あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

十一月二十日事件 ・ 辻大尉は誣告を犯した

2018年03月12日 11時42分01秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

・・・ここで辻政信著 『亜細亜の共感』 ( 昭二五 ・一二・二三発行 ) によって、
著者の十一月二十日事件観を検討してみたい。
辻大尉が革新に志したのは
『 亜細亜の共感 』 によれば陸軍大学校察行の年、
柳条溝の一発によって満洲事変が勃発したことが契機なようである。
それまでは
「 力を以て大陸に伸びようとするものと、これを阻まうとするものとが、
革新陣営と保守陣営とに分れて相剋し、軍の内部にも鋭い対立を見るやうになった。
北一輝氏の 『支那革命外史』 はこのような雰囲気に愛読せられ、
『日本改造方案』 が革新運動を志す青年のバイブルとなったのである。
併し、私はこの空気を呼吸し、この空気の中に生きながら、異なった考へを抱いた。
大厦は堅固な基礎の上に建てられねばならぬと、
傍目もふらず兵学の研究に、与へられた軍務に没頭し、
大陸問題や、国内革新問題を、本末顚倒であると冷ややかに見ながら、
脚下を固め、踏むべき途を踏んでいった 」 ( 『亜細亜の共感』 6~7頁)
といって、
辻大尉は革新には容易に心を奪われなかったという。

が、満洲事変勃発を契機に
「 満洲問題を解決するには、国内の革新も已むを得ないと考へて、進んで桜会に入った 」  ( 『亜細亜の共感』 6~8頁)
と いう
桜会に入った辻大尉は
「 身を挺し、妻子を捨てて決起の準備を整へ、学生の本分を省みずに、何時でも参加しようと考へていた 」  ( 『亜細亜の共感』 8頁)
と いっているように、
十月事件に参加しようとする。
が 陸軍大学校の演習で九州にいっていたとき、十月事件の陰謀発覚を知らされ、
事件の真相を東京に帰ってきてきくに及んで、つぎのように橋本中佐らに疑惑を抱くに至ったという。
「 信頼した桜会の先輩達は、赤坂の待合で流連し、謀議した為発覚したとも噂され、
 或は故意に洩らし、決行に先だって検挙を受けたとも言はれてゐる。
殊に心外であったのは、謂はゆる事件をリードした人々がクーデターの後に、
総理や陸軍大臣の椅子さへも覘ってゐたことが、判明したことである。
生命を捨て、妻子を棄てて、唯々国のために死のうと悲壮な覚悟をしてゐたのに、
これを指導した先輩は、「 死ぬ 」 気がないのみならず、
犠牲を踏台にして、栄達を夢見ていたのではなからうかの疑問が深く起った。」  ( 『亜細亜の共感』 9頁)
これによれば、私などは革新へ踏み切った動機が全然ちがうが、
それでも十月事件に対しては、ほぼ同じ感想を持っている。
陰謀発覚の原因が、大川 ・橋本の線か北 ・西田の線かということは、
当時偕行社の会合で、両者を対決させようとまで緊迫したものだったが、
これについても辻大尉は、
発覚の原因は橋本中佐ら幕僚側だったと推測している。
もっとも最近発刊された 今村均元大将の 『回想録』 によれば、
当時参謀本部の作戦課長だった今村均に、部下の池田純久大尉が、橋本中佐らが陰謀を企てていると、
裏切りの密告をしたことが、発覚の端緒ということになっている。
革新へ踏み切った動機が全然ちがうせいか、十月事件後の動向も私どもと全然ちがっている。
私どもは一度は迷いこんだ幕僚の革新ベースから、もとの自己本来のペースに復帰したまでのことだったが、
辻大尉は革新の途から百八十度の大転換をするのである。

