あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

末松太平大尉の四日間 3

2019年11月02日 15時45分06秒 | 赤子の微衷 4 後事を托された人達 (末松太平、大蔵榮一、佐々木二郎)


末松太平 

このときまでか、あるいはこのあと二、三日をふくめてのあいだかに、
ここに書いた意外に、私はもっと東京の情報、噂を得ていたように思う。
それは東奥日報社の竹内俊吉からきいたもののほか、ラジオのニュースや、東京の新聞や、
同志関係のものと思われた 『 維新情報 』 などによって得たのかも知れなかった。
リンク→昭和維新情報
しかし不思議にラジオについての記憶がない。
ラジオは私も持っていなかったし、
ハモニカ長屋の独身官舎の住人中、一人も持っているものがなかったせいかも知れない。
上京された秩父宮殿下が安藤大尉を、なぜいつまでも頑張るのかと、おいさめになったということ、
軍の首脳か幕僚かが、維新の具体案は、と きいたとき
磯部が、これだ、といって 『 日本改造法案大綱 』 を 叩きつけたということ、
青森駅では五連隊が列車を出せといっても、機関手は絶対運転に応じてはならないという指令がでているということ、
県知事が県庁職員を集めて、五連隊が占領しにきても、各自は絶対に職場を放棄しないよう注意したということ
・・・・などは 私の耳にはいっていた。
それが、どういう経路で、誰からきいたのか覚えていないが、
若い将校一人一人が、それ相応にアンテナの役をして、なにやかやと情報を得ては、
それを披露していたようである。

次のことだけは、しかし、たしかに竹内俊吉からきいたことだった。
ある代議士が竹内俊吉をたずね、
君は五連隊の青年将校と仲がいいようだから頼む、おれを殺さないようにいってくれ
と いったという。
また ある市内の有名な金持ちが、
五連隊が襲撃してきたら、金はみな渡すから、命だけは助けてくれるよう君からいっておいてくれ、
と 竹内俊吉に泣きついてきたという。

