あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

十一月二十日事件をデッチあげたは誰か

2018年03月10日 08時34分03秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

十一月事件とその摘発
昨年十一月中旬、
在京青年将校及士官候補生若干名が、不穏の企図をなしあるやの疑ありしを以て、
厳正調査のため軍法会議において関係者を取調べたり。
その結果によれば、
これ等将校及士官候補生は予てより、我国の現状は建国の理想に遠ざかり、
宿弊山積し国家の前途憂慮すべきものあるを以て、速やかにこれを刷新改善して、
我国体の真姿を顕現せざるべからずとの考を懐き、これに関し談合連絡をなしたることあり。
然れども、不穏の行動に出づるの企図に関しては、
徹底的に取調べたるも、その事実を認むべき証拠十分ならず、

軍法会議においては本件を不起訴処分に附したり。
然るところ、これ等青年将校及士官候補生の言動において、
軍紀上適当ならざるものありたるに因り、それぞれ適応の処置を講じたり

これは、昭和十年四月四日、陸軍省当局の発表した、
いわゆる十一月事件の内容であるが、これだけではなんのことかわからない。
林陸相の粛軍企図の途上に発生した十一月事件とは、
昭和九年十一月二十日、
村中孝次大尉、磯部浅一一等主計、片岡太郎中尉、
それに陸士在学中の士官候補生五名が、
臨時議会開会前後を期してクーデターを企図していたとして検挙されたものである。

その計画の内容とは、次のようなものであった。
一、
襲撃目標
第一次、
齋藤実、牧野、後藤文夫、岡田、鈴木、西園寺、警視庁
第二次、
一木、伊沢、湯浅、財部、幣原、第一次目標襲撃後、首相官邸に集合、
更に第二次目標襲撃に向う予定
二、決行時期
当初臨時議会前の予定としありしも、
臨時議会中又は通常国会の間に決行することに延期したりやの聞込あり
三、
首謀者と認むべき者及び参加者
軍部側 
陸大―村中  砲一―磯部  戸山―大蔵  戦車二―栗原  歩一―佐藤竜雄
歩一―村田  歩一―佐藤操  歩三―安藤  近歩三―飯淵  歩一八―間瀬淳三
地方側 西田税
歩兵学校補備教育中の左記将校
歩三八―鶴見  歩三―北村  歩一三―赤座  歩七三―池田
歩五―鈴木  歩二五―高橋  歩三一―天野  外氏名不詳数名
四、
実行方法
歩一両佐藤 二コ中隊―斎藤
歩三大蔵、村田―一コ中隊―後藤
近歩三飯淵、磯部―二コ中隊―牧野
                     一コ中隊―岡田
           鈴木、間瀬―不詳―西園寺
陸士予科―片岡  戦車三台―首相官邸
戦車二台―栗原  戦車七台―警視庁

だが、このクーデター計画は、たいへん杜撰なもので、
その頃の革新将校なら誰でも口にする月なみ的なもので、
実現性に乏しく実行の具体性に欠くものであった。
だから、この事件が起こったというよりも、起されたというのが正しい。
むしろ私は、
青年将校弾圧のためにデッチ上げられた架空のクーデター企図だった
と信じている。


陸士中隊長には辻政信大尉がいた。
辻は後年、”辻参謀”で有名な彼だ。
陸大恩賜組の秀才、
第一次上海戦では、中隊長として出征し勇名を馳せたのち参謀本部勤務となったが、
自ら志願して異例の陸士中隊長となった。
もともと陸士の中隊長は生徒の訓育をあずかる。
したがって、智能の才子よりも円満篤実な人格者を求めることが多く、
彼のような陸大出身者を迎えることはめずらしいことだった。
彼が何を目的に、わざわざ参謀修行をやめて、陸士入りしたのか、
三笠宮の御在学のためともいわれていたが
中隊長として彼は生徒達には人気があった。

