あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

反駁 ・ 末松太平へ西田税からの傳言 『 出る工夫をせよ 』

2020年08月07日 17時58分32秒 | 反駁 3 後事を托された人達 (公判狀況)

・・・前頁  反駁 ・青森聯隊 「 師團は我々と共に行動する體制にあり 」 1 の 続き

第四回公判狀況
二 ・二六事件公判狀況ニ關スル件報告 ( 第一公判廷 )
昭和十一年十月十六日

十月十六日午後零時五十分被告 末松太平、志村陸城、杉野良任、片岡俊郎 出廷、
仝一時五分若松裁判長以下着席、直チニ開廷ヲ宣スルト同時ニ、
本日午前九時当軍法會議ハ前回告示シタル證人宮川中佐、結城少佐、中川少ショウ喚問取調ヲナシタル旨ヲ告ゲ、
被告關係事項トシテ、
1、宮川中佐ハ歩兵五ニ着任以來日淺ク、二月二十五日ヨリ三月一日迄ハ出張中ノ爲メ、
  事件ニ關係セズ、被告ノ證言トナルモノナシ。
2、結城少佐ハ
  當時聯隊副官タリシヲ以テ、當時ノ狀況ニ就イテ、
「 谷口中佐ガ被告等ヨリ意見具申ヲ受ケテ随分苦シンデ居タ様デアル。
弘前行キヲ許可シタノモ昭和維新等ニハ關係ナク、弘前ニ聯隊長ガ出張中ナノデ、
聯隊長ヲ通シテ或程度意見具申ヲスレバ飛出ス様ナコトハナイト思ツテ、靑年將校ヲ壓ヘル目的デ許可シタノデス。
當時聯隊ゼンブノ空氣ハ昭和維新ヲ迎望シタト被告達ハ思ツテ居ルカモ知レヌガ、ソレハ過信ダト思ヒマス。
然シ乍ラ 師團 旅團長ハ極メテ冷靜デ前後ノ批判ヲ加ヘマセンデシタガ、
聯隊長ハ今回ノ事件ハ重大不祥事件デアル、
コノ事件ニ依ツテ社會惡ノ總テヲ清算シナケレバ不可ナイト言ツテ居ラレマシタガ、蹶起ノ準備等ハ致シマセン。
二十七日旅團司令部ヨリ歸隊シテ附中佐、大隊長、副官ヲ集メテ
今後靑年將校ヲ如何ニ指導スルカニ就イテ協議ヲ致シマシタガ、結論トシテ、
「 此ノ際モ本事件ヲ契機トシテ社會惡ヲ除去スルコトハ必要ダガ、吾々ハ輕擧妄動シテハ不可ナリ。
靑年將校ノ意見具申ハ充分之ヲ聞イテ上司ニ達スルモノハドンドン達シテヤラナケレバナラナイ 」
ト 言フコトニナリマシタノデ、此ノ決心ハ最後迄間違ヒハアリマセン。
其他電報發進ヤ橫斷的ニ聯絡シタコトハ事件後知ツタ事デ、上司ガ承諾シタモノデハアリマセン。
上申書ニ私ガ署名シナカッタノハ、内容ガ政治ニ亘リ 且 過激ナ部分ガアッタノデ、
之ガ陸軍大臣迄届イテモ結果ガ惡イコトヲ知ツテ居ツタノデヤメマシタ。
谷口中佐ハ靑年將校ヲ壓ヘル目的デ署名シタ事ト存ジマス。
私個人ハ本事件ヲ最初ヨリ不祥事件ト思ツテ居ルノデ之ヲ支援スル様ナコトハ致シマセン 」
ト 當時ノ狀況ヲ述ベ、
最後ニ被告ニ有利ナル隊務ノ成績、正義感ノ動向、思想的聯絡者ノ點ニ就イテ詳細ニ陳述セリ。

