緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

鈴木静一作曲 交響詩「比羅夫ユーカラ」を聴く

2014-10-25 21:43:10 | マンドリン合奏
今日も先週の休日と同様、外で過ごすには絶好の好天であった。秋の虫の鳴き声も週の半ばごろは元気がなかったが、今日は勢いを取り戻したように盛んに聴こえる。
数日前の新聞に、旧東ドイツのピアニスト、ペーター・レーゼルと、フランスのピアニスト、ジャン・フィリップ・コラールのコンサートの広告が載っていた。どちらも優れた録音を残した実力派のピアニストである。特にジャン・フィリップ・コラールはフォーレの演奏で、私に決定的な影響を与えた。
しかしコラールのコンサートは平日だ。まず無理である。レーゼルは運よく休日であるが、都合が付けば聴きに行きたい。
クラシックのコンサートは殆どが平日開催だ。働き盛りの年代はまず聴きに行くことはできない。主催者はもっと開催日を考慮してもらいたいものだ。
話は変わるが、1週間前に久しぶりに聴いた藤掛廣幸の「星空のコンチェルト」をきっかけに、今日までの間にYoutubeでかなりのマンドリン・オーケストラの曲を聴いた。
3年前にYoutubeでマンドリン・オーケストラ曲を検索した時よりもかなりの数の動画が追加されていた。
意外に社会人のサークルによる演奏会の録画が多かったが、このマイナーな音楽分野である、マンドリン・オーケストラも心配するほど衰退していたということもなく、むしろ根強い人気を保っていることが分かり、なんだかほっとした。
藤掛廣幸や鈴木静一といった古くからの作曲家の曲も数多くあったが、名前を聞いたことのない新しい作曲家の曲もかなりあった。これらの新しい作曲家の曲も聴いてみたが、現代的、といっても無調音楽では全然なく、ポピュラー音楽を聴いて育った世代が作ったような曲が多かった。
このような曲は確かに聴きやすく心地良さもあるが、私には少し物足りない。どうせ聴くのであれば、いつか紹介した鈴木輝昭の曲のような機能調性を用いない、難解で硬派な曲の方がいい。
結局のところ、聴くうちに藤掛廣幸や鈴木静一の曲に戻ってしまう。
これは恐らく青春時代の多感な年代に演奏したり聴いたりした経験が大いに影響していると思われる。今の若い世代は鈴木静一の曲を聴いても今一つ感じるところはないのではないか。人によっては時代錯誤も甚だしいと感じる方もいるかもしれない。
毎年送られてくる母校のマンドリン・オーケストラの定期演奏会の曲目を見ると20年間くらいは、鈴木静一の曲を見かけることは殆どなかった。時代は変わったんだと思わざるをえない。
しかし藤掛廣幸や鈴木静一の音楽は、聴く人の心に深く刻む何かがあることを感じる。それは「感情的強さ」、と言ってもよいと思う。
今度ちゃんと紹介しようと思うのだが、藤掛廣幸の「スタバート・マーテル」という曲を聴くと、ちょっと形容できないが、脳の中で物凄い感情エネルギーが沸き起こってくる。私の最も楽しかった時代である1970年代の頃に感じたことが蘇ってくるのである。それは未だ日本が美しく、活気に満ちていた時代である。
今日紹介する鈴木静一の曲「交響詩 比羅夫ユーカラ」も強い感情を想起させる曲だ。
鈴木静一のことはこれまでこのブログで紹介したことがあるので、詳細は割愛させてもらうが、マンドリン・オーケストラ曲だけでなく、映画音楽やテレビドラマのBGMも数多く手がけた職業的作曲家でもあった。
鈴木静一はギターにも造詣が深く、ラベルのボレロの編曲譜を見た時などは感心したものだ。
編曲ものといえばめずらしいものに、グラナドスのスペイン舞曲集の「アンダルーサ」や「ホタ」などもあり、「アンダルーサ」はマンドリン合奏のみならずギター合奏用にも編曲されている。
あと数年前に鈴木静一のギター独奏曲があることを発見した。「哀唱」という曲名だが、楽譜は見つけられていない。
今日聴いた「比羅夫ユーカラ」は北海道の原住民アイヌの悲しみの気持ちを表現したものである。
比羅夫とは北海道のJR函館本線、ニセコ駅の隣にある「比羅夫」という無人駅を降りたところにある。函館本線も小樽を過ぎると単線になり、観光地も少ない過疎地帯になる。ニセコ、比羅夫を過ぎ、倶知安に着くと昔ここから伊達紋別まで胆振線という路線があった。大学時代のある夏のこと、大学のマンドリン・オーケストラの夏合宿に行くため朝起きたら、寝坊してしまい、貸し切りバスの発車時刻に間に合わず、後から当時の国鉄を使ってこの胆振線を経由して合宿所に向かったことがあった。この胆振線から見る車窓が実にきれいだった。そこは北海道でも過疎化している寂しいところであったが、何も開発されていない素朴な美しさがあった。
横道にかなりそれたが、北海道がまだ「蝦夷地」と呼ばれていた頃に、本州から蝦夷を征服するために大軍が送られ、その船団の勇ましさや、それに抵抗し続けたアイヌの苦しみ、そしてついに強き者に支配され滅びていく運命を背負わざるをえなかったアイヌの悲痛な気持ちがこの曲で歌われている。
中間部から後半にかけてとても寂しく悲しい旋律が続く。そして時折挿入されるソプラノの独唱はアイヌの悲痛な叫びをあらわしたものであろう。
最後のクライマックスは鈴木静一らしい華やかなものであるが、最初に聴いたときはここで終わるものだと思った。しかし曲はここでは終わらなかった。先のソプラノの悲しい独唱とギターの暗い響きがしばらく続き、最後は静かに終わる。それは何の罪もなく、平和でささやかな暮らしをしてきたアイヌ民族が、支配地を拡大しようとする非人間的な野心のために全てを失い、滅亡せざるを得なかった悲しみの気持ちを聴く者に訴え、終わらせたかったからであろう。

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2 コメント

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Unknown (Tommy)
2014-10-26 09:05:18
音楽というもの当時の世相や歴史と深く関連付けられているのですね。これまで音楽とのかかわり合いが少なかっただけにいろいろ勉強させられます。ありがとうございます。
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Unknown (緑陽)
2014-10-26 17:26:19
Tommyさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
鈴木静一の曲には日本の古い歴史をテーマにした曲が何曲かあります。「物語」を題材にした曲もありますね。
聴く側もいろいろ理解することを要求される曲が多いのでしょうが、鈴木静一独特の「歌いまわし」がとても魅力を感じさせます。
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