あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

末松太平大尉の四日間 2

2019年11月03日 16時00分49秒 | 赤子の微衷 4 後事を托された人達 (末松太平、大蔵榮一、佐々木二郎)


末松太平 
《 二十七日 》
翌二十七日、私は連隊長の許可を得て弘前にいった。
前日どおり先ず旅団司令部に寄って旅団長に会い、旅団長の同意を得て旅団長と一緒に師団長に会った。
師団長は電報を打つこと、電文に師団長許可ずみと、書き加えることに同意した。
師団長は前日とちがって、沈痛のかげはなかった。
それにつけいったわけではないが
「 情況がさっぱりわかりませんから、私を東京に偵察に派遣していただけませんか 」
と 気楽に提案してみた。
師団長は 「 そのことなら心配いらない。参謀長を連絡のため東京に派遣することにしている。
君など 東京にやっては何をされるか、わかったものじゃない 」
と いって笑った。
そういわれてみると、是非にともいえなかった。
旅団司令部にひきかえしてくると、
旅団副官が
「 さっき五連隊から電話があって、亀居、志村の二人がここへくるから、
君に帰らずに待っているようにということだった 」
と いった。
なんのためにやってくるのかわからなかった。
師団長許可ずみの電報は、二人を待っているあいだに打った。
二人が私を追っかけてきたのは、陸軍大臣宛の将校団連名の意見書がまとまったからだった。
それはすでに三長官宛に打った電報と同じ趣旨のもので、それをただくわしくしただけだった。
この日は青森県下の各中等学校、高等学校に配属で出ている将校が全員連隊に集まる日だった。
その配属将校たちも含めて、連隊長以下、ほとんど全員が署名していた。
ほとんどといったのは、三名だけ署名を逃げたからである。
私は将校団連名の最後に私の階級と姓名を書き、宛名を書いてしめくくった。
その意見書を はたでみていた旅団副官は
「 五連隊がこうまでしているのに、三十一連隊は何をしているのだろう 」
と、なじるようにいった。
私たちは三十一連隊には働きかけることをしなかった。
阿部中尉や天野少尉では三十一連隊を動かすことは、無理と思ったし、
すでに旅団長自身が同意しているのだから、なにもいまさら三十一連隊の青年将校が、
旅団司令部に押しかけてくることもないと思っていたから。
が、旅団副官から、三十一連隊は何をしているんだ、と いわれてみると、
なるほど、そういうことになると思った。
私は将校団連名の意見書を旅団長にみせた。
旅団長は同意して、また私の先に立って師団長室に向かった。
師団長はちらりとみただけで、これは参謀長に持たしてやるといった。

この日も帰りは夜になった。
青年将校は前夜どおり小岩井少尉の部屋に集まっていた。
そのとき、東奥日報社との電話連絡で、蹶起部隊が陸軍省を占領したという情報がはいった。
なんのためいまごろになって、陸軍省を占領する必要があるのだろうと不審に思った。
昨日からの不安が急にふくらんできた。

《 二十八日 》
翌二十八日は前からの予定どおり、
弘前から出張してきた野砲隊との合同演習が、青森市南方の雪原で実施された。
雪原といっても雪が解ければ、田保畑である。
私はスキー隊を編成して、こま演習に参加した。
この日も夜、青年将校はまた小岩井少尉の部屋に集まっていたが、
そのとき旅団長が 青森駅前の旅館にきていることがわかった。
多分夜行で、参謀長につづいて上京するのだろう、
誰か旅団長に同行して、東京の情況をみてくるといいなどといいながら、
一同ぞろぞろ雪の夜道を、駅前旅館目ざして歩いていった。
私は旅団長に青森にきたのは、そうではないという予感がした。
この日の演習が終わってから東奥日報社に竹内俊吉を訪ねて得た情報は香しくなかった。
東京周辺の各衛戍地から東京に集中している部隊は、
蹶起部隊に対して包囲態勢をとっているとしか思えなかった。
そのとき蹶起部隊の写真もみた。