3、中川少佐ハ
當時旅團副官トシテ勤務中ニシテ、
前四被告ガ陳述シタルガ如キ、師團、旅團長ノ決心ナク、
如何ニシテ靑年將校ヲ壓ヘルカニ就イテ心配シテ居ラレタガ、
單ニ上申書ハ普通ノ書類ト同様ニ考ヘテ盲判ヲ押シテ師團長ニ提出セリ
ト陳述、
被告ニ不利ナル證言セリ 。ト 證言ノ模様ヲ單簡ニ提示シタル後、
法務官ヨリ 末松太平ヨリ證據調ニ遷リタルガ、被告ニ不利ナル證據ヲ只今ヨリ提出スルト稱シ、
第一ニ豫審調書、憲兵ノ訊問調書ヲ讀聞ケタルガ、
之ニ對シタハ各々前回公判廷ニ於テ陳述シタルト同様ニ叛亂ヲ利スル目的ニ非ザル點、
電報竝ニ上申書ハ昭和維新ノ迎望ニシテ統帥ヲ紊リタルモノニアラザル點ヲ志村、杉野共ニ反駁シタリ。

次イデ、證人元附谷口中佐ノ訊問調書ヲ讀聞ケタルガ、其要旨ハ、
谷口中佐
「 私ハ昭和九年八月當隊附トナリマシタガ、
着任早々 聯隊長ヨリ當隊ノ靑年將校ハ思想的ニ極メテ指導困難ナ処デアルカラ
充分注意シテ頂キタイト依頼サレテ居タノデ、随分苦労シテ居リマシタ。
元相澤中佐ガ大隊長トシテ勤務、大岸頼好ガ相當思想的ニ啓蒙シテアルノデ、
其内最モ濃厚ナルモノニ亀井、末松兩大リョウ
此ノ
二人は直接行動ヲ否認シツツ靑年將校ヲ啓蒙シ
壓ヘテ居ルカラ間違ヒハナイト思ツテ居リマシタガ、
事件ガ起キルト同時ニ師團長ノ下ニ意見具申ヲシタイト申出テ來マシタノデ随分困リマシタガ、
結局コンナ重大問題ヲ私一人デ決裁スベキモノデナイト思ツタノデ許可ヲ与ヘテ弘前ニヤリマシタガ、
被告等ノ言フ昭和維新ヲ迎望シテ賛成シタ譯デハアリマセン。
勿論今回ノ事件ニ依ツテ社會惡ヲ一掃シ、
上司ノ言フ皇道派ト幕僚ファッショト言フガ如キモノノ對立ヲ防ギ、
皇軍一體トナリテ進ムコトハ希望シテ居リマスガ、被告等ノ様ニ上京シテ行動隊ニ入ルトカ、
上層部ニ要請スル様ナコトハ考ヘマセンデシタ。
電報打電ノ件モ、上申書ノ件モ共ニ靑年將校ガ谷口ヲ唯一ノ上司とシテ信用シ、
谷口中佐ノ言フコト丈ハヨク聞ケト言フ風ニナツテ居ルノデ、茲デ私ハ署名シナカツタリ、
電報ヲ取止メサセタナラバ直ニ怒ツテ飛出スコトハ明ナノデ、之以外ニ手段ハナカッタノデス。
勿論上申書中ニハ政治問題ニ触レタ部分、電報中ニモ如何カト思フ部分モアッタガ、
之ガ爲メニドウコウト言フ程ノ問題ハ起キナイト思ツテ居ツタ點ハ幾分淺墓ダツタト思ヒマス。
元來、靑年將校ハ壓迫シタナラ必ズ間違ヲ起ス基にナルノデ難シイノデス。
法務官殿ガ言フ様ニ演習ニ出ストカ拘禁スル様ナコトモ出來まセンデシタ。
聯隊全部ノ空氣モ別ニ行動隊ヲ支援シナケレバト言フモノハ一人モアリマセンデシタガ、
何ントカシナケレバ不可ナイ、
殊ニ若イ中少尉ハ軍服ヲ脱イデモ上京スルト言フモノガアツテ困ツテ居リマシタガ、
其後直接行動者ハ叛亂軍トナリ、上司ノ監督モ嚴重トナツタノデ其儘納マツタ様デアリマシタガ、
末松、志村、杉野、亀井、小岩井 其他數名ノ靑年將校ハ
処分サレテモ止ムヲ得ナイ程ノ行動ヲトリマシタ故、
何トモ申譯ナイト思ツテ居リマス。
私ハ勿論昭和維新モ皇道派モ解リマセン故、支援スルコトニナルト言ハレレバ已ムヲ得マセンガ、
私ノ目的ハ全ク靑年將校ヲ壓ヘル以外ニ何物モアリマセン 」
トノ要旨ヲ讀聞カセ、
次イデ 聯隊長、旅團長、師團参謀長 ( 師團長ノ命ニ依リ上京シタルモノ ) ノ
證人トシテノ訊問調書ヲ讀聞ケタルガ、
何レモ
本件ヲ機會ニ社會惡ヲ一掃シテ 
皇軍モ
對立關係ヲ除去スル如ク上層部ノ一大英斷ヲ希望シアリタルガ、
陸軍大臣ニ對スル上申書モ、戒嚴司令官アテノ師團長ノ電報モ、參謀長ノ上京モ、
秩父宮殿下ニ對シ奉ノ御上京ヲ言上シタルコトモ、
靑年將校ノ意見具申ヲ容レタルコトハ各官自身モ之ヲ認メ居ルコトハ勿論、
靑年將校トハ全ク思想的ニ相異ニシ、昭和維新具現ノ爲ニアラズ、
専ラ彼等ヲ壓ヘツツ処理シ來タリタリト 被告ニ不利ナル證言ヲ爲シ、
最後ニ被告末松ハ
思想的ニ一ノ信念ヲ有シ
直接行動ヲ否認シアルガ上官ニ率直ナル自己ノ氣持ヲ具申スルモノニアラズ、
志村ハ實行力ノ伴フモノデアリ、杉野ハ無茶ナ將校デ何ヲヤルカ解カラナイ男デアル
ト 結ビアリ。
之ニ對シ