その頃、陸士生徒の中には国家革新に血道をあげていた僅かな人々がいたし、
お隣りの陸士予科には区隊長で片岡太郎という皇道派の中尉がおり、
革新候補生を指導していた。
むろん、これらの革新生徒は外に先輩を求め
当時陸大在学中だった村中大尉のところにも出入りし、その啓蒙を受けていた。
この革新生徒のリーダー格に武藤候補生がおり、
その武藤の親友に佐藤勝郎という候補生がいた。
この佐藤は陸軍少将とかの遺児で、なかなか、しっかり者だったが、
その中隊長が辻大尉だった。
辻は、佐藤が親友武藤候補生の革新運動に深入りしているのを救うとする
青年の客気と純真さを利用して、
佐藤を革新運動に擬装参加せしめて、青年将校運動をスパイさせた。
辻の指示に動いた佐藤は、
もっともラジカルに、武藤の出入りする村中大尉にぶつかり、
直接行動のたくらみを捉えようとした。
数回の訪問で、佐藤、武藤それに佐々木、荒川、次木の五人組は、
一応クーデター計画なるものを、村中から打ちあけられた。
それが十一月十一日の日曜日だ。
もちろん、佐藤はこれを辻に報告している。
さらに、そのクーデターの時期をたしかめるため、
次の日曜日十一月十八日村中宅を、他の三人の候補生と共に訪ね、
しつこく村中にくい下って時期の明示を迫った。
丁度十一月事件二十八日から
第六十六臨時議会が開催されることになっていたので、
この臨時議会の機に、クーデターにでるかどうかを確めた。
もちろん村中は臨時議会には間に合わなくてやれないといった。
佐藤は帰校後、この顚末を辻大尉に報告した。
辻は、早速、憲兵司令部部員塚本誠大尉に、村中らのクーデター陰謀を知らせ、
また、参謀本部の片倉少佐にも連絡した。
塚本は、辻とは幼年学校以来の親友であり、片倉は辻の師事する同志的先輩だった。
辻は翌十九日、
佐藤候補生から、その入手したクーデター計画なるものの詳細な筆記報告を求め、
これを携えて、片倉少佐に詳報した。
そこで辻、片倉、塚本の間にどんな協議が行われたかは不明だが、
十九日、塚本は片倉少佐を訪ねて事件の概要をきき、
これを憲兵司令部警務部長城倉義衛大佐に報告したが、
さらに、片倉少佐を訪ねて、同少佐から事件の詳細を聴取した。
ここで気のつくことは、この情報の中心は辻ではなく片倉であったということである。
片倉のところでこの情報が整理されてから、
外に流されていることを、はっきり認識しておく必要がある。

デッチあげたものは誰か
この夜九時頃、
憲兵司令部では田代憲兵司令官以下部課長参集し、
塚本大尉の報告に基いて対策が協議され、
二十日午前三時すぎ、村中、好さ邊らの検挙をほほ決定した。
ところが、塚本は午前三時頃、
辻大尉を訪ね、相携えて片倉を訪問会談したあと、
三名同道で橋本陸軍次官を官邸に訪ね、事件を報告緊急逮捕を要請した。
こうして二十日早暁、村中、磯部、片岡の三名の検挙となった。
だが、この事件の発覚から検挙に至るまでには、奇々怪々な事実が多い
1、
辻大尉はなんの必要があって、
部下の候補生を使って青年将校のクーデター計画を知ろうとしたのか、
他の候補生を革新運動から救出するには、もっと他にたしかな策がある筈だ。
あえて、候補生を使ったことは、
身、いやしくも陸士の中隊長としては不謹慎のそしりは免れないが、
それよりも、そこに、何かのたくらみが、始めから存在したのではないかと疑われる。
ことに、佐藤を使って、ことさらに直接行動の存在をたしかめさせていることは、
益々この疑を深くするものがある。
2、
辻は、すでに十一月十一日、この内容を知っている。
だが、何等の処置にでないでおいて十八日、さらに、これを確認せしめ、
特にクーデター発起の時期を執拗に聞き出さそうとした。
もし、これが善意であるならば、当然に十一日、その処置を当局に要請するのが常識である。
なぜ、十八日に至るまで、この情報を温めておいたのか。
とりようによっては、臨時議会の期日に近く暴露することを狙ったと考えられる。
臨時議会に近ければ近いほど、
当局に緊急逮捕を要請するに都合がよく、かつ効果的であるからだ。
3、
辻は中隊長としての職責をもっている。
陸士における事故は、即刻にその上長たる生徒隊長に報告するよう義務づけられている。
にもかかわらず、塚本や片倉に注進した、それだけではない。
自らこれら二人の同志と共に、深夜陸軍次官を訪ねて、緊急な逮捕を要請した。
陸士生徒隊長北野憲造大佐は二十日、
陸軍省の命令で関係候補生の調査を命ぜられて、事を知っている。
これはどうしたことか、当時教育総監は真崎大将であった。
学校当局に報告することは教育総監に通じられて、
この弾圧の企図が崩れることをおそれての処置ではなかったか。
4、
辻が事件を報告した片倉少佐は、
前の参謀本部第二部第四班長で、国内情勢に関し情報を集め、
情勢判断することを任務としていたが、その頃は軍事課員で司直の人ではない。
また、塚本は憲兵だったが、憲兵司令部部員で第一線勤務者ではなかった。
事件を申告するならば東京憲兵隊になすべきだ。
だが、東京憲兵隊は皇道派の持永少将が控えている。
下手に連絡すれば握り潰されると考えたのかもしれない。
しかし握り潰されるようなものなら、
始から容疑事実そのものがあやしいといわねばならない。
5、
軍法会議は徹底的に調べたが、
不穏の企図に出ずべき事実は、証拠が十分でなかったといっている。
事実、計画参加者としてあげられた人々は、全く寝耳に水に驚いた。
こうした企みは全くなかったからである。
村中は、佐藤の強引な喰い下がりに、始から佐藤を疑った。
余りにも実行計画のみを知ろうとした佐藤の態度をいぶかったが、
クーデター計画を話してやらねば、彼らは離れて勝手な行動に出ることを恐れた。
そこで、これがばれても問題にならぬことを計算に入れ、あえて月なみな、
革新将校なら誰でも口走る内容を伝えた。
ところが村中の話さないことが密告されたクーデター案には書かれていた。
例えば、計画には、歩兵学校補備教育中の将校を使うことになっているが、
その学生たちは、すでに十一月十五日卒業帰隊して千葉にはいなかった。
また佐藤操、間瀬淳二 この二人が参加することになっているが、
この二人はすでに二、三年前に満洲に転じて内地にはいなかった。
その他、鶴見、赤座、田尻、戸次らの名は、村中はかつて口にしたことがないのに、
ちゃんと参加することになっている。
これは、他に書き加えたものがいる。
それは、国内情報ことに青年将校の動向を知っている
片倉少佐を措いて外にないということになる。
すなわち、
いうところのクーデター計画は、
片倉のところで整理され、彼によって新たに加筆されたのである。
以上のように、この摘発はデッチ上げによるものだった。
 
