あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

三角友幾 ・ 辻正信に抗議

2018年03月13日 11時29分37秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

十一月二十日事件には
生きた資料がげんぞんしているのである。

前がき によれば
『亜細亜の共感』 は、
辻政信自身の中国観を述べることが目的だったようである。
が、そのなかに十一月二十日事件を中心とした、
青年将校運動のことが、取ってつけたように挿入されているのである。
しかもこれは
「 赤裸々に告白した懺悔録 」 であることが同じ 前がき に述べてある。
とすれば、
何故赤裸々な告白もせず、
懺悔もせずに、
洒落れではないが 
辻褄のあわぬ自己弁護に腐心したのだろうか。
辻大尉の 『亜細亜の共感』 における叙述では、
十一月二十日事件に関するかぎり、
私の引用は全部を原文のまま網羅しているから 「引用の誤謬ごびょう」 は冒していないつもりだが、
それが如何に狡知抗弁にみちたものであるかは、
私の粗末な解説によっても、ざっと文脈をたどるだけで誰にも了解できると思う。
バタ野みたいに、自分に都合のいいものばかりを手当たり次第拾いあつめて、
あとはほったらかした格好である。
もともとこの 『亜細亜の共感』 を私に提示したのは三角友幾である。

三角友幾は澁川善助に兄事した関係から、村中大尉らとも相識の間柄だったが、
二・二六事件ごろから脊髄カリエスを病み、爾来東京や信州で闘病の生活をつづけ、
ここ十数年は松本市豊丘の療養所で病臥したままである。
・・・
『亜細亜の共感』 が発刊された直後、三角友幾はこれを病床で読み、
辻正信が二・二六事件を誹謗していることに黙っておれなかった。
病床で抗議文をつづり辻正信に送った。
抗議文とはいってもそれはつつましく、へりくだったおだやかなものだった。
が 辻正信からはなんとも返事はなかった。
黙殺されたと思った。
やむなく、その抗議文の控えと 『亜細亜の共感』 を私に送り、
ひきつづき辻政信に釈明を求めることを依頼した。
その抗議文というのは次のようなものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
( 前文略 )
過日 『亜細亜の共感』 を拝見しました。
人には各々立場や考え方の相違は止むを得ないことで、
私なりの愚見が無いではありませんが、当時至誠一貫御苦心されたことはよく分りました。
ただその中で私として一読看過出来ない点が有りましたので、
そのことに就て先生のお考えを承ることが出来ればと存ずる次第であります。
その一つは
その六七頁に 二・二六事件を 「 不純なる陰謀 」 と断定しておられる箇所であります。
先生は今日尚お 「 不純なる陰謀 」 と確信しておられるのでしょうか。
それとも当時に於て左様にお考えになっていただけなのでしょうか。
若し今日尚お不純なる陰謀なりとお考えでしたら、その理由を知り度いと存じます。
而して当時左様にお考えになっただけと致しますれば、
どうして 「 死者に鞭うつ 」 様な書き方をされたのでしょうか。
先生は同じく九頁に
「 青年将校がM (真崎) 大将に煽動されて起った 」 と言っておられますが、
ずっと以前は知りませんけれ共、
事件直前に於て、青年将校は真崎氏とは直接の関係は有りません。
その前に真崎氏 (勿論外の将星も) には期待しないと言うことを私は、はっきり聞いています。
尚お又 「煽動」 で起こったという断定は、大丈夫を侮辱する言ではありますまいか。
恐らく先生も未だ人の煽動で行動されたことは無いと信じます。
それと同様に青年将校も亦自ら信ずる道で、あったからこそ一筋に直進した筈です。
「 純真なる青年将校 」 と言い
「 躍らされた 」 と言い、
言は之を弁護するかに見えて、
その実は軽率無用の事を仕出かしたと言う意味にも通じ、
侮辱にも甚だしいとしか感じられません。
若しかしたら先生は青年将校の背後にあって、
西田氏等が陰謀を企んだ様にお考えかも知れませんが、
あの事件に関する限り、西田氏は首導者ではありません。
むしろ之をとめています。
此の事は齋藤瀏氏も認めておられることであります。
してみれば西田氏は事件に殉じたのであって、
同氏をも併せて極刑に処した事こそ当局者の陰謀ではありますまいか。
実は私は事件関係の人で澁川氏を最もよく知っております。
