された人達 (末松太平、大蔵榮一、佐々木二郎)


末松太平 
二月二十六日の朝、
私は出勤したらスロープに出かける前に、
連隊本部に寄って連隊副官と八甲田登山行軍の打ち合わせをしようと考えながら官舎を出た。
雪が根雪になると、私は連隊への往復もスキーでしていた。
兵営へのコースは、大抵の将校がそうしているように、私も近道をして通用門にとっていた。
営門に通じる道から通用門に出る道に折れる角に馴染みの床屋がある。
いつものとおり、その床屋の角を折れようとした。
すると床屋の主人が、待ちかまえていたもののように、おもてに飛び出してきい私を呼び止めた。
「 ことしのスキー皇軍の人数は決まりましたでしょうか。
酸湯からの使いのものが、わかったら教えてくれといっていましたが・・・・」
酸湯というのは八甲田山の山のふところにある温泉場で、この床屋はそれの連絡場所になっている。
毎年のスキー行軍は酸湯で二泊する。
ことしも、やはりそのつもりにしていた。
行軍部隊の人数を知りたいのは、前もって米、みそ、醤油のたぐいを準備しておく都合があるからである。
人数に見合ったそれらのものを、
毎年山案内に立てる八甲田の仙人鹿内辰五郎老人のいる麓の横内部落から、
担ぎあげておかなければならない。
「 ちょうど今日、その人数を決定しようと思っているところだ。
帰りに、はっきりした数を教えます。」
そういいおいて、私はいったん止めたスキーをまた滑らした。
雪をはらったスキーを板張の壁に立てかけていると、当番兵がはいってきて
連隊本部の電話室からの連絡事項を伝えた。
東奥日報社の竹内俊吉から電話があって、隊長がみえたらすぐ電話してくれということだったと。
外部との電話は、連隊本部の電話室までいかなければ通じない。
近ごろあまり会っていない竹内俊吉が、朝っぱらからなんの用があって電話したのだろう、
久しぶりに会いたいとでもいうのだろうか・・・・別に大した用でもあるまいと思ったので、
電話室の当番兵に竹内俊吉を呼び出すようにいいつけておいて、
連隊本部事務室にはいり、連隊副官とスキー行軍の打ち合わせをはじめた。
二言三言いいかわしたところに電話当番兵が、竹内俊吉が電話に出たことを知らせにきた。
打ち合わせを中断して、電話室にはいり、受話器をとりあげると、
昂奮気味の竹内俊吉の声が伝わってきた。
これが私が二・二六事件を知った最初である。
稲田元中将がいっている 「 青森の同志には以心伝心ですぐ事情は伝わっている。」
などといったようなものではない。
竹内俊吉
竹内俊吉の第一声は 「 野中四郎大尉を知っていますか 」 だった。
私は野中四郎大尉を知らなかった。
知らないと答えると 「 では、安藤大尉は・・・・。」 と きいた。
それはよく知っていると答えると、はじめて歩兵第一連隊、三連隊の千数百名の部隊が決起したことをいい、
これは 五 ・一五とちがって大規模のようだ、
今までにわかったところでは岡田首相、斎藤内相、渡辺大将・・・・と 殺された人の名前をあげ、
つづいて 「 決起趣意書がありますよ、読みあげてもいいが・・・・面倒だな 」
で ちょっとことばを切って 「 一度社にきませんか、もっといろんなことがわかっていますよ 」
と いったから、私は 「 あとでいきます 」 と 約束した。
そこでどちらかともなく電話を切った。

八甲田登山行軍の打ち合わせどころではなくなった。
かくしておくことではなかった。
もう一度私は、連隊本部事務室にはいると、
連隊長代理の谷口中佐に竹内俊吉からきいたとおりを告げた。
連隊長の小野大佐は前に述べたように、この日は朝から、渡辺教育総監辞職勧告文の件で、
師団長に呼ばれ弘前に出頭していた。
私の話をきき終わった谷口中佐は、
「 うむ、こんどこそ 五 ・一五の二の舞になってはならないね。  徹底的にやらなければ・・・・」
と いった。
谷口中佐のこのとっさのことばに、内心、私はおどろいた。
谷口中佐は、連隊に長くいた砂川中佐にかわって転任してきたばかりだった。
砂川中佐は五連隊の生活が長かっただけに、大岸大尉、相澤中佐以来の革新派にもまれ、
否諾なしに、この道の玄人にさせられており、人間的にある程度の理解も持っていた。
が、谷口中佐は、いわばこの道の素人のはず、
その谷口中佐がこういった反応を示そうとは予期しなかっただけに、