末松太平 
 >
上司ガ結果ニ於テ惡クナツタカラト言ツテ、
在隊當時
模範將校デアル君達ノ意見ハ正シイ、

俺モオ前達ト同ジク上層部ガボヤボヤシテ居ルカラ コンナ不祥事ガ起キルノダ、
俺モ今ニ上京スル等ト言ツテオイテ、
コンナ不利ナ證言ヲヤルトハ思ツテ居リマセンデシタガ、

然シ乍ラ今更獄舎ニ繋ガレル様ニナツタカラト言ツテ上司ト抗爭スルコトハ好ミマセン故、
勿論上司ノ犠牲ニナリマショウガ、
私共ガ證人通リダトスレバ、
初メカラ即チ豫審カラ嘘バカリ申上ゲテ來タコトニナリマスカラ、
之點承服出來マセン。
私共ノ精神ノ何処迄モ昭和維新
即チ具體的ニ合理的ニ國家革新ヲ此ノ際斷行シテ
斯カル不祥事件ヲ再ビ惹起セシメナイコトニアツタコトヲ御察シ下サイ。
豫審調書以來文句ノ荒イ処ヤ事實ヨリ誇大ニ申上ゲテアル処ハ、
或ルベク上司ニ迷惑ヲカケズ同僚ノ責任モ私一人デ負フツモリダツタノデスカラ、
其點ヲ當初公判廷ニ於テ陳述シタル部分ヲ御採択願ヒマス。
ト 憤然トシテ陳述シ、
如何ニ上司ガ職業軍人的責任回避者デアルカト絶叫シ、
志村ハ、