だから村中は、刑務所に収容中、辻、片倉を誣告罪で告訴し、
磯部も刑務所から開放されると、片倉、辻、塚本の三人を誣告罪で訴えた。
村中は再三再四、
誣告罪による取調べを開始するよう当局に要請したが、何の反応もなかった。
彼等は四月出所と同時に行政処分としては再局限の停職処分をうけた。
停職になると六ケ月は復職はできないし、
そのまま一年たてば自然に予備役に入ることになっていた。
彼等は停職中の五月頃、三長官に対し、粛軍に関する意見書を出し、
その中で、誣告罪の取調開始を訴えた。
だが、これも梨の礫だった。
とうとう村中、磯部は、七月上旬、
「 粛軍に関する意見書 」 と 題する小冊子を印刷して全軍にばらまいた。
いかった軍当局は、彼等を免官にしてしまった。
虎を野に放ってしまったのである。
だが、十一月事件および これに伴う陸軍の処置は拙劣だった。
なぜ、誣告罪の審理をやらなかったのか。
軍法会議が証拠不十分ならずとして不起訴処分にした以上、誣告罪の疑も十分の筈、
皇道派の弾圧に急して、統制派の不純策動を不問にしたのは、
どのような理由があったにしても、軍の粛軍態度ではなかった。

この事件を契機として陸軍は大揺れに揺れて、二・二六の破局に至るのであるが、
その原動力は、村中と磯部であった。
野に放たれた虎は青年将校を駆って、暴れに暴れた。
相沢事件後、陸相の任についた川島大将は、
彼等の懐柔策として、村中、磯部の外国留学を考え、
山下少将その他の民間人を使って、彼等を打診したと伝えられていたが、
時はすでに遅かった。
すでに彼等は錚々たる革命の闘志となっていたのである。
林陸相の下、明智をうたわれた永田軍務局長にして、この過失があったことは、
くれぐれも残念なことと思われる。

遺憾なことといえば、この場合の憲兵の態度である。
憲兵はこの不純な検挙に強引に引きずられている。
当面の治安責任者たる東京憲兵隊は、たとえ皇道派憲兵との負い目は感じていても、
中央において検挙をけっていしておいて、
これを実施部隊に形式的に捜査のかたちをとらせようとした企図に、
なぜ反撥して合理的な捜査を推進しなかったか、
部内混乱の動機をつくったとすれば、
当初における憲兵の処置の不当は、大きく非難されねばならない。   


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