内心おどろきとともに、意外の幸先のよさを感じた。
竹内俊吉から東京の蹶起をきいてから、谷口中佐にそれを告げるまでのあいだも、
告げながらも、私は別にどうしようという、はっきりとした考えを持っていなかった。
地方部隊が東京の蹶起に呼応して起つということの非現実的であることは、村中大尉と前に話しあっている。
東京に飛び出すということは五 ・一五事件での相澤中佐で試験ずみで、途中で阻止されるに決まっている。
単なる衝動的行為にすぎない。
それに澁川と約束したこともあった。
いまとなっては、それにこだわってもおられないが、
和歌山、すなわち大岸大尉との一致した行動でない以上、たとえ東京が起っても協力しないといったことである。
ただ、ひょっとすると大岸大尉や菅波大尉も上京していて、相沢公判の前途に見切りをつけ、
これまでの方針を一擲いってきして最後の腹を決めたのではあるまいかと、推測されないこともない、
大岸大尉、菅波大尉らも、証人として呼ばれるかも知れないことが新聞にも出ていた。
若し 大岸大尉、菅波大尉らが出てきての蹶起であれば最後の決戦である。
もうあとさきを分別臭く考えてはおれない。
がむしゃらに一騒動おこさねばなるまい。
が 地方新聞からきいたばかりの情報では、その辺のことはまだわからない。
決心もつかない。
また 最後の決戦であれば前以て、青森になんの連絡もなしに蹶起するはずはない。
情況不明なときは微動もすべきでないと思った。
が、こういった、もっともらしい分別めいたことに、思いをめぐらすこと自体が、
平素に似ない臆病、卑怯のようで、われとわが身を責めもする。

二 ・二六事件がああいった経過をたどろうとは予想もできなかった私は、
このとき斬奸行動だけで行動そのものは終わったものと決めてかかっていた。
あとは、その結果を如何に発展させるかにあるとのみ考えていた。
もともと政権奪取の野望はないのだから、斬奸行動後は、聖慮如何をまって、爾後の処置を決すればいいのである。
ということは、聖慮如何によっては、奸とはいえ、陛下の重臣には違いなく、
それを斃したのであるから、その罪を謝して首謀者は自決することである。
そこに上部工作なるものが微妙に作用するのであるが、
かねての覚悟は事成るも成らぬも死であって、生きて直接政権奪取を目的としないところに、
十月事件に対する批判もあり、自らをファッシズムと区別する矜持きんじがあったのである。
微妙に作用する上部工作が、しかしどの程度にすすんでいての蹶起なのかは、
このときの私には、確実な判断の基礎はなかった。
が、こういった微妙な駈引にこだわらず、己れの屍の上に築かれる維新を信じて、
首謀者はもう潔く自決してしまったかも知れない。
こういった錯綜する私の思考に、とりあえずの方向づけをしたのが
五 ・一五の二の舞になってはならないといった谷口中佐のとっさのことばだった。
蹶起した同志の犠牲を無駄にしてはならない。
鉄は赤いうちに打たねばならない。
これを契機に間をおかず、徹底維新の推進に努力しなければならない。

連隊本部の事務室に間もなく亀居大尉、志村中尉が顔を出した。
連隊旗手の小岩井少尉が気を利かして呼んだのだ。
ストーブのまわりで、谷口中佐をかこんでわれわれは考えこんでいた。
このとき谷口中佐は、
「 渡辺大将は殺されて当然だ。
特別大演習のとき、陛下に対して不敬を冒したことがある。
僕らは陸大の学生で陪観していたが、それを目撃して、渡辺大将をやっつけろと憤激したものだった。」
ともいった。
谷口中佐の積極性は一面には私を安心させるとともに、他面には私をがっかりさせた。
とっさに、こう簡単に革新家になれるのであったら、なにも長いあいだ非合法ぶって、
革新の維新のと憂身をやつすこともなかったと思ったから。
協議するでもない、しないでもないストーブ会議は、自然に一つの結論を生んだ。
それはやはり谷口中佐がはじめにいった五・一五の二の舞にならないよう軍中央部を督励することであり、
それを師団長を通じて推進すべく師団長に意見具申しようということだった。
これを契機に軍が主体となって維新を断行してほしいということである。
しかもそれを、連隊長、旅団長と統帥の順序をふんでしようというのである。
議長格を自分で買ってでているような谷口中佐は、それはいい考えだといって議決した。
