緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

2019年度Nコン高等学校の部全国大会(録画)を聴く

2019-12-15 20:31:02 | 合唱
今日、NHKで2019年度Nコン高等学校の部全国大会の録画を見た。
Nコン全国大会は例年10月初旬に開催されるが、今年は台風19号の影響で高等学校の部だけが史上初の中止となっていたのである。
その後、完全取りやめだと思っていたのだが、11月28日に開催されるとの情報を得た。

今まで5年間くらいはずっと毎年、ブロック大会と全国大会の生演奏を聴きに行ったが、今年はブロック大会も全国大会も抽選から外れ、11月28日(平日)の抽選も外れた。
以前は抽選から外れても別ルートで整理券を入手出来たが、去年あたりからそれも難しくなってきた。
なので今年はテレビでの鑑賞となった。
このテレビというのが中国製の粗悪なものなので、音が非常に悪い。
従って、ちゃんとした感想は、CDか、Nコンホームページで動画が公開されてからじっくり聴いて、改めて記事にしようと思う。

今年の課題曲は、作詞:川村元気、作曲:岩崎太整、編曲:横山潤子、「僕が僕を見ている」。
課題曲の傾向は昔のように合唱曲だけでなくクラシック音楽の第一線で活躍している作曲家に依頼するのとは違って、若い世代の、とくにクラシック音楽を職業としていない方に依頼することが多くなっているように思う。
それだけに新しい感覚は感じるものの、正直物足りなさも感じる。

今日、課題曲の詩をホームページを開いて初めて読んでみた。

「僕が僕を見ている 僕は目を閉じている
「眠っているのかな いや死んでいるんだ」
こんな出だしで始まる。

「みんな僕を見ている あいつは泣かないんだな
だけどあの子は 泣いてくれるんだ」
と続く。

そして、
「みんなが 僕のことを話している
あれ? 僕はどんな人間だったんだろう」

この詩の主人公は何らかの原因で死んだのか。
事故か、病気か、それとも自殺か?
魂が肉体から抜け出し、死んだ自分自身を見つめている。
そして自分が生きている間に出会い、日常で交流のあった人たちの自分に対する気持ちを客観的に見つめる。
そして、生きていた時の自分自身がどんな人間だったか、回想する。

人は死ぬとき、または死んだ直後に、自分の人間としての存在価値や生きた証を客観視して、評価しようとするものなのか。
自分を思ってくれる人がどれだけいたのか、自分がこの世からいなくなることを心から悲しむ人がどれだけいたのか、自分は生きている間にどれだけのことをしたのか、自分は他人と比べて価値ある存在だったのか、等々。

この詩を読んで、以前、テレビのドキュメンタリー番組で、自分の生きた履歴を全て抹消し、生きていた時代の痕跡を全て残さず、自分が誰であるかも誰にも分からないようにして自殺した人々の特集をやっていたのを思い出した。
警察は自殺した人を人物画で再現し、公開しているが、この人を特定する手がかりや知っている人が名乗りでることは殆どないという。
年齢層は10代から高齢者まで様々だと言う。

このような人たちはどんな気持ちで死んでいったのだろう。
自分の、この世に生きたという証、存在価値を全て否定して自らの意思で消えるようにこの世を去っていく。
あまりにも悲しい。

自分の存在価値を感じたい、自分が必要とされる人間であることを感じたい。
これは人間の本能であろう。食欲と同じだ。
しかし人間の精神は、このような本能までを否定することが許されている。
こんな残酷で悲しいことが出来るのは、生物の中で人間しかいない。

この詩の最後は、生まれ変わった自分が明るい未来に向かって歩みだす希望に満ちた表現で終わる。
自分の生きた証を抹消して死んでいった人も、来世で幸福になれると信じていたのか。
自分の生きた証を抹消し、消えるように死んでいった人たちの生き様は、評価するに値しないというのだろうか。
そのような人生はあってはならない、と言えるだろうか。

全くピントが外れているかもしれないが、自分としては、この詩を読んでこんな気持ちが湧き起ってきた。
全く、Nコンの感想としては相応しくないのかもしれないが、とにかくもこんな風に感じたのだ。
(いつもこういう方向に脱線してしまう)

さて、まだ1、2回しか聴いていないし、粗悪な音で聴いたので、きちんとした感想は後日として、まずは印象に残った演奏を下記に書いておきたい。

まずは課題曲で印象に残った学校(演奏順)。

福島県立会津高等学校
東京都大妻中野高等学校
東京都豊島岡女子学園高等学校

次に自由曲で印象に残った学校。

北海道札幌第一高等学校
東京都大妻中野高等学校
東京都豊島岡女子学園高等学校

コンクールである以上、賞や順位だけが注目されるが、私は高校生の演奏である以上は、賞など全く関係ないと思っている。
結局は、本当に価値あるいい演奏とは、大会が終っても、何度も何度も長い間(一生?)に渡って聴き続けることの出来る演奏なのだ。
このような演奏と、表面的に上手いだけの演奏との違いは何か。
それは、聴き手の心の深いところ、心の核となる部分にまで届くことが出来るか、ということなのである。
これを実現できるということは並大抵のことではないし、凄いことなのだ。
極端に聴こえるかもしれないが、聴き手の生き方を変えるほどの影響力を与えることすらある。
実際に私はそのような合唱演奏のいくつかに出会ってきた。

こういう演奏は上手いとか技巧がどうのこうのとか、金賞、銀賞いった次元では評価できない。
私が合唱曲を聴き始めてから、ずっと思い、求めてきたのはこのことである。

(ちゃんとした感想は冒頭で書いたように、後日改めて記事で書きたい)

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