ビルの屋上に尊皇打奸と読める長旗が、なびいている写真や、
外套を着た将校が群集になにかはなしている写真などがあった。
が、それもいまは虚しいもののように思われたのだった。
旅団長の青森にきた目的は私たちにとって、果たして好ましいことではなかった。
旅団長はここにきて、いまさら態度を豹変させることもできず、
といって青森にきた任務を果たさないわけにいかず困りきっていた。
ただおろおろと、
師団長閣下が君らのことを心配されて、間違った行動にでないよう監督してくれというので、
こうしてやってきた・・・・を くりかえすだけだった。
若い連中は、
なにもいままで間違ったことをしようとしていたわけではないではないか、
それを急にいまになって監視するというのは、どうすうわけか、
などと旅団長に詰問していた。
旅団長は奥歯にもののはさまったようないい逃ればかりしていた。
司令部には東京の情報がはいっているのだ。
『 大臣告示 』 体制が崩れたのだ。
それを旅団長は知っていて、態度を変えてきているのだ。
ただそれを、はっきりいえなくて困っているのだ。
私はそれが読みとれたので一言もことばをさしはさまなかった。
突然、任官したばかりの倉本少尉が
「 旅団長閣下は われわれを裏切った。私は旅団長閣下を殺します 」
と 落ちついた態度でいった。
旅団長は一瞬、のらりくらりのいい逃れをとめて、顔を硬ばらした。
旅団長をいじめてみても仕方のないことだった。
私はこれを機会に一同に、引揚げをうながした。
一同が出口のほうに出ていくのをみすまして、もう一度、旅団長の部屋にいってみると、
旅団長は部屋のなかを、わけもなく、ぐるぐる歩きまわっていた。
私は旅団長閣下に無礼を詫びて一同のあとを追った。
一同に追いつくと、連れだって東奥日報社を訪ねた。
竹内俊吉はまだ社に残っていた。
竹内俊吉の顔にも憂いの色が濃かった。
それだけで万事がわかった。
奉勅命令がでて、蹶起部隊は叛乱部隊と呼ばれ、討伐されそうになっている、
市民はぞくぞく避難している、などと告げる竹内俊吉の声には、
二十六日の朝の弾むような響きはなかった。
蹶起部隊はどうして、ここまで追いつめられ、しかもなお頑張るのだろうか。
はじめから手放しの楽観はしていなかったが、あんな 『 大臣告示 』 が でていながら、
蹶起部隊はどうしてこんな羽目になったのだろうか。
ともかく憂えられるのは皇軍の相撃である。
これはなんとしても喰いとめなければならない。
が、遠い青森からでは手の下しようがない。
東奥日報社を出ると一同黙々と官舎に向かって歩いた。
これまで味わったことのないみじめな気持ちの、青森市内からの帰り路である。
これがふだんであったなら、この時間、このコース、この顔ぶれでは、このまま官舎に帰りはしない。
ちょっとコースをずらして華街である浜町の料亭に寄り、若い妓を集めては、酔いに痴れて、
惚れたのどうのと、ひとしきり陽気にさわいで帰る寸法になったことであろう。
旅団長の宿舎から東奥日報社に寄り、三々五々雪道をたどってきた一同は、
また小岩井少尉の部屋にたまった。
ただ二三人だけが容易に帰ってこなかった。
案じていると、これがかなりむ遅れて、雪をはらって、部屋にきいってきた。
途中善知鳥神社に寄って、皇軍相撃の不祥事のないよう祈願してきたという。
神信心などとはおよそ縁のない連中だけに、ふだんなら、ひやかしてやりたいところだが、
それだけにかえって暗然とさせられる思いだった。
皇軍相撃を防ぐにはどうすればよいか。
思い思いの案が出たが、どうすることもできなかった。
旅団長の宿舎に電話をして、これに対する善処方を依頼したが、電話口に副官が出て、
旅団長は疲れて寝に就いたという。
師団司令部に電話したが、これも参謀が出て、そっけない挨拶だった。
やむなく陸軍大臣宛 「 行動隊を窮地におとしいるべからず 」 とかいった 文面の電報を打った。
窮地に追いやらなければ蹶起部隊も、やぶれかぶれの行動にでまいと思ったからだった。
われわれ全員を東京に派遣してくれれば、皇軍相撃を必ず防いでみせる、
蹶起部隊を説得してみせる、説得功を奏しない場合は、皇軍相撃のあいだに立って、
双方の撃ち交わす弾によって死ぬまでのことと、一同、真剣に考えて、
これを旅団長、師団長に意見具申したのであったが、
もうこのことをわれわれと一緒に考えてくれる旅団長でも師団長でもないことがわかった。
行動隊を窮地に云々の電報は、このときせめてもの気安めに打ったものに過ぎなかった。

末松太平著 私の昭和史 から
次頁 末松太平大尉の四日間 3 へ 続く


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