このため亀居大尉と志村中尉が、弘前の旅団司令部に出張することになった。
そこで先ず連隊長の小野大佐の同意を得るためだった。
これは公的な連隊命令だった。
こういった格好になっては私はかえって、でしゃばらないほうがいいように思ったし、
それに東奥日報社にいって、もっとくわしく情報を得なければならないと思っていたので、
意識して連隊に残ることにした。
亀居大尉、志村中尉の二人が出発したあとで、ちょっと東奥日報社にいって、
もっと詳しい情報をきいてくると私がいうと、谷口中佐は改まって、
「 連隊命令でいってきたまえ。昼の会食のとき将校団に説明してもらうから。」
といった。
これまでも公的になった。

このころは雪が深くてバスも通らず、東奥日報社までの相当の道のりは、歩くほかなかった。
東奥日報社の近くまでいくと、汽車に乗りおくれたといって、
亀居、志村の二人が引きかえしてくるのに出合った。
駅で待っていても仕方がないから、東奥日報社に寄って、そのごの情報を得ようというのだった。
それで三人一緒で竹内俊吉を訪ねた。
満州事変での従軍記者などもいて、竹内俊吉のほかにも東奥日報社には、
顔馴染みになっている若い記者が沢山いた。
その記者たちが、私たちをとりまいて、
こんどこそなんとか維新に持っていかなければ・・・・と
口々に目をかがやかしていったのだった。
東北農村の疲弊を膚に感じている記者たちでもあった。
竹内俊吉はまっさきに、書き取ってあった決起趣意書を私に渡した。
師団長にもみせる必要上、それをさらにもう一部書き取ってもらった。
参加将校の大部分の名前もわかった。
私の知らない名前が多かった。
大岸大尉や菅波大尉の名前はなかった。
竹内俊吉は
「 澁川さんはどうでしょうね 」
と きいた。
澁川の名前はまだなかった。
竹内俊吉は澁川だけをよく知っていた。
いつであったか澁川が青森にきたとき、青森県の農村の事情を知りたいというので、
竹内俊吉や澁谷悠蔵を紹介したことがある。
私が連隊にいっている留守に澁川は竹内俊吉らに会いにいった。

私は連隊へ、亀居、志村は弘前へと別行動をとるときになって、
亀井大尉は、師団長へり意見具申は、やはり貴様がいかなければ駄目だ、一緒にいこうといった。
が、私は谷口中佐との公的約束を破るわけにいかないので、あとからいくことにして一応連隊に帰った。
将校集会所では昼の会食は終わっていたが、私の帰ってくるのを待っていて解散せずにいた。
私が将校集会所にはいると、谷口中佐が一同に、これから末松大尉に説明させると告げた。
私は先ず 『 決起趣意書 』 を 読みあげ、つづいて、これまでに知りえた情報をかいつまんで話した。
そのあとで谷口中佐の許可を得て弘前に向かった。
旅団司令部の副官室では、小野連隊長と亀井大尉、志村中尉が一つのテーブルをかこんで、
寄り合って腰をかけていた。
志村中尉が 先ず 「 うまくいきました 」 と いった。
くわしく意見具申の模様をきくと、私のすることは残っていなかった。
そのまま一緒に帰ろうとすると、連隊長が折角きたのだから、旅団長に挨拶だけでもしたがよかろうといった。
旅団長は飯野庄三郎少将だった。
旅団長は上機嫌で私を迎え、
「 うむ、こんどの君らのやり方は満点だ。いつもこのようにすればいいんだ。年寄りは語るに足らんと思っちゃいかんよ。」
と いった。
いつものように・・・・といったのは、このようにしなかったことによって、私が処罰されたことをいってるわけだった。
私がこれに 「 はア、はア 」 と 返辞だけして部屋を引きさがろうとすると
「 どうだ、師団長閣下に会っていかないか 」
と すすめた。
「 いいえ、もう亀居、志村の両名が申し上げて同意を得ているということですから、
私から重ねてなにも申し上げることはありません。」
と 私が辞退すると、
「 師団長閣下がよろこばれるから、会っていったがいい。うむ、すうするがいい。」
と ひとりぎめして旅団長は、さっさと先に立って師団司令部に向かった。
私は体格のいい旅団長の背中をみながらついていった。
 師団長・下元熊弥中将
上機嫌の旅団長とは対照的に、師団長のほうは沈痛な顔だった。
私にはいつもなら、からかい気味に話しかけてくる師団長だったが、
このときはそういったそぶりはみせなかった。
