あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

青森聯隊の呼応計画 『 将校がたが起つなら、おれたちも・・・・』

2018年03月29日 15時49分05秒 | 末松太平

昨年秋、私は岩木山麓の旧八師団野営地跡の山田野開拓団を訪ねた。
といっても開拓団はすでに農協に変貌しており、開拓団長は農協組合長と名称をかえていた。
私が訪ねた先は、この組合長だった。
彼が二 ・二六事件当時、同じ青森聯隊にいた葛西曹長だったからである。
葛西曹長は、その後累進して少尉になり終戦を迎えるわけだが、
帰郷すると、もともと農家育ちだったから、近くの山田野開拓団に加わった。
野営地は、大抵荒蕪地と相場がきまっている。
山田野の原野も例外ではなかった。
そこで営々二十年近く、彼は苦闘してきたのである。
所得格差が云々される東北の農家のなかでも、
更にそれのいちじるしい営農に、彼は耐えてきた。
私は葛西組合長とは二 ・二六事件以来会っていない。
三十年ぶりの再会だった。
古軍服姿の彼と私は、積もる話の山を互いにくずしていった。
その途中で卒然と彼は
「 あのとき、将校がたが起つならわれわれも一緒に起とうと、
 下士官集会所に集まって気勢をあげたものでした 」
と感慨をこめていった。
当時青森聯隊の下士官たちが、われわれと行動をともにしようと、
よりより協議しているという話は、おぼろに私の耳にしていた。
しかし、それはおぼろのまま過ごしてきて、このときまで確めたこともなかったし、
確めようともしなかった。
それだけに彼のこのことばは、私にとっては鮮烈なものだった。
朴訥で真面目一方だった彼の下士官時代のことを知っているだけに・・・・。
二 ・二六事件を私が知ったのは、二月二十六日朝の九時頃だった。
当時東奥日報の記者だった現青森県知事 竹内俊吉が、電話で知らせてくれた。
蹶起した東京の同志の誰からも事前の連絡は何もなかった。
寝耳に水で、どうこれに対処していいか見当もつかなかった。
『 私の昭和史 』 に書いたとおりである。
当時将校がたが起ったら、おれたちも・・・・と下士官たちが自発的に協議したということも、
考えられていい、昂揚した雰囲気だったということである。
が 起つとは、どういうことか。
部隊を率い、東京に馳せつけることか。
県庁でも占領して東京に呼応することか。
われわれ青年将校の中にも、そういったことを提案したものがいたのだから、
下士官たちも同じようなことを考えていたのだろう。
東京の事件が撃ち合いもなく、おさまった翌日、
雪道で行き合った兵営前の筒井小学校長は、私に
「 県知事が五聯隊が県庁を占領しにきても、
 各自は自分の持場を離れないように訓示したそうです 」
と告げた。
竹内記者のもとに
「 君は五聯隊の若い将校と仲がいいから、生命だけは助けてくれるようにいってくれ 」
と哀願しにきた日頃 傲岸ごうがんな代議士もいたし、資産家もいた。
われわれは当時、大なり小なり 「 起つ 」 という形式しとらず、
聯隊長、旅団長と、統帥の順序をふんで、折角の東京の蹶起を無駄にしないよう、
これを契機に、軍中央部が国家革新に踏切るよう師団長から意見具申してもらう道を選んだ。
この行動が、あとで 「 叛乱者を利するの罪 」 になるわけだったが。
当時の葛西曹長たち下士官は、満州事変
をともに戦ったわれわれの戦友だった。
格別革新教室を開講したわけでもなかったのに、疲弊した農村出の彼らは、
それの救済を国家的に企図するわれわれに、知らず識らずのうちに信頼を寄せていたもののようである。
それが 「 将校がたが起つなら、おれたちも・・・・ 」 の自発的協議となったわけだったのだろう。
山田野農協は世帯数七十余。
水利がないため米作はできず畑作だけである。
酪農の道もまだ遠い。
農地は各戸五ヘクタール平均はあるが、葛西組合長のうちの粗収入は、年三十万くらい。
そのなかから、開拓資金の返済金十万を、今年から払わなければならないといっていた。
それでも近々、県で井戸を掘り、水利の便を図ってくれることになっているからと、
彼は明るい顔でいっていた。
私は途々、あのとき若し何等かの形で起つていたら、
昔にかわらぬ、この朴訥な組合長をも、どの辺かまで、
あわれな道づれにしたことだったろう。
それをしないでよかったんだな、と思いながら、
このとき岩木山を背に、山田野から去っていったのだった。
1965 ・2

末松太平著 
軍隊と戦後のなかで  から


この記事についてブログを書く
« 悲哀の浪人革命家 ・ 西田税 | トップ | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官... »