前の引用つづけて
『亜細亜の共感』 に、次のように述べている。
「 当然の反動として、彼等に同様の手段で煽動されてゐる青年を救はねばならぬと考へるに至った。 
 まさに百八十度の大転換である。 
後年陸士の中隊長となって市ヶ谷台に職を奉じたとき同様の機運に煽られた生徒を救うべく、
革新を喰い物にする背後の勢力と戦って敗れ、水戸の連隊付に追ひ出されたのが、謂はゆる十一月事件であった。
デマは飛び、圧迫は加はったが,
正邪は二・二六事件によってはっきりした今日、敢へて弁解し説明する必要はあるまい。
明かに背後にあって、純真な青年将校を指導し、煽動したM大将等が今日なお恬然てんぜんとして、自己弁護に之れ努め、
躍らされた多数の青年将校が、代々木の刑場に黙々と眠ってゐる事実は、永久に歴史の批判を受けるであらう。」

果して事実、辻大尉は、日本海開戦の東郷大将のように百八十度の歴史的大転換をしたのであろうか。
そうであるとすれば自宅で私に、自分も革新に志しているといったことは嘘であるし、
事実十月事件後の辻大尉の言動はそうではない。
しばしば革新的会合に顔を出して、大蔵、磯部大尉らとも同席しているし、
村中大尉とも何度か、革新ついて意見の交換をしている。
大蔵、磯部大尉と同席した永井大尉の自宅での会合では二人に
「 君らがやる時はすぐ知らせてくれ、そのときは決してひけはとらない 」
なとどともいっている。
もし百八十度の大転換が本当だとすれば、
それは佐藤候補生をスパイに使う前に、
自分自らがすでにスパイをつとめていたということになる。

「 君らがやる時はすぐ知らせてくれ、すぐ告発するから 」
とでも腹のなかで思っていたとしか、とることはできない。
また十月事件と 「 同様の機運が煽られた生徒を救うべく 」
といって内情を探らせた先が橋本中佐らであるか、
でなければ 「 革新を喰い物にする背後の勢力 」 の M大将ら、すなわち真崎大将らであれば筋が通るが、
辻大尉自らが 「 純真な青年将校 」 といっている 村中大尉らであっては辻褄が合うまい。
それどころか、筋道からいえば、村中大尉らの陰謀が察知されたとすれば、
告発する前に、村中大尉らのもとに駈けつけるなり、先輩でもあるのだから村中大尉らを呼びつけるなりして、
革新を喰い物にするものに躍らされていることを忠告して当然である。
このことについては辻大尉は、
告発した十九日の前日、
すなわち十八日に村中大尉のうちにいくつもりでいたが、来客があってできなかったと弁疏したらしいが、

天下の一大事と来客と、どちらが大切かわからない辻大尉でもなかったはずである。
十一月二十日事件のことは、どういうわけか、
同工異曲で、重ねて 『亜細亜の共感』 に次のように述べてある。
「 新疆しんきょう旅行の翌年八月、参謀本部から陸士の中隊長に転出した。
叛乱前夜の切迫した空気の中に、
桜会以来、謂はゆる革新将校なるものの正体に、愛想をつかしてゐたので、
せめて市ヶ谷台の生徒達だけでも、このやうな不純な陰謀の手先から護らうと、覚悟してゐたのが、
明かに台上に触手を伸ばしつつある確証を握ったので、その防止に身を挺したのは、二・二六事件の一年前であった。
時に利らず、却って 「生徒の指導を誤りたる科」 との理由で、重謹慎三十日に処せられ、
満罰と同時に水戸連隊付となり、一年間、世の中の事を忘れて、唯只管青年将校と共に、本務に精進している時、
不幸にして、一年前の予言が的中し、未曾有の叛乱事件が起きた。
この事件により、初めて過去の黒白が明かにせられ、被告の立場から、原告の立場に帰った訳である」 (67~68頁)