次いで西田氏を知っており、村中磯部両氏とも面識は有りました。
そうした立場で事件の前後のことは一通り直視して来たつもりであります。
非合法行動でありますから、その意味では確かに陰謀でありましょうが、
之を不純なりと一括誹謗することは出来ないと確信いたします。
三月事件や十月事件では予め閣僚名簿まで用意されていた由でありますから、
見方によっては不純とも言えましょう。
然し二・二六事件はその蹶起趣意書にも述べてあります様に、
第一師団の満洲出動決定によって、
国内の奸臣軍賊を斬る以外に、何らの用意もないではありませんか。
或は蹶起後直ちに原隊に復帰しなかったとか 自決しなかったという論議も成り立ちましょうが、
それはそうして貰った方が都合の良い立場の人の論で、
又国防の任に当たる軍の首脳や政局担当者が ( 先生方にも責任なしとは言えないのではないでしょうか )
祖国を未曾有の敗戦に導いておき乍ら、
戦後尚お永らえているのと、どれだけの差が有ると言えるのでしょうか。
恐らくは何れも祖国の前途を憂えてのこと。
前者不純ならば後者も亦不純ならずとの論は成り立たないと考えられます。
又二十六日から二十八、九日まで混乱状態に在ったことに就ては、
当局軍首脳部のとった態度、
例えば 大臣告示を提示してアイマイに回避を試みた等 重大な責任の有ることではありますまいか。
当時あれだけの兵力を以てすれば、若しやる気が有れば宮城の占領も出来た筈です。
もっと多くの人を殺すことも出来た筈です。
而もそれを為さず唯自ら断頭台に送る結果に終ったことは、
その事の批判は別として掬すべきものが有りはしないでしょうか。
問題はそれよりも何故あの事件が起こったかという当時の客観的状勢にあるのではないでしょうか。
勿論誘因は沢山有るでしょうが、
新井勲氏の手記を読みますと、
二十八日頃野中大尉が
「 兵隊が可愛そうだ 」 と言ったのに対して
澁川氏が
「 兵隊が可愛そうだと言って、農民が可愛そうではないのか 」  と 食ってかかり、
野中氏が
「 そうか 」 と うなだれるところが有ります。   ・・・全国の農民が可哀想ではないんですか 
私は此の言こそ澁川氏の本然の絶叫だと信じます。
渋川氏は東北、会津若松の出身であります。
昭和八年は農村は豊作饑饉と言われた年であり、
後藤農相は米価維持のための減反案を発表した位でありました。
ところが翌九年、翌々十年は東北は相次ぐ冷害でひどい凶作となり、
農民自身に食べる物もない者が多く、娘が十五円位でどんどん身売りしていた時代であります。
此のため後藤農相が救農予算を要求しても政府に財源無く、
荒木陸相が所謂竹槍三万本論を振りまわし、軍事予算から二千万か四千万を回した時代でありました。
然も大陸の風雲は決して穏やかではなく、
何時又新しい軍事行動が起こされるか分らぬ実状に在ったのであります。
此のころ私は特別に思想的関心の無い青年将校からさえ
「 後顧の憂いを持つ兵隊に突撃号令をかけなければならぬ自分の立場が苦しい 」
と 訴えられたことを覚えています。
省みてみますと、
斯かる時代に何も起らなかったとしたら、それこそ その方が不思議ではありますまいか。
・・・略・・・
過去のことに就ては吾々は永らえておればこそ兎角の論を為せるのではありますまいか。
その意味に於て、神の審判ならいざ知らず、
先生若し事件関係者の蹶起とその刑死に対し、一片の義心を認められますならば、
之をむちつよりも、
むしろ瞑せんとして尚お瞑することの出来ない関係霊位を回向慰霊さるべきではないかと
存ずる次第であります。
尚お玆には二・二六関係者を挙げて申し上げましたが、
敢て同関係者の人々に対してのみと申し上げるわけではありません。
(後文略)
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辻政信は、
十一月二十日事件が 辻自身の考えたとおりに処理されなかったから、

二 ・二六事件が起こった、だからいわぬことじゃない・・・・
といった口吻で予言者を揚言しているけれど、
そういういいかたが辻政信にゆるされるならば、
私にも次のようなことがゆるされてよかろう。

「 辻政信が余計なことに手出しするから
相澤事件を誘発し、
拙速に 二・二六事件を激発することになった 」
と。


末松太平
私の昭和史 から


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