あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

後顧の憂い 「 お前は必ず死んで帰れ 」

2017年11月16日 12時29分32秒 | 後顧の憂い

昭和七年 ・満州事変

 
・・・新民の東方部に匪賊がしんにゅうしているとの情報で、討伐袋は夜中に臣民を出発した。
渡満後、はじめての討伐だった。
まだらな雪が夜目にも白い凍土をふんで、目的地に近づいたころは、まだ薄暗かった。
はだかの楡樹にれにかこまれた部落は静まりかえって、
こんな部落に果して匪賊がひそんでいるだろうかとあやしまれた。
部隊を停止さして 部落をうかがっていた討伐隊長の英雄中隊長は、そのとき突然、
「 歩兵砲射撃!」
と 歩兵砲隊長の私に射撃を命じた。
私は
「 匪賊がいるのですか 」
と きいた。
英雄中隊長は、
「 いるか、いないかわからぬから射撃するのだ 」
と いきまいた。
私は
「 遺族がいるかいないかわからぬのに射撃しては、部落の良民をただ傷つけることになる 」
と いってきかなかった。
英雄中隊長は、このとき持っていた例の扇子を構えて、
「 満洲にきて良民と匪賊を区別していては戦争はできやしない。
討伐隊長命令!  歩兵砲射撃!」
と、どなった。
戦争馴れしたもののいいそうな台詞だった。
私に向ってより、随行した新聞記者に向かっての見得のようだった。
さほど いい争うほどのこともなかった。
面倒臭かった。
部下に軽く実戦の手馴らしをさせるのに、いい機会だと思いかえした。
わざと部落を外して、二門の曲射砲に五 六発ずつ、つづけさまに撃たした。
討伐隊長は 一、二発、さぐりに撃たすつもりだったらしい。
暁暗の空をいろどって、バッパッパッと火の手があがり、つづけさまに十数発の爆音がとどろいた。
荒涼とした満洲の広野を渡る実弾の音は、
小さな歩兵砲のものとは思えぬほど意外に大きく爽快だった。
討伐隊長の
「 そんなに撃たなくてもいいのだ 」
という、あわてたきんきん声は、この爆音に消されてしまった。
この射撃で部落のなかから、バラバラと馬に乗った匪賊らしいものが走り出して、
シルエットを、あがる火の手にうつして、地平線に消えていった。
あわてて小銃部隊や機関銃隊が射撃した。

ちょうどそのころは、
出征兵士の郷里である農村は、冷害による凶作にさいなまれていた。
最近の冷害に強い稲の品種が現れるまでは、
親潮寒流の流れぐあいで、宿命的に何年かに一度は冷害による凶作から、
青森県農民はまぬかれることはできなかった。
ただでさえ貧困な農家出の兵士が多かった。
そこに凶作と出征が かちあった。
出征兵士の後願の憂いは深かった。
・・・
困窮のすえは常識では考えられない、
ひどい手紙を出征兵士に送る親もいた。

「末松君、この手紙の意味をどうとればよいかね」
と、隣りの中隊長が私に見せた手紙など、その一例だった。
それには
「お前は必ず死んで帰れ、生きて帰ったら承知しない」
といった意味のことから書き出してあった。
もちろんこれだけの文面なら、
十分働いて、死んで護国の神となれ、
とは出征兵士を励ます聞き馴れた文句である。
しかし、これはそれとはちがっていた。
隣りの中隊長が思案に余って私に訴えるはずのものだった。
つづけて
「おれは お前の死んだあとのの国から下がる金がほしいのだ」
といった意味のことが書いてあった。
この手紙の受取り主は真面目な兵だったが、
泣いてこの手紙を中隊長に差出したのだった。
「この親は継父じゃないですか」
と 私は聞かざるを得なかった。
「いや、実父に間違いない」
と 中隊長は愁い深く答えた。
が、しかしこの親の希望は、それから間もなくかなえられた。
次の討伐でこの兵は戦死したからである。
しかもそのときのただ一人の戦死者だった。
手紙のことを知らないはたの戦友は、
「昔からいわれている通り虫が知らせたんだな」
といっていた。
ほかの兵にくらべて、
一きわめだって身の廻りが綺麗に片付けられてあったから。
・・・りんく→東北大飢饉 (二) 「 国のために勇敢に戦って、いさぎよく戦死しろ 」

戦死者に下がる金にからまる、こういった問題は、この兵士に限らなかった。
あとから師団主力と共に渡満した将校が、
この問題についての留守隊づとめの辛さを折にふれて話していた。
戦死者がでて満州から遺骨が還送されると、
留守隊では遺族を招いて、営庭で慰霊祭を行うのだが、
それがすんで遺族のなかの誰かが遺骨を抱いて一歩営門を出ると、
きまってそこで親戚間で遺骨の争奪戦が、見得も外聞もなくはじまる。
そのたびに、
それを仲裁するのが予期しなかった留守隊将校のつとめとなるのだったが、並大抵の苦労ではない。
これも、もちろん
遺骨を祀る名誉のためでなく、遺骨に下がる金が目あてのものだけに、
留守隊に残った将校は、戦地のものが味わう苦労とちがった苦労をさせられるわけだった。
戦死者がでると、改めて留守家族の事情をしらべる。
大抵貧困だった。
意地悪く、弾丸は貧困な家庭の兵から、
選り好んであたるのではあるまいかとさえ、ふと思うことがあった。
が 考えてみれば、どの出征兵士の家庭も一様に貧困だったのである。


末松太平 著
私の昭和史  から


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