新疆旅行の翌年八月というのは昭和九年、
辻大尉が十一月事件といっている十一月二十日事件のあった年の八月である。
同じ年の九月、
すなわち辻大尉が陸軍士官学校本科中隊長に着任した翌月には、
千葉の歩兵学校に通信、歩兵砲の学生が集り、鶴見中尉の周囲に二三十人の将校が結束するのである。
それは 「叛乱前夜の切迫した空気」 といっていいものかも知れなかった。
が、このグループは辻正信のいう、桜会以来の、いわゆる革新将校とは、なんの類縁もない。
むしろ辻正信が 『亜細亜の共感』 で述べているところのものと同じ立場の批判者たちである。
辻正信の論旨が一貫するならば、愛想をつかされる正体のものでもなければ、
たとえ陰謀はあっても、辻正信のいう意味の不純なものではなかったはずである。
待合で流連はおろか、私の下宿に集まって、番茶をすすり、たまに茶菓子が出れば上等の部で、
人の死を踏み台にして、栄達を夢見るものはいなかった。
死ぬ覚悟もあった。

このとき歩兵砲学生に瀬戸口という中尉がいた。
五 ・一五事件の士官候補生と同期の四十四期生で鶴見中尉の傘下にいたが、
赤穂義士を気取ったわけではないが、革新のことは父親に打ち明けずにいた。
が、なにかの拍子に自分の覚悟を話しかけてみたくなった。
話してみた。
父親の出方によっては仲間を裏切ることになると、内心はらはらしながら。
が、それに対する父親のことばは意外といえば意外だった。
「 自分はいままでなにもいわなかったが、
実は五・一五事件のとき、参加した士官候補生のなかに、お前の名前がなかったことを遺憾に思った。
やっとお前にもそんな覚悟ができて満足だ。」
瀬戸口中尉の父親は退役の老少将だった。
志村中尉と二人で私の前に坐った瀬戸口中尉は、
親に打ち明けたことを私からとがめられはすまいかと、小さくなっていた。
老少将のことばは、かねて無口の瀬戸口中尉に代わって、志村中尉が私に伝えた。

この瀬戸口中尉のような純真な将校ばかりが寄り合ったのが、千葉のグループだった。
辻大尉自身 「純真な青年将校」 といっているそのもの自体だった。
不純な陰謀の元締めと辻大尉にみられているM大将ら、
すなわち真崎大将らから、
なんらの指導も受けていなかったし、受けようとも思っていなかった。
強いて叛乱前夜の切迫した空気というものを模索するならば、
千葉のグループがそれに該当するのだが、スパイを向けた先きは、千葉のグループではなかった。
叛乱前夜の切迫した空気など藥にしたくもなかった村中大尉らに向けられたわけである。
当時の東京の青年将校の空気が、いかに千葉グループにとって微温的に感じられたかは、すでに述べたとおりであり、
大蔵大尉のうちでの 「革新教室」 の講師、多田督知大尉や坂西一良大佐も、それは実感していたはずである。
「叛乱前夜」 と殊更にいうことは当時の辻大尉の幻覚か捏造かでなければ、
規定の事実の二・二六事件の結果から逆に原因を虚構して実情案内のものに、
そう思いこませようとするだけのことである。