< 志村 
陸城 >
私ガ實力行爲ヲヤルモノデアルト言フコトハ全然間違ヒデアリマスカラ、
私ガ旅團長ニ貴方モ上京サレテ行動隊ト討伐隊ノ間ニ這入ツテ死ンデクレマセンカト言ツタノデ、
私モ其ノ様ナ男ダト思ハレタノデシヨウガ、當時ノ狀況ハ幾ラ私共ガ熱心ニ御願ヒシテモ、
旅團長ハ
酒ヲガブガブ飲ンデボンヤリシテ居ルノデ、自然語気ガ荒クナツタノデス。
其他上司ハ私共ヲ壓ヘルトハ申シ乍ラ、随分平素カラ私共ノ思想ニ共鳴シテ居ツタコトハ事實デス。
其他ハ末松大尉ト同様デス。
ト 陳述シタル後、
法務官ト豫審調書中ノ直接行動ノ是認ノ部分、思想動嚮ガ國家改造法案ノ思想ト相通ゼザルヤノ部分、
拳銃、軍刀ヲ準備シアリタル部分、電報ノ内容、上申書等ノ部分ヲ蒸シ返シ應酬シ、
一先休憩ニ入リタルガ、再開後直チに證據調ヲ中止スル旨ヲ述ベ開廷ノ旨ヲ告ゲタリ

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・・・青森の聯隊からの証人もきかされたる
いわずもがなのひどい証言だった。
証言を読みきかした若松判士長は 「 隊務だけは熱心だったようだね 」 といった。
それがただ一つのいい証言だった。
証言について意見があるかと若松判士長にきかれたが
私は 「 それでいいでしょう 」 とだけいった。
「 いいでしょうではいかん。君らの希望する証人を呼んでもいいよ。 」
「 いりません。」
あとで、自分ノタメバカリヲ考えず、志村、杉野のこともあるから、
亀居大尉でも証人に呼んでもらったらよかったかなと思った。
何をきかれも、いっても無駄ダト思って、あまり答えない私に、若松判士長は、
「 末松、この裁判はやはり天皇の名においてしているのだから、きかれたことには答えなければいかんよ。」
と腹を立てたようにいった。
「 はア 」
腹のなかでは、天皇の名における裁判ではないと思っていた。
同じ地べたに降りてきての喧嘩なら、判士長以下全員が束になってきても、
負けないのだがなア、とも思った。
が、喧嘩はできない。どうしてできないのか。
それをさせないものが、権力というものかも知れないと思った。
同時に権力というものは、どうしてつくられるものだろうと考えた。
志岐孝人中尉
私たちの公判が終わって、しばらくたって志岐中尉の公判があった。
その前に私は志岐中尉にいった。
「 志岐、なにをいったって無駄だよ。頭を下げてもいいから出る工夫をすることだよ。
  はいっていたって無意味だからね。」
出る工夫をせよは看守を通じての西田税の私への伝言でもあった。
「 いや、いうべきことは、いわなければいけませんよ。私は堂々といいます 」
志岐中尉のいうことのほうが正しかったし、男らしかった。
それだけに返すことばがなかった。
が求刑のあと志岐中尉は、
「 おっしゃるとおりでした。なにをいっても駄目でした。」
と述懐した。
片岡中尉ですら、あくまで合法的にやるべきで、東京のような直接行動は前から反対だった、
と公判廷で述べた。
が、志岐中尉は、東京にいたと仮定すれば、蹶起に参加したか、ときかれて、
もちろん参加した、と答えたという。
志岐中尉は熊本の聯隊だから、公判は鹿児島の聯隊の菅波大尉と一緒だった。
あとできくと、公判の前に菅波大尉も、
私のいったことと似たような注意を志岐中尉にしたらしい。
が、そのときはうなずいていながら、いざとなると強気にでてしまったようである。
あれだけ注意したのになア、とあとで菅波大尉は残念がっていた。
・・・末松太平著  私の昭和史 から


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