《 二十九日 》
夜と昼との交替は人の心に区切りをつける。
二十九日の朝は、もうじっとしているよりほかに、方法はないと思った。
皇軍相撃のことも、きっと事なくおさまるにちがいないと思うほかはなかった。
私は連隊に出勤しようと立ちかけた。
すると玄関の戸が静かにあいて、忍び入るように訪ねてきたものがあった。
佐藤昭三だった。
渋川の使いで東京からきたという。
「 渋川さんのいうには、維新はいま一歩のところまできているのだが、あと一押しが足りない。
その一押しは地方の蹶起に待つほかはない。
地方といえば東北では仙台が近いが、やはりなんといっても期待ができるのは青森だから、
蹶起するよう はなしてこい というのできました。」
佐藤昭三は弘前高等学校を卒業して、東京に遊学中の学生だった。
弘前の伊東六十次郎らの東門会グループで、私とは前から顔馴染みになっていた。
渋川が青森への使いに立てるには適材というわけだが、いわゆる狂瀾を既倒に廻らす使命を帯びたにしては、
このときの佐藤は悄然としすぎていた。
「 冗談じゃない。もう行動隊は叛乱部隊といわれて、討伐させられようとしているよ。」
佐藤は流石にきっとなって反駁した。
「 そんかはずはありません。陸軍当局は行動隊を認め、私が東京を発つときは、
うまくいっていました。」
「 じゃ、東奥日報社にいってきいてきたまえ。
ひよっとするともう討伐されているんじゃないかと心配しているところだ。」
佐藤昭三は、これも同じ弘前出身の東門会グループの学生宮本誠三らと、渋川と連絡をとりながら、
ガリ版ずりの 『 維新情報 』 を 作っては、各地方同志に配布する仕事を分担していたという。
「 決起趣意書 」 や 行動隊の好調ぶりを載せたその第一報は、私も受取っていた。
「 一体こんどは第二の五・一五のつもりだったのかね、それとも一挙に維新に持っていくつもりだったのかね。」
「 さあ・・・・。一挙に維新に持っていくほうではないですか・・・・。」
佐藤には自信がないようだった。
「 地方に連絡したのは青森だけ・・・・」
「 和歌山にも連絡したようです。大岸大尉は演習日だから、演習にいくといっていたということです。」
大岸大尉は上京してもいず、予めなんの連絡も受けていないようだった。
佐藤は東奥日報社にいってみましょうと腰を浮かした。
私にとっては、そのごの情報を得るためにも、佐藤が東奥日報社にいってくれることは好都合だった。
憲兵も警察も、ここまできては去就を明らかにして、監視の目を光らしはじめているだろうから、
私が竹内俊吉と連絡することは、出向くことはもちろん、
電話でさえも先方に迷惑のかかる心配があった。
これまでのことがすでにそうだった。
私は竹内俊吉への紹介状を書きながら、これまでのことで迷惑がかかりはしないかも、
きいてくるようにいい添えた。
佐藤が出かける後姿を見送りながら、途中でひょっとすると憲兵にか警察につかまるかも知れないと思った。
私は気がすすまなかったが、佐藤が出かけたあと連隊に出た。
隊長室にはいった私の気配を察して田中曹長が、そっとノックして、命令、会報簿を持ってはいってきた。
「 各中隊の下士官どもが、若い将校が起つなら、おれたちも起たなければなるまいと、
よりより集まって相談していましたが・・・・」
と、命令、会報簿を机の上に置きながら田中曹長は、私の気を引くようにいった。
下士官たちの動静は、独身官舎に集まっていた若い連中から、すでにきいてはいた。
「 なにもしようとは思っていなかったよ。」
田中曹長はあてが外れたとでもいうように 「 はア 」 とだけ返辞して部屋をでた。
三日のあいだ目をとおさずにいた命令、会報簿を点検して判を捺した。
われわれが弘前にいったことは、全部連隊命令になっていた。
将校には誰にも会いたくないので、昼ごろ官舎に帰っていると、
間もなく佐藤昭三が無事戻ってきた。
「 やはり おっしゃるとおり駄目でした。蹶起部隊はぞくぞく帰順しているといっていました。」
力なく佐藤は坐るや、そういった。
「 五連隊と連絡したのは新聞社としての当然のことをしたのだし、
竹内さんも新聞記者として当然のことをしたまでだから、ちっとも迷惑はかからない、
この点 御心配ないよう伝えてくれといっていました。」
気がかりだった竹内俊吉のことは安心していいようだった。
「 ところで君はこれからどうする。」
「 ついでだから、ちょっと実家によって、すぐ東京に引返します。」
「 旅費があるまい。」
「 ありません。やっと往きの汽車賃だけを渋川さんからもらってきました。
渋川さんも金がなく困っていました。」
私はなにがしかの金を持たした。
「 では、末松さんも元気を出して下さい。」
佐藤は来たときとはうってかわって元気な声を出し、微笑をうかべながら、
けなげに私を激励して帰っていった。
私は来るべき運命を覚悟した。
強烈な弾圧の到来である。
佐藤が帰ったあと、不利な証拠物件の焼却にかかった。
といっても大してあるわけではなかった。
郵便物とかぎらず、用済みのものは平素から焼却することを習慣にしていたから。
ただ、これまで全国に配られている、いわゆる怪文書類は、どうせどこかで入手されているにきまっているし、
証拠湮滅を図ったと思わせてもまずいので、わざと残しておいた。
特に 『 皇国維新法案 』 は、配布を見合わすように大岸大尉からいわれたので、
ほとんど手つかずに百部、あるいはもっとあったかも知れないのが、
渋川が持ってきてくれたままになっているのを、そのまま残しておいた。

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佐藤正三は西田税のもとで、
『 大眼目 』 編集仲間と蹶起将校を応援するため 「 昭和維新 」 第一報を作って各地に発送、
引き続いて第二報、第三報の準備をしていた。
雑誌 『 大眼目 』 は万朝報の杉田省吾が編集、渋川善助らが執筆している国家革新派のオピニオン誌である。
三〇〇〇部ほど出していた。
二十七日も佐藤は西田のところで 「 昭和維新 」 を編集していたが、
渋川の指示で、地方を蹶起させるため二十八日青森へ向かった。
まず、歩兵第五聯隊の末松大尉を訪ねた。
しかし、事態は蹶起側に不利に動いていた。
佐藤の使命は失敗した。
東京へ帰った佐藤は三月四日杉並警察署に検挙され、のち目白署に移され、さらにまた杉並署に回された。
その後東京衛戍刑務所に収容されて東京高等軍法会議にかけられ、八月二十日反乱幇助罪で起訴された。
そして、十月二十二日、
東京軍法会議特別裁判公判特別裁判公判に付され、
十一月二日
禁錮四年を求刑され、
昭和十二年一月十八日
反乱罪として禁錮一年半但し執行猶予四年の判決を受けた。
一月十八日午後六時ごろ衛戍刑務所出所、
二十一日午後七時の急行で帰弘の途についた。


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