百八十度転換して革新に背を向けたものが、
満洲でわざわざ菅波大尉に会い、しかも菅波大尉と意気投合したものが、
何故菅波大尉の同期生で、親友であり、古い同志である村中大尉をスパイしようとしたのか。
そのわけは菅波は純粋で質素でボロ服を着ていたが、
村中は不純な浪人西田税と密接だから、不純でぜいたくだということだった。
これも詭弁の甚だしいものだった。
もちろん菅波大尉は純粋で質素であることに相違なかったが、決してボロ服は着ていなかった。
むしろお洒落れと思えるくらい、いつも身だしなみがよく、
その颯爽とした軍服姿は私どものあいだでさえ定評があった。
村中、大蔵大尉が、ぜいたくだということも苦しい言訳だったが、
純不純が西田税と密接であるかないかによってはかられるとすれば、
菅波大尉こそ、不純の最たるものだったはずである。
西田税を菅波大尉が知ったのは士官学校時代からで、
私などよりも二期先輩だけに二年は古いし、
村中大尉や大蔵大尉は菅波大尉の紹介で、あとになって西田税と知り合うのである。
なかでも大蔵大尉が西田税と密接になったのは、
私がすでに述べているように、
十月事件後、私が出征したのちのことである。
また村中大尉らをスパイしたことは、私には泥沼談義であいまいにしたけれども、
『亜細亜の共感』 では明らかに 「 その防止に身を挺した 」 と、積極的に自分から内偵させたことを告白している。
もっとも、十一月二十日事件の審理の過程で、すでに辻大尉ハスパイの事実を自認していたもののようである。

拘留中の村中大尉が陸軍大臣と第一師団軍法会議長官にあてた上申書には、
「 辻大尉は青年将校の内情を探らんと欲し、
佐藤候補生をスパイとして私共に接近せしめたり。
右は辻大尉、佐藤候補生の両名斉しく之を認むる所にして、
其の目的動機を美化しあるも、
少なくとも辻大尉に於ては、
従来私共に対し悪意的な言動ありしこと、対立的態度に在りし
こと等より推測して、
其の目的は当然に私共を排撃するための資料を獲得するに在りしは

明瞭にして疑念の余地なし 」
と 辻大尉のスパイ行動が述べられてある。
すなわち、これと 『亜細亜の共感』 の辻大尉の記述とを対照すると、
村中大尉の推測は的中していることになる。
私に対する言訳はともかく、
この 『 亜細亜の共感 』 のとおりのことが、
十一月二十日事件の審理中に表明されていたとすれば、
十一月二十日事件は、これがきっかけで継起した爾後の事件とともに、
あるいはちがった様相を呈したかも知れない。
二・二六事件によって、
「 初めて過去の黒白が明かにせられ、被告の立場から、
原告の立場に帰った訳 」
だから、もう大丈夫と、あからさまに本音をいったわけかも
知れないが、

その二・二六事件は、
では辻大尉の 「 一年前の予言が的中した 」 ものだろうか。

また 「 正邪は二・二六事件によってはっきりした 」 といい切って、いいものかどうか。
話の調子で、不純にしてみたり、純真にしてみたり、勝手に青年将校の首のすげかえをして、
予言が的中したとか、正邪ははっきりしたとか、自己審判をいそいでいるが、
事情をくわしく知らないものには、これで通るかも知れないし、
「 不純な 」 「 躍らされた多数の青年将校 」 は
「 代々木の刑場に黙々と眠って」 いて一言の抗弁もしないだろう。

 (いつまでも代々木の刑場などに眠っていはしない) 

が、これはちょっと待ってもらわなければならない。
予言者を自認することも、正邪を自己審判することも待ってもらわなければならない。
過去の黒白は明らかだが、辻大尉自身で、自分を白と決めることも待ってもらおう。
被告の立場から原告の立場に帰ることも待ってもらおう。
もともと十一月二十日事件では、被告は村中大尉らであり、原告は辻大尉自身であったはずである。
勝手に原告が被告になったり、また原告にもどったりされては見当がつけにくい。
私は当時の体験者として、事実だから、なんの変哲もなくいう。
十一月二十日事件に関するかぎり、辻大尉は誣告を犯したのであり、
したがって、たとえ二・二六事件のあとであっても、辻大尉は予言者とはならない。
村中大尉 磯部大尉が、すでにこの世になく、
死人に口なしで、意志表示はできなくとも、

私をはじめ当時の関係者は、大東亜戦争を戦い抜いてなお多数生存している。
私の結論は、この全国に散在している多数の懐かしい同志の代弁にすぎない。


末松太平
私の昭和史
十一月二十日事件 より
 


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