「 君らの考えはわかった。師団長としてもこの際 徹底した粛軍を陸軍大臣に具申しておいた。これがその電文の控えだ。」
と いって、電文の控えがいちばん上になっている書類綴を、私の前に差出した。
正確には覚えていないが、それは大要 次のようなことだった。
『 一時は不穏の形勢りたるも、目下団下一般に平静なり。 これを契機に徹底粛軍に邁進されたし 』
「 粛軍 」 は 「 維新 」 であるべきだとは思ったが、
それは先ず伏せて旅団長に、
「 一時不穏の形勢・・・・という、ここのところは、われわれのことを指しているように思われますが、もしそうであれば心外です。
 われわれはあくまで統帥の秩序はまもっているつもりですから。」
と いった。
「 それはそうだが、このままのほうがいいよ。軍当局を刺激することになるからね。」
と 旅団長はいった。
谷口中佐といい、旅団長といい、すっかり私のお株をとったように積極的である。
私と旅団長が電文の控えを中心に、ごそごそ話しあっているのをどうとったか師団長は、
「 それでいいだろう。とにかく師団長にまかしておきたまえ。悪いようにはしないから 」
と いって、いくぶん、いつもの親しみのある笑いをはじめてみせた。
その電文の控えを何気なくめくると、その下に陸軍大臣から師団長に宛てた、
今回の東京のことは軍首脳部において善処しているから、貴官は団下を厳重に統率されたし、
と いった意味の電文につづき、問題の 『 大臣告示 』 が 写し取ってあった。
それは次のようなものであるが、当時これを明確に記憶していたわけではない。
陸軍大臣告示
一、蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり
二、諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認む
三、国体の真姿顕現 ( 弊風を含む ) に 就ては恐懼に堪えず
四、各軍事参議官も一致して右の趣旨に依り邁進することを申合せたり
五、之れ以上は一に大御心に俟つ
師団長の陸軍大臣宛ての電文に、師団の状況が述べてあるのは、
陸軍大臣の電文に応えたものであり、旅団長の、すっかり気を許したような上機嫌、積極性は、
この、『 大臣告示 』 のせいだなと、了解がついた。
この 『大臣告示 』 は あとでは説得の手段にすぎない無価値のものということになるのであるが、
このときこれを文字通り読んでの印象では、陸軍首脳部は一致して蹶起の趣旨も行動も認めたことになるし、
之れ以上は一に大御心に俟つ ということも、従来の慣例からいえば決定したようなものであるから、
蹶起部隊の目的である昭和維新の第一関門が、
これによって開かれると思って差支えないように受け取れた。
とすれば、われわれの意見具申に師団長、旅団長が同意するもしないもなかった。
陸軍大臣のほうから前触れがきていたのだから。
旅団長の意外な積極性はともかく、師団長のこのときの処置も、ひきつづいての処置も、
この 『 大臣告示 』 に 大きく左右されていたにちがいない。
が、私は虫が知らしたとでもいうのか、このとき不思議にこの 『 大臣告示 』 に 不安を感じた。
特に第五項の 之れ以上は一に大御心に俟つ に 不安を感じた。
しかし、不安は感じながらも、維新の前途にかすかな希望を、これによって持ったことは事実だし、
これで蹶起した同志は自決しなくてもすみそうだという、安心を抱いたことも事実である。
旅団長は、私が 『 陸軍大臣 』 を 丹念にみているのを、
どうだ、こういういいものがきているのだよ
と、いわぬばかりに、のぞきこんでいた。
師団長室を出ようとすると、師団長は、
「 秩父宮殿下に御上京についておうかがいしたところ、
高松宮に連絡してみて、その模様によって、御上京するかしないか
を お決めになるということだった 」
と つけ加えた。
亀井大尉と志村中尉が意見具申をしたとき、志村中尉が、とっさの思案で、
殿下の御上京の件にふれたのに対し、師団長は、いいことを注意してくれた、
早速おうかがいしてみようといったということだったが、これはその結果を知らしてくれたわけだった。
本庄侍従武官長の 「 手記 」 の 第二日 ( 二月二十七日 ) の部分に
『 弘前に御勤務中の秩父宮殿下には、此日御上京あらせらるることとなりしが、
高松宮殿下 大宮駅まで御出迎あらせられ、帝都の状況を御通知あらせられたる後、
相伴われ先ず真直ぐに参内あらせられたり 』
と あるのと合致している。
第八師団司令部
意見具申を終わって、連隊長とわれわれ三人が、弘前を発ったのは日暮れどきだった。
車中 連隊長は、今日の出張の目的だった渡辺教育総監辞職勧告文の件につき話してくれた。
こういった際にも、一応この件の打ち合わせは行われたようだった。
「 全国からの辞職勧告文は大変な量だったそうだ。
しかし教育総監は一通もそれを読んでいず、副官が逐一 部隊宛送り返したということだ。」
連隊長は笑いながら、こういった。
私の苦心の勧告文も全く意味をなさなかった。
青森駅から夜道を官舎まで歩いた。
連隊長は別れぎわに、亀居大尉だけを呼んで、何か注意していた。
意見具申もとおったことだし、君は最古参だから、若いものをよく取鎮めるように・・・・
と いったと、あとで亀居大尉がいっていた。

ハモニカ長屋の独身官舎、そのとっつきの小岩井少尉の部屋に、青年将校が全員集まって、
今日の意見具申の結果如何にと待ちかまえていた。
私は大尉になってから独身官舎を出ていたので、一たん自分の官舎に帰り、出直して独身官舎に出向いた。
亀居大尉は先にきていた。
意見具申の結果はあらまし披露されていて 一同は、一先ず やるだけのことはやったという気持ちで、
くつろいでいた。
私は私なりに、『 大臣告示 』 その他の師団長室での状況を話し、
一同に安心を与えたが、それを話しながら、実は内心絶えず不安につきまとわれていた。
軍内の実情が、そうやすやすと、蹶起将校の意志をとおすとは思えなかったから。
維新と表裏する粛軍ということも、文字は同じでも、その内容は両極端であるはず。
人生万事 撥釣瓶はねつるべである。
上がるものがあれば下がるものがある。
粛軍によって上がるものが一方にあれば、それに対応して下がるものがなけれはならない。
その下がるものが、なんの抵抗もせず、引きさがるだろうか。
粛軍の錦の御旗は、これを押し立てる勢力の所在によって、現われる結果は正反対である。
北、西田、それに 『 日本改造法案大綱 』 が、こんどの蹶起にどれだけの関連を持っているかによっても、
錦の御旗の所在がかわる。
北、西田に対しては、『 日本改造法案大綱 』 とともに、
先入観的に、青年将校を支持する軍首脳のなかにさえ、反撥があるときいている。
力の均衡が微妙に動揺する場合には、蹶起に反対して現状を維持しようとするものは、
これを勢力挽回の好餅に利用するだろう。
大岸大尉が別に 『 皇国維新法案 』 を起案し 印刷した苦心は、
この辺の消息を知っておればこそだった。
大岸大尉がこれの原稿を、はじめて私に提示したとき、それを手中にもてあそびながら、
将軍連は 『 改造法案 』 がきらいだからなア ・・・・と つぶやいていた。
しかしこのとき、北、西田、『 日本改造法案大綱 』 と蹶起部隊との関連については、
なんらの情報に接していなかった。
一同は東京の蹶起についていろいろはなしていた。
連隊の下士官たちも気合が かかっているという話もしていた。
そのとき誰であったかが、東奥日報社に電話して
蹶起部隊は警備部隊の一部として警備地区を与えられ、左翼の蠢動に備えて治安に任じている、
安藤隊は幸楽にいるというニュースを得て、それを皆に伝えた。
それでは安藤大尉に電報を打って、第八師団の状況を通知してやろうではないか、
地方の同志はどうしているだろうと案じているだろうから・・・・と、
誰が提案するまでもなく、その場の空気で相談が持ちあがり
「 師団はわれわれとともに行動する体制にあり 」
の 電報を打った。
あとで考えれば、甚だ非常識な電文であり、処置であるが、
そのときは前後の関係から、格別奇異なことには感じなかった。
この電報を打ったことから気がついたように、
陸軍三長官宛 「 今回の蹶起を契機に維新に邁進されたし 」
といった意味の電報を、師団長の許可を得て打とうという相談がまとまり、
明朝私が、そのため師団長の許にいくことになった。

末松太平著  私の